御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

一生成仏抄 383頁 建長7年(1255年)

富木常忍に与えられたとされています。建長5年4月に宣言された南無妙法蓮華経のもつ意義と具体的修行としての唱題が述べられ、信心の目的である成仏について、成仏のカギを握る法が人間の外にあるのではなく、己心にあることを強調されています。

「要訳」

無始以来の生死流転に終止符を打って、この一生で成仏を遂げるためには、衆生の生命に具わっている妙理を観ずることが肝要である。その妙理とは妙法蓮華経であり、題目を唱えることこそ妙理を観ずることになるのである。そして、衆生の一心に十界三千の諸法が具足しているのであり、決して外に成仏の法を求めてはならない。自己の生命の外に法を求めるのは方便権教、さらには外道のいき方であり、それではいくら長い修行を積んでも成仏は叶わないのである。

そして、浄土といい、穢土と言っても、土に二つの違いがあるのではなく、私たちの心の善悪によるのであり、また、仏といっても、差別があるのではなく、私たちの心の迷悟の相違に過ぎないのである。したがって深く信心を起こして、日夜朝暮に題目を唱えて鏡を磨くように、闇鏡の生命を明鏡の生命へと変革していくことが大切である。

題目の妙法蓮華経の五字には深い意味がある。妙とは一念の心の不思議さをいい、法とはこの一念の心を名付けていうのである。これを具体的な譬えで表現したのが蓮華である。したがってこの五字は瞬間瞬間の一念こそ、妙法の体と述べている経王だから、成仏の直道となる。͡この胸を深く信じて唱題すれば、一生成仏は疑いない。一生成仏の信心とは南無妙法蓮華経なのである。

 

一生成仏抄 建長七年 三十四歳御作
  無始の過去から繰り返されてきた生死の苦悩を留めて、このたび決定して無上菩提(最高の悟り)をわが身に体現しようと思うならば、すべて衆生に本来具わる妙理を観ずることである。衆生に本来具わる妙理とは妙法蓮華経のことである。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有(ほんぬ=本来ある)の妙理を観ずるにてあるなり、文理真正の経王なれば文字即実相なり、実相即妙法なり、唯(ただ)所詮(しょせん=結局)一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く、故に此の経(法華経)を諸仏の智慧とは云うのである。一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて、この一念の心が法界(宇宙)に徧満するを指して万法とは云うのである。此の理(法理)を覚知するのを一心法界とも云うのである。

ただし妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも、もし己心の外(ほか)に法ありと思うならば全く妙法ではない、麤法(そほう=不完全な法)である。麤法は今経(法華経)にあらず今経にあらざれば方便なり、権門なり、方便権門の教であるならば成仏の直道ではない。成仏の直道でなければ、多生曠劫の修行を経て成仏するというわけではないので、一生成仏も叶うことはない。故に妙法と唱へ蓮華と読む時は、我が一念を指して妙法蓮華経と名づけるぞと深く信心をおこすべきである。

 都(すべ)て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も、我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ってはいけない。したがって仏教を習うといっても、【自身の】心性を観ていかなければ、全く生死(生死の苦悩のこと)を離れる事はないのである。

もし心の外に道を求めて万行万善を修行しても、譬えば貧窮の人が日夜に隣の財を数えても、一銭の得もないようなものである。そうであるから妙楽が天台の教えを釈した中には、もし心を見なければ重罪を滅することはできないといって、もし心を見なければ無量の苦しみの修行になると判じている。故にこのような人を「仏法を学して外道となる」と恥しめられたのである。ここをもって止観には「雖学(すいがく)仏教・還同(げんどう)外見」と釈されている。したがって仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねることまでも、皆我が一念に納めた功徳善根なりと信心を取るべきである。

このことから浄名経の中には「諸仏の解脱(悟り)を衆生の心行に求めば、衆生即菩提なり、生死即涅槃なり」と明かしている。又衆生の心けがれれば土(衆生が住む国土)もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云うも、土に二つの隔なし。只我等が心の善悪によって違うように見えるのである。衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し。迷う時は衆生と名け、悟る時を仏と名づるのである。譬えば闇鏡(曇っている鏡)も磨いたならば、玉のように見えるようなものである。今も一念・無明の迷心は、磨いていない鏡であり、是を磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。深く信心を起こして日夜朝暮に又懈らず磨いていきなさい。どのようにして磨くべきか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これを磨くというのである。

 抑(そもそも)妙とは何と云う心ぞや(どういう意味であろうか)。ただ我が一念の心が不思議なことを妙と云うのである。不思議とは心の働きも及ばず、言葉でも表せないと云う事である。すなわち起るところの一念の心を尋ね見れば、有りと言おうとすれば色も質もなし、また無しと言おうとすれば様様に心起る。有と思うべきに非ず、無と思うべきにも非ず、有無の二の語も及ばず。有と無の二つの心も及ばず。

有でもなく、無でもなく、しかも有と無のどちらかの姿をとり、中道にして普遍究極の真理のままの(妙体)姿であり、不思議であることを「妙」と名づけるのである。この「妙」である心を名づけて「法」ともいう。この法門の不思議をあらわすのに、たとえを具体的な事物になぞらえて「蓮華」と名づける。一つの心を妙と知ったならば、さらに転じて、そのほかの心もまた妙法であると知ることを「妙経」というのである。

したがって法華経は、善悪に付いて起り起る処の一念の心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べている経王なので、成仏の直道というのである。この旨を深く信じて妙法蓮華経と唱えれば、一生成仏は更に疑いないのである。故に経文には「我が滅度の後に於て、まさにこの経を受持すべきである。この人が仏道を成就することは間違いない。」と述べられている。努努(ゆめゆめ=決して)不審を抱いてはならない。穴賢穴賢、一生成仏の信心、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経
 日 蓮 花押

 

池田先生の一生成仏抄の講義の単行本を読んでいます。

どこを取ってもどのページも全部大事な講義で、切り取って載せたり、要約して載せるというのはできないです。全部大事。

この御書は大事なので何度も読んで身と心で分かっていくことかな、と思いました。

仏法は頭でわかってもだめなので、自分の中にある宇宙根源の法・即ち南無妙法蓮華経を引き出していくように御本尊に題目をあげると即身成仏していくのですね。

簡単に言いすぎましたが、要はそういうことではないでしょうか。

 

 

成仏とはいかなることか、戸田先生は常に「永遠の幸福を獲得するということである」と論じられていました。いつもいつも生まれてきて、力強い生命力に溢れ、生まれてきた使命の上に思うがままに活動して、その初期の目的を達し、誰にも壊すことのできない福運を持ってくることであるとも教えられました。

さらに「このような生活が何十回、何百回、何千回、何億万べんと、楽しく繰り返されるとしたら、更に幸福なことではないか」とも言われていた。この戸田先生の確信に満ちた、獅子王の音声は今も私の耳朶から離れません。妙法に生き抜いた人は生まれてくる度に生命力に溢れ、その人でなければ果たせない広宣流布の使命を完遂し、誰にも壊すことのできない大福に包まれていく。そういう生活を何度も何度も楽しく繰り返していくことができるのです。その軌道に、今世において厳然と入っていくことが、一生成仏と言えるのではないでしょうか。

信仰で鍛え抜かれた生命そのものは、永遠に朽ちることはありません。

この戦う心を今世で築き上げた人は、永遠の生命を自在に遊戯していく大境涯を会得していることは、絶対に間違いありません。
(池田先生の講義より)