御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

木絵二像開眼之事   全集468頁 新版662頁

仏滅後仏を恋い慕う弟子たちは仏の像を木彫りや石彫り、絵画などにして仏があたかもそこにいるかのようにしたかったのかもしれない。仏の特徴を三十二相として表すが、三十一相までは見ることができるが、三十二相は梵音声(ぼんのうじょう)と言って、書くことも作ることもできない。そのころもし音声を残せるボイスレコーダーがあれば変わったかもしれないが・・・そこで仏像や仏画の前に経典を置いて開眼することが、

仏像などに仏の心を入れることになるらしい。仏の教えが仏の声(梵音声)になるから、仏の姿を現す仏像、仏画と声の代わりの経典で生身の仏らしくなるらしい。ところがこの時に爾前経などを置いてもだめなのだ。当時真言宗で開眼供養などすれば、木絵となった草木はただの草木でもなく魔であり鬼であると大聖人は破折されている。法華経を置くべきと大聖人はいわれている。

仏像や仏画を拝む対象とされない大聖人は御本尊を文字で現された。

釈迦の教えの中でも法華経法華経の教えの中でも文底の南無妙法蓮華経を一幅の曼陀羅として顕された御本尊は色心不二の仏の生命そのものである。

草木成仏の原理によって御本尊が顕わされている。「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え」大聖人の御生命が御本尊にある。

 

そうすると仏の外観としての三十一相は御本尊のどこにあるのか、となるかもしれないけど、そこは突っ込めない…御本尊は一念三千の生命を文字で書かれている。十界の生命が書かれている。仏の生命に境智冥合して私たちの命が仏になることが大事です。

 

2頁半ほどの御書ですが難しい大事な内容です。もっとすっきりわかりたい~

 

草木そのものが自体顕照し、自ら本来の姿を示すことを不改本位の成仏という。草木の体が本覚の法身であり、時節を違えない智慧が本覚の報身、有情を養うのは本覚の応身となる。???応身は有情を養う?

これは春に花を咲かせ、秋に実を結んで有情(生き物)に食べられて寿命を全うしていく姿に成仏があるということらしい。

木絵二像の草木成仏とは、一念三千の仏種の魂魄を入れることによって草木が仏と顕れ衆生を利益することである。

 

仏は一切衆生の仏性を湧現させるために出現したのである。(仏は機に乗じて応じたもう)でも、仏の力用が仏自身の滅後にも残されるためには、草木が仏とあらわれしゅじょうを救う力をもち修行の正境となることが必要となる。草木が不改本位の成仏の義しか持ってない場合は衆生を成仏せしめる仏とあらわれることはできない。そこで草木に「魂魄と申す神(たましい)を入るる事」が大切なのである。これが第二の木画二像の成仏なのである。この「神(たましい)」を入れるには一念三千の義がなければならないのは明白である。大聖人が御本尊を顕されるのはこの草木成仏の義による。

 

御書全集では難しいと思ったのですが、新版御書で読むとわかりやすい感じがしました。新版御書の本文も一応載せておきます。一部現代語にしています。

 

(045)

木絵二像開眼之事     

文永後期以降

 

 仏に三十二相有(ましま)す。皆色法なり。最下の千輻輪(せんぷくりん)より終わり無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば、書きつべし(書くこともできるし)、作りつべし(作ることもできる)。梵音声の一相は、不可見無対色なれば、書くこともできないし、作ることもできない。仏の滅後は木画の二像あり。これ三十一相にして梵音声かけたり。故に仏にあらず。また心法欠けたり。生身の仏と木画の二像を対するに、天地雲泥なり。何ぞ、涅槃の後分には「生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なり」というや。また大瓔珞経には「木画の二像は生身の仏にはおとれり」ととけり。
 木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。ただし、心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず。人天も三十二相あるがゆえに。木絵の三十一相の前に五戒経を置けば、この仏は輪王とひとし。十善論というを置けば、帝釈とひとし。出欲論というを置けば、梵王とひとし。全く仏にあらず。また、木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。方等・般若の一時一会の共般若を置けば、縁覚とひとし。華厳・方等・般若の別・円を置けば、菩薩とひとし。全く仏にあらず。大日経金剛頂経蘇悉地経等の仏眼、大日の印・真言は、名は仏眼・大日といえども、その義は仏眼・大日にあらず。例せば、仏も華厳経は円仏にはあらず。名にはよらず。
 三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば、必ず純円の仏なり云々。故に、普賢経に法華経の仏を説いて云わく「仏の三種の身は、方等より生ず」文。この「方等」は方等部の方等にあらず。法華を方等というなり。また云わく「この大乗経は、これ諸仏の眼なり。諸仏はこれに因って五眼を具することを得たまえり」等云々。
 法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあらわしぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声かえって形をあらわして、文字と成って衆生を利益するなり。人の声を出だすに二つあり。一には、自身は存ぜざれども、人をたぶらかさんがために声をいだす。これは随他意の声。自身の思いを声にあらわすことあり。されば、意が声とあらわる。意は心法、声は色法。心より色をあらわす。また声を聞いて心を知る。色法が心法を顕すなり。色心不二なるがゆえに而二とあらわれて、仏の御意あらわれて法華の文字となれり。文字変じてまた仏の御意となる。されば、法華経をよませ給わん人は、文字と思しめすことなかれ。すなわち仏の御意なり。故に、天台釈して云わく「請を受けて説く時は、ただこれ教意を説くのみ。教意はこれ仏意なり。仏意は即ちこれ仏智なり。仏智至って深し。この故に三止四請す。かくのごとき艱難は、余経に比ぶるに、余経は則ち易し」文。この釈の中に「仏意」と申すは、色法をおさえて心法という釈なり。
 法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体、生身の仏なり。草木成仏といえるはこれなり。故に、天台は「一色一香も中道にあらざることなし」と云々。妙楽これをうけて釈するに、「しかるにまた、ともに色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」云々。華厳の澄観が天台の一念三千をぬすんで華厳にさしいれ、「法華・華厳ともに一念三千なり。ただし華厳は頓々、さきなれば。法華は漸頓、のちなれば。華厳は根本、さきをしぬれば。法華は枝葉」等というて、「我、理をえたり」とおもえる意、山のごとし。しかりといえども、一念三千の肝心、草木成仏を知らざることを、妙楽のわらい給えることなり。


 今の天台の学者等、「我、一念三千を得たり」と思う。しかりといえども、法華をもってあるいは華厳に同じ、あるいは大日経に同ず。その義を論ずるに、澄観の見を出でず、善無畏・不空に同ず。詮をもってこれを謂わば、今の木絵二像を真言師をもってこれを供養すれば、実仏にあらずして権仏なり。権仏にもあらず、形は仏に似たれども、意は本(もと)の非情の草木なり。また本の非情の草木にもあらず、魔なり、鬼なり。真言師が邪義、印・真言と成って、木絵二像の意と成れるゆえに。例せば、人の思い変じて石と成る、俱留(くる)と黄夫石(こうふせき)がごとし。法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するにその身に鬼神入るがごとし。今、真言をもって日本の仏を供養すれば、鬼入って人の命をうばう。鬼をば奪命者という。魔入って功徳をうばう。魔をば奪功徳者という鬼をあがむるゆえに、今生には国をほろぼす。魔をたっとむゆえに、後生には無間獄に堕つ。


 人死すれば魂去り、その身に鬼神入り替わって子孫を亡ぼす。餓鬼というは我をくらうという、これなり。智者あって法華経を讃歎して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身。生身得忍といえる法門これなり。華厳・方等・般若の円をさとれる智者は、死人の骨を生身得忍と成す。涅槃経に「身は人身なりといえども、心は仏心に同ず」といえるは、これなり。生身得忍の現証は純陀なり。法華を悟れる智者、死骨を供養せば、生身即法身なり。これを即身という。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変えて仏意と成す。成仏これなり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法。死人の色心を変えて、無始の妙境・妙智と成す。これ則ち即身成仏なり。故に、法華経に云わく「いわゆる諸法の、如是相〈死人の身〉・如是性〈同じく心〉・如是体〈同じく色心等〉」云々。また云わく「深く罪福の相に達して、あまねく十方を照らしたもう。微妙(みみょう)の浄き法身は、相を具せること三十二あり」等云々。上の二句は生身得忍、下の二句は即身成仏。即身成仏の手本は竜女これなり。生身得忍の手本は純陀これなり。

 

 

<文・語句の説明>

※天台は「一色一香も中道にあらざることなし」と云々。妙楽これをうけて釈するに、「しかるにまた、ともに色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす

=(天台大師は「一色一香も中道実相の当体でないものはない」と言っている。妙楽大師はこれを受けて「ところがまた世の人は共に色香が即ち中道実相の当体であることを認めても、無情の色香等にも仏性が具わっているという草木成仏の義を聞いては、耳を惑わし心を驚かせるのである」と述べている。)

 

※俱留(くる)と黄夫石(こうふせき):どちらも永遠の命欲しさに長生の薬などに頼ってのちに石と化してしまった外道である。黄夫とは数論派の祖・カビラ外道のこと。

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