御書大好き!!

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御義口伝 嘱累品三箇の大事 第一~第三 全772 新1074

    嘱累品三箇の大事
第一 「従法座起(じゅうほうざき=法座より起つ)」の事
  御義口伝に云わく、「起」とは、塔中の座を起って塔外の儀式なり。三摩の付嘱有るなり。三摩の付嘱とは、身・口・意の三業、三諦、三観と付嘱したもうことなり云々。

 

<語句>

塔中、塔外:塔とは多宝の塔のこと。見宝塔品第十一で多宝の塔が湧現し、釈迦多宝二仏並座して以後、多宝塔中で説法が行われてきた。今、神力品を終わって、釈尊は座を起ち、塔外の儀式に移るのである。

 

三摩の付属:嘱累品二十二において、釈尊は、無量の菩薩の頂を三たび摩(な)でて、法を付属する。これを三摩の付属という。神力品第二十一の本化地涌の菩薩への別付嘱に対して、これは本化・迹化含めての総付嘱であるが、正意は迹化付嘱にある。だが、再往日蓮大聖人は観心の立ち場より「身口意三業三諦三観と付嘱したもう事なり」と申されている。

 

<講義>

釈尊が「法座より起った」ということは、塔外の儀式に移ったことを示す。これは生命論の上から拝すると、すべての振舞いが事の一念三千の振舞いになっていくという意味である。すなわち塔中とは妙法の信心の一念であり、そこから出た具体的な活動、振舞が塔外の儀式といえよう。

 

 

第二 「如来是一切衆生之大施主(如来はこれ一切衆生の大施主なり)」の事


  御義口伝に云わく、「如来」とは本法不思議の如来であるから、この法華経の行者(日蓮大聖人)を指すべきである。「大施主」の「施」とは末法当今流布の南無妙法蓮華経の大白法を民衆に施すことである。大施主の「主」とは、外用においては上行菩薩、内証は末法御本仏たる日蓮大聖人をさすのである。

しかしながら、当品は一往は、迹化の菩薩に対して、迹門の仏法を付嘱した品である。再往は、上行菩薩を上首として総じて一切の菩薩に付嘱したのであるから、本意は上行菩薩にあることは明白である。

 

 

 

第三 「如世尊勅、当具奉行(世尊の勅のごとく、当につぶさに奉行すべし)」の事

 

釈尊の三摩の付属にこたえて、菩薩達は「世尊の勅の如く、当に具に奉行すべし。唯しかなり世尊、願わくは慮(うらおもい)したもうこと有(いま)さざれ」と三たび唱えて誓ったのである。この文についての御義口伝です。】

 

  御義口伝に云わく、諸の菩薩等が、仏前において誓った言葉である。末法広宣流布の時にあたって、日蓮大聖人およびその門下が、諸天善神・菩薩たちに広宣流布のために働けと諫(いさ)め暁(さと)すのは、この誓いの文をよりどころとしているのである。

 

<講義>

御本尊への強い信心と祈りがあるならば、絶対に、諸天善神ならびに一切の菩薩の擁護がある。もし彼等が広宣流布のために、真剣に戦っているものを擁護しなければ、それは仏前の誓言に背いたことになり、即、堕地獄を意味するのである。