御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

光日房御書 926頁 55歳御作    (2020年1月29日~30日に拝読)

本日、7月21日の聖教新聞に光日尼の紹介があったので、光日房御書のことを書こうと思います。

 

大聖人が身延に入山されてまもない文永11年(1274年)6月8日に息子弥四郎が若くして亡くなったと、建治2年(1276年)に光日尼から大聖人にお手紙が届きます。

「弥四郎の後生はどのようなところに生まれるのでしょうか。教え頂きたい」

何らかの戦で人を殺めて自分も無念の死を迎えたであろうことを思い、後生は地獄に堕ちるのではないかと心配して、怖くて聞けなかったのかもしれません。2年間どのような気持ちでいたのか。辛く悲しい母の気持ちは察することは容易く出来ますが・・・

 

光日尼は大聖人の指導に基づいて更に強盛な信力をもって悲しみを乗り越え大聖人の御本意に叶う信心をして生涯を終えたと思われます。光日尼のことを光日上人と呼ばれたことについて、上人とは当時の高僧に対する尊称であり、大聖人が光日上人と呼ばれるくらい立派な信心を貫かれたということでしょう。

今日の新聞にも詳しく書かれているので補足することはほぼ思いつかないです。新聞と講義本を参考にして少し補足しておきます。

光日房・光日上人・光日尼は同一人物のことです。光日房御書、光日上人御返事、光日尼御返事の3編が光日尼に送られています。

光日房御書は建治2年(1276年)3月、聖寿55歳の御作で、光日上人御返事は弘安4年8月8日(聖寿60歳)の御述作で、どちらも身延で書かれています。光日尼御返事だけは何年か不明で9月19日とだけ書かれています。

息子弥四郎は幼いころから母親と大聖人を慕っていたようで、容貌も立派で素直な感じであったようです。世にいう孝行息子であった。弥四郎を亡くした母の悲しみは想像に難くないです。まして侍として人を殺めて地獄に堕ちたりしていないかと心配するのも無理はない。大聖人から「故・弥四郎が悪人と呼ばれてしまう人であったとしても、生みの母が釈迦仏の御宝前で昼夜に嘆き、追善を行えばどうして弥四郎が成仏できないことがあるでしょうか。ましてや、法華経を信じていたのですから、親を導く身となられているでしょう」と励まされている。

 

「励ましの本質は相手への同苦である。友の苦しみをわが苦しみとして勝利の日まで共に歩みぬいていくことである。あまりに絶望する友に掛ける言葉が見つからなくても、すぐに悲しみを吐露してくれなくても、私たちは祈っていくことができる。そして、こうした励まし合いの中で私たちは必ずや宿命転換を成し遂げ、蘇生することができる。

いかなる状況にあっても希望を失わない、仏法者の確固たる生き方を御本仏は示されている。」 (新聞の池田先生の光日房御書の講義より)