御書大好き!!

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法華初心成仏抄 その2 全  新693頁

日蓮大聖人御書講義第9巻p220)

ただし、心あらん人は世間のことわりをもって推察せよ。大旱魃のあらん時は大海が先にひるべきか、小河が先にひるべきか。仏これを説き給うには、「法華経は大海なり、観経・阿弥陀経等は小河なり。されば、念仏等の小河の白法こそ先にひるべし」と、経文にも説き給いて候いぬれ。

 

大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳白法隠没と説いているのと、双観経に経道滅尽と説いているのとは、ただ一つ心なり(同じことである)。されば、末法には始めより双観経等の経道滅尽すと聞こえたり。経道滅尽と云えるは、経の利生の滅すということである。色(実際)の経巻が有ることにはよらないのである。したがって、当時は経道滅尽の時に至って二百年を過ぎている。この時は、ただ法華経のみ利生得益あるのである。

 

されば、この経を受持して南無妙法蓮華経と唱えるべきことが明白である。
 薬王品には「後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむることなけん」と説き給い、天台大師は「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」と釈し、妙楽大師は「しばらく大教の流行すべき時に拠る」と釈して、後の五百歳の間に法華経弘まって、その後は、閻浮提の内に絶え失せることあるべからずと見えたり。


 安楽行品に云わく「後の末世の法滅せんと欲せん時において、この経典を受持し読誦せん者」文。神力品に云わく「その時、仏は上行等の菩薩大衆に告げたまわく『嘱累のための故に、この経の功徳を説かんに、なお尽くすこと能わじ。要をもってこれを言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事は、皆この経において宣示顕説す』と」云々。

これらの文の心は、釈尊入滅の後、第五の五百歳と説くも、末世と云うも、濁悪世と説くも、正像二千年過ぎて末法の始め二百余歳の今の時はただ法華経ばかり弘まるべしという文なり。その故は、人既にひがみ、法も実にしるしなく、仏神の威験もましまさず、今生・後生の祈りも叶わず。このような時は、たよりを得て天魔波旬乱れ入り、国土常に飢渇して、天下も疫癘し、他国侵逼難・自界叛逆難とて、我が国に軍・合戦常に有って、後には他国より兵どもおそい来ってこの国を責むべしと見えたり。このような闘諍堅固の時は、余経の白法は験失せて、法華経の大良薬をもってこの大難をば治すべしと見えたり。法華経をもって国土を祈らば、上一人より下万民に至るまで、ことごとく悦び栄え給うべき鎮護国家の大白法なり。
 ただし、阿闍世王・阿育大王は、始めは悪王なりしかども、耆婆大臣の語を用い夜叉尊者を信じ給いて後にこそ、賢王の名をば留め給いしか。南三北七を捨てて智顗法師を用い給いし陳主、六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用い給いし桓武天皇は、今に賢王の名を留め給えり。智顗法師というは後には天台大師と号し奉る。最澄法師は後には伝教大師という、これなり。今の国主もまたかくのごとし。現世安穏・後生善処なるべきこの大白法を信じて国土に弘め給わば、万国にその身を仰がれ、後代に賢人の名を留め給うべし。知らず、また無辺行菩薩の化身にてやましますらん。
 また、妙法の五字を弘め給わん智者をば、いかに賤しくとも、上行菩薩の化身か、また釈迦如来の御使いかと思うべし。また、薬王菩薩・薬上菩薩、観音・勢至等の菩薩は、正像二千年の御使いなり。これらの菩薩たちの御番は、はや過ぎたれば、上古のように利生有るまじきなり。されば、当世の祈りを御覧ぜよ。一切叶わざるものなり。末法今の世の番衆は上行・無辺行等にておわしますなり。これらを能く能く明らめ信じてこそ、法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。
 譬えば、よき火打ちと、よき石のかどと、よきほくち(火口)と、この三つ寄り合って火を用いるなり。祈りもまたかくのごとし。よき師と、よき檀那と、よき法と、この三つ寄り合って祈りを成就し、国土の大難をも払うべきものなり。よき師とは、さしたる世間の失無くして、いささかのへつらうことなく、少欲知足にして慈悲有らん僧の、経文に任せて法華経を読み持って人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり吉き檀那とは、貴人にもよらず賤人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用いずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉き人なりと仏は説き給えり。吉き法とは、この法華経を最為第一の法と説かれたり。已説の経の中にも、今説の経の中にも、当説の経の中にも、この経第一と見えて候えば、吉き法なり。
 禅宗真言宗等の経法は第二第三なり。殊に取り分けて申せば、真言の法は第七重の劣なり。しかるに、日本国には第二第三、乃至第七重の劣の法をもって御祈禱あれども、いまだその証拠をみず。最上第一の妙法をもって御祈禱あるべきか。これを、「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」「ただこの一事のみ実なり」と云えり。誰か疑いをなすべきや。


 問うて云わく、無智の人来って生死を離るべき道を問わん時は、いずれの経の意をか説くべき。仏いかんが教え給えるや。

(696頁)答えて云わく、法華経を説くべきなり。ゆえに法師品に云わく「もし人有って、何らの衆生か未来世において当に作仏することを得べきと問わば、応に示すべし、この諸人等は未来世において必ず作仏することを得んと」云々。安楽行品に云わく「難問するところ有らば、小乗の法をもって答えず、ただ大乗をもって、ために解説せよ」云々。これらの文の心は、いかなる衆生か仏になるべきと問わば、法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答うべきなり。これ仏の御本意なり。
 これに付いて不審あり、「衆生の根性まちまちにして、念仏を聞かんと願う人もあり、法華経を聞かんと願う人もあり。念仏を聞かんと願う人に法華経を説いて聞かせんは、何の得益かあるべき。また念仏を聞かんがために請じたらん時にも、強いて法華経を説くべきか。仏の説法も機に随って得益有るをこそ本意とし給うらん」と不審する人あらば、云うべし。元より末法の世には、無智の人に、機に叶い叶わざるを顧みず、ただ強いて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり
 その故は、釈迦仏、昔不軽菩薩と云われて法華経を弘め給いしには、男・女・尼・法師がおしなべて用いざりき。あるいは罵られ毀られ、あるいは打たれ追われ、一しなならず。あるいは怨まれ嫉まれ給いしかども、少しもこりもなくして強いて法華経を説き給いし故に、今の釈迦仏となり給いしなり。不軽菩薩を罵りまいらせし人は、口もゆがまず、打った腕(かいな)も竦(すく)まず。付法蔵の師子尊者も外道に殺されぬ。また法道三蔵も火印を面にあてられて江南に流され給いしぞかし。まして末法にかいなき僧の法華経を弘めんには、かかる難あるべしと経文に正しく説かれている。されば、人これを用いず、機に叶わずと云えども、強いて法華経の五字の題名を聞かすべきである。これならでは仏になる道はないからである。

 

(講義271頁)(全552頁4行目)
 またある人不審して云わく「機に叶わざる法華経を強いて説いて謗ぜさせて悪道に人を堕とさんよりは、機に叶える念仏を説いて発心せしむべし。利益もなく謗ぜさせて、返って地獄に堕とさんは、法華経の行者にもあらず、邪見の人にてこそあるらめ」と不審せば、云うべし。経文には「いか体(てい)にもあれ(機根のいかんに関わらず)、末法には強いて法華経を説くべし」と仏の説き給えるをば、さていかが心うべく候や。釈迦仏・不軽菩薩・天台・妙楽・伝教等は、さて邪見の人、外道にておわしまし候べきか。
 また悪道にも堕ちず、三界の生を離れたる二乗という者をば、仏ののたまわく「たとい犬・野干の心をば発すとも、二乗の心をもつべからず。五逆十悪を作って地獄には堕つとも、二乗の心をばもつべからず」なんどと禁められしぞかし。悪道におちざるほどの利益はいかでか有るべきなれども、それをば仏の御本意とも思しめさず。地獄には堕つるとも、仏になる法華経を耳にふれぬれば、これを種として必ず仏になるなり。されば、天台・妙楽も、この心をもって、強いて法華経を説くべしとは釈し給えり。譬えば、人の地によって倒れたる者の、返って地をおさえて起つがごとし。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。
 当世の人、何となくとも法華経に背く失によって地獄に堕ちんこと疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし。謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。いかにとしても、仏の種は法華経より外になきなり。権教をもって仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強いず」とは仰せらるべきや。よくよくこれらを道心ましまさん人は御心得あるべきなり。

 

(講義284頁)(全553頁1行目)
 問うて云わく、無智の人も法華経を信じたら
即身成仏することができるのか。またいずれの浄土に往生することができるのか。


 答えて云わく、法華経を持つにおいては、深く法華経の心を知り、止観の坐禅をし、一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は、実に即身成仏し解りを開くこともあるべし。その外に、法華経の心をもしらず、無智にしてひら信心の人は、浄土に必ず生まるべしと見えたり。されば「十方の仏前に生ぜん」と説き、あるいは「即ち安楽世界に往く」と説きき。これ法華経を信ずる者の往生すという明文なり。
 これに付いて不審あり。その故は、我が身は一つにして、十方の仏前に生ずべしということ心得られず。いずれにてもあれ一方に限るべし。正にいずれの方をか信じて往生すべきや。


 答えて云わく、一方にさだめずして十方と説くは、最もいわれあるなり。ゆえに、法華経を信ずる人の一期終わる時には、十方世界の中に法華経を説かん仏のみもとに生まるべきなり。余の華厳・阿含・方等・般若経を説く浄土へは生まるべからず。浄土、十方に多くして、声聞の法を説く浄土もあり、辟支仏の法を説く浄土もあり、あるいは菩薩の法を説く浄土もあり。法華経を信ずる者は、これらの浄土には一向生まれずして、法華経を説き給う浄土へ直ちに往生して、座席に列なって法華経聴聞して、やがてに仏になるべきなり。しかるに、今の世にして、「法華経は機に叶わず」といい疎んじ、「西方浄土にて法華経をさとるべし」という者は、阿弥陀の浄土にても法華経をさとるべ法華経を説いて、「謗ずるも信ずるも利益あるべし」と説き、「我は身命を愛せからず、十方の浄土にも生まるべからず。法華経に背く咎(とが)が重いので、永く地獄に堕ちると見える。「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と説いているのは、これである。


 問うて云わく、「即ち安楽世界の阿弥陀仏に往く」と云々。この文の心は、法華経を受持し奉らん女人は阿弥陀仏の浄土に生まるべしと説き給えり。念仏を申しても、阿弥陀の浄土に生まるべしと云う。浄土既に同じ。念仏も法華経も等しと心え候べきか、いかん。


 答えて云わく、観経は権教なり、法華経は実教なり。全く等しかるべからず。その故は、仏世に出でさせ給いて、四十余年の間多くの法を説き給いしかども、二乗と悪人と女人とをば簡いはてられて、成仏すべしとは一言も仰せられざりしに、この経にこそ敗種の二乗も三逆の調達も五障の女人も仏になるとは説き給い候いつれ。その旨、経文に見えたり。
 華厳経には「女人は地獄の使いなり。能く仏の種子を断つ。外面は菩薩に似て、内心は夜叉のごとし」と云えり。銀色女経には「三世の諸仏の眼は抜けて大地に落つるとも、法界の女人は永く仏になるべからず」と見えたり。また、経に云わく「女人は大鬼神なり。能く一切の人を喰らう」と。竜樹菩薩の大論には「一度女人を見れば、永く地獄の業を結ぶ」と見えたり。されば、実にてやありけん、善導和尚は謗法なれども、「女人をみずして一期生」と云われたり。また業平が歌にも「葎(むぐら)おいてあれたるやど’宿)のうれ(憂)たきはかりにも鬼のすだ(集)くなりけり」と云うも、女人をば鬼とよめるにこそ侍れ。
 また女人には五障三従ということ有るが故に、罪深しと見えたり。五障とは、一には梵天王、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏にならずと見えたり。また三従とは、女人は幼き時は親に従って心にまかせず、人となりては男に従って心にまかせず、年よりぬれば子に従って心にまかせず。かように幼き時より老耄に至るまで、三人に従って心にまかせず、思うことをもいわず、見たきことをもみず、聴聞したきことをもきかず、これを三従とは説くなり。されば、栄啓期が三楽を立てたるにも、女人の身と生まれざるを一の楽しみといえり。


 かように内典・外典にも嫌われたる女人の身なれども、この経を読まねども、かかねども身と口と意とにうけ持って、殊に口に南無妙法蓮華経と唱え奉る女人は、在世の竜女・憍曇弥(きょうどんみ)・耶輸陀羅女(やしゅたらにょ)のごとくに、やすやすと仏になるべしという経文なり
 また安楽世界と云うは、一切の浄土をば皆安楽と説いている。また阿弥陀と云うも、観経の阿弥陀ではない。ゆえに観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀四十八願の主、十劫成道の仏である。法華経にも迹門の阿弥陀は大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀であり、法華経大願の主の仏である。本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀である。したがって、釈にも「さらに観経等を説くものをさすのではない。」と釈しているのである。(新版御書700頁半分)