御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

顕謗法抄 443頁 41歳御作

今年1月8日から拝読した御書です。もうかなり忘れてしまったので読み直しながら書きますが、最後までは読む時間がありません。省略しますが、興味ある方は読んでみてほしいです。

伊豆流罪中に著された御書。

8つの地獄の様相と謗法の恐ろしさが書かれています。どんなに修行を積んだとしても謗法を犯せば無間地獄を免れることはできない。しかも.仏教界の各宗各派はいずれもこの謗法を犯していて人を救うどころではないのです。参ったり信じたりした人は地獄の業を作っているのです。

 

 第一に等活地獄、ここに堕ちる業因:「生き物の命を断つもの」蟻や蚊などを殺しても懺悔しなければ必ずこの地獄に堕ちる。懺悔しても懺悔した後で重ねて殺生罪を作れば、その後の懺悔ではこの罪は消えがたい。この地獄の罪人は互いに殺害心を抱いている。この地獄の寿命は1250万年らしい。

第二に黒縄地獄、殺生の上に偸盗と言って盗みを重ねたものが堕ちる。寿命は1億年らしい。

第三に衆合地獄、殺生・偸盗の罪の上に邪淫と言って他人の妻を犯す者、この地獄に堕ちる。ところが今の世の僧や尼や在家の男女の多くはこの罪を犯している。特に僧にこの罪を犯す者が多い。在家の男女は夫婦として人目を忍べないので(現代は忍びやすくてだめだ~)この罪を犯さないことが多いが、僧はそうでもない。(笑)淫欲を満たす機会が乏しいところへ、相手が身ごもると父は誰かと糾され露見してしまうので、独身の女人を犯さず、もしや隠し通せるのではなかろうかと他人の妻をうかがい、犯したのちも深く隠しておこうと考えているのである。今の世のことのほか尊く見える僧の中に、特にこの罪を犯す者が多く、この地獄に堕ちるのである。

第四に叫喚地獄、どんどん下に行きます。エレベーターでいうたら地下4階まで来ましたね~。それぞれの地獄の様相やら極卒の詳しい情報は省いております。知りたい人は

御書を読んでくださいね。この地獄には殺生・偸盗・邪淫の上に飲酒とて酒飲む者この地獄に堕ちる。僧、尼、男女で大酒を飲むものはこの地獄の苦を免れがたい。大智度論には酒に36の失(とが)を挙げ、梵網経には他人に杯をすすめるものは五百生の間、手のない身に生まれると説かれている。人師の釈にはミミズのような者になると書かれている。まして酒を売って人に与える者、それにもまして酒に水を入れて売る者においてはいうに及ばない。今の在家の人々はこの地獄の苦を免れがたい。

・・・仏の在世に一人の優婆塞がいて五戒を持っていたが、あるとき旧友が訪ねてきた。そしてともに酒を飲もうと誘った。優婆塞は仏の戒めであるから断ったが友人の強い勧めによって飲酒した。そのために正念を失い、隣家の鶏をとらえて食べ、隣家の妻が訪ねて来たので、戯れてこれを姦し、すべての五戒を破ってしまったのである。こうした事件が契機となって仏道修行者にとっては飲酒は修行の妨げとなるから特に重い罪とされ不飲酒戒と定められるようになったと言われる。

例外として病人に飲ませる薬酒や、酒におぼれない程度に飲むのは許されている。

 

第五に大叫喚地獄。今までの4つの罪の上に妄語と言ってうそをついたものがこの地獄に堕ちる。

第六に焦熱地獄。今までの罪の上に邪見といって仏法が説く生命の因果を否定する者はこの地獄に堕ちる。

第七に大焦熱地獄。今までの罪の上に戒を清浄に持っている比丘尼を犯した者がこの地獄に堕ちる。また、比丘が酒をもって不邪淫戒を持っている婦女をたぶらかしたり、あるいは財物を与えて犯したりする者がこの地獄に堕ちる。

以上は七大地獄の因果であるが、一般的でわかりやすい地獄である。

さて、次にくる一番重い罪を犯していく地獄は、聞くだけで恐怖のあまり吐血して死に至るから仏は具体的には説かれないらしい。

第八に大阿鼻地獄、または無間地獄。五逆罪と謗法を犯した者が行く地獄。

この地獄の苦しみは七大地獄並びに一切の苦しみを1分とするとその1千倍の苦しみである。この地獄から見れば大焦熱地獄の罪人は他化自在天が楽しんでいるように見えるほど、ここは辛く苦しいところらしい。そしてめっちゃ臭いらしい、この臭気で四天下・欲界・六欲天の天人は皆死んでしまうであろう。けれども出山(しゅっせん)と没山(もっせん)という山がこの地獄の臭気をさえぎって人間世界へ来させないのである。この世界の者は死なないと見える。(それほど長い間苦しむということだと思う。)つまりこの地獄の寿命の長さは一中劫という。因みに7番目の地獄は半分の半中劫です。

五逆罪は1に殺父(しぶ)。2に殺母(しも)。3に殺阿羅漢。4に出仏身血。5に破和合僧。今の世に仏はいないし、和合僧もないし、阿羅漢もいないから五逆罪を犯せるのは父と母を殺すことだけであるが、王法の戒めが厳しいからこの罪は犯しがたい。

もしそうであれば今の世に阿鼻地獄に堕ちる人は少ない。ただし、相似の五逆罪がある。木画の仏像や堂塔などを焼き、かの仏像等へ寄進したものを奪い取り、卒塔婆を切り焼き、智人を殺すなどする者が多い。これらの者は大阿鼻地獄の16の別処に堕ちるのである。また、謗法の者はこの地獄に堕ちるのである。

16の別処というのが面白いですが、16か所全部名前がついてるみたいです。本命の一番酷い地獄は無間地獄、大阿鼻地獄です。

 

 謗法の恐ろしさを示すためにわかりやすい七大地獄を説明してきましたが、いよいよこれからが本番です。講義でいうと10章までが導入、11章から本論に入ります。最後は31章まであります。(長い~!だから省こうとしたのね)(本論省いてどうする?)(だって~)

 無限地獄に直行するのは法華経誹謗の重罪を犯した者です。五逆罪と誹謗正法を比べると、「法華経の行者を悪口し杖で打ったりした者は、その後に懺悔したとはいっても、罪は未だ消滅しないで千劫の間阿鼻地獄に堕ちる。懺悔した謗法の罪ですら五逆罪に千倍する重さである。まして懺悔しない謗法においては阿鼻地獄から出る時期が永遠に来ないであろう。」(法華経第7巻常不軽菩薩品第20)

譬喩品第三には「この法華経を読誦し、書写し、受持するものを見て軽んじ、賤しめ、憎み、嫉んで、恨みを懐くならば、乃至その人は命が終わって阿鼻地獄に堕ち、一劫が尽きてまた阿鼻地獄に生まれ、このように繰り返して無数劫に至るであろう」と説かれているのである。

顕謗法抄は佐前の御書なので一往日蓮大聖人は「正法」「法華経」という表現をとられているが、その元意は文底独一本門の南無妙法蓮華経のことである。

 

このあとの御書では爾前経の中で小乗教が大乗教を批判したりするように、低い教えが高い教えを批判するのは謗法になるらしいが、一番重い罪は法華経を批判することで、ほんとは南妙法蓮華経を批判することになる。

 

第17章にある問いがなかなかのもんで、(451頁3行目)

法華経を離れて往生・成仏ができないならば、仏はこの世に出現されて、ただ法華経ばかりを説かれればよかったのに、どうして煩わしく40余年の経々を説かれたのであろうか」

この論難には仏自ら答えられている。方便品第二の「若し但仏乗を讃めれば衆生は苦しみの中に埋もれて、法を破して信じないでいる故に三悪道に堕ちてしまうだろう」等の経文がこれである。

(幼稚園児に大学の問題を教えてもわからないようなもんです。衆生の機根に合わせて低い教えから説かないと混迷に陥って難しさのあまりに仏の真意がわからず破法と不信によって三悪道に堕ちるに違いないと予想されたのです。)

(講義はまだまだ続きますが、長~い!また言うた。講義は本文と通解、語句の解説と講義入れて245頁あります。できれば御書を自分で読んでみてくださいね)

講義の第19章 御書451頁8行目~

問うていう。衆生が謗るであろう故に仏は最初に法華経を説かれずに、40余年の後に法華経を説かれたのであれば、あなた(日蓮大聖人)はどうして今の世に権経を説かないであれこれためらうことなく法華経を説いて、人々に誹謗させて悪道に堕とすのか。

答えて言う。仏の在世には仏が菩提樹の下に端座されて衆生の機根を考えられたが、その時法華経を説くならば衆生は誹謗して悪道に堕ちるであろう。40余年過ぎて後に説くならば誹謗せずに、初住不退の位、乃至妙覚の位にのぼるであろうと知見されたのである。しかし、末代濁世には機根にあてはまって初住位に入ることができる人は万に一人もいないであろう。また能化の人も仏ではないから衆生の機根を考えることも難しい。

それゆえ、逆縁・順縁のために先ず法華経を説くべきであると仏はおゆるしになったのである。ただし、また仏の滅後であっても、まさにその機根に相当する者にはまず権経を説くこともある。また慈悲のうち悲を先とする人は、まず権経を説くのである。釈迦仏がその実例である。慈を先とする人はまず実経を説くべきである。不軽菩薩がそれである。また末法の凡夫は何につけても悪道を免れることが難しい。同じ悪道に堕ちるのであれば法華経を誹謗させて堕とすならば世間の罪によって落ちることとは大いに異なるのである。「妙法を聞いて誹謗を生じ、地獄に堕ちたとしても、恒沙の仏を供養するより勝れている。」等の文のとおりである。この文の意は、法華経を誹謗して地獄に堕ちることは釈迦仏や阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し、帰依渇仰する功徳よりも百千万倍すぐれていると説かれているのである。

(講義から)

慈悲とは抜苦与楽とよく聞きましたが、大智度論と涅槃経では逆の教えですが、大聖人は涅槃経の抜苦が慈、与楽が悲とする説をとられています。人間の苦しみを深くあわれみ、その原因を明らかに洞察し、広大無辺の智慧をもって苦しみの根本解決をはかっていく、抜苦与楽の振る舞いが慈悲なのです。衆生が悪道に堕ちて苦しむのになんで強いて法華経を説くのか、慈悲なき行為ではないかと問われての答えがここにあります。即ち慈悲の二つの在り方を示してその非難に答えられているのです。

慈悲の二つのあり方とは、悲を先とするか慈を先とするかの違いなのです。

唱法華題目抄ではこの違いを、子供に対する父と母の態度の違いとして譬えられています。「悲」については例えば母の子に病あると知れども当時の苦を悲しんで、左右なく灸(やいと)を加えざるが如し」(15頁)慈については「たとえば父は慈の故に子に病あるを見て当時の苦をかえりみず後を思う故に灸を加えるが如し」

悲母も慈父も子供を思う気持ちは同じなのである。同様に仏が衆生を思う慈悲においては変わりはなくとも、化導の仕方においては、慈を先とするか、悲を先とするかによって違いが出てくる。

たとえば本巳有善の衆生を化導する釈尊の場合は、衆生がまだ法華経を聞くに耐えないときには方便の教えを説いて機根を整え、いたずらに衆生が悪道に堕ちて苦しまないようにする。ところが不軽菩薩などの場合は衆生が悪道に堕ちて苦しむのを顧みずに直ちに法華経を説く、そのことが苦を除くことになるからである。釈尊の化導は悲母に比せられ不軽のそれは慈父に比せられる。

御義口伝に「不軽礼拝の行は皆当作仏と教うる故に慈悲なり、既に杖木瓦石を以て打擲すれども而強毒之するは慈悲より起れり」769頁とあるように而強毒之の化導法も慈悲によるものです。

大聖人の折伏行も不軽の而強毒之と全く同じ性格をもつのであり、まさしく慈を先とする慈悲の化導にほかならない。    

              以上は「第19章末法の化導法を説く」までまとめました