御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

石虎将軍御書 四条金吾殿御返事 1185頁 57歳御作

今月二十二日・信濃より贈られ候いし物の日記・銭三貫文・白米能米俵一・餅五十枚・酒大筒一・小筒一・串柿五把・柘榴十、

夫れ王は民を食(じき)とし民は王を食(じき)とす【さて国王は民に依って立ち、民は国王に依って立つのである。】

衣は寒温をふせぎ、食物は身命を助ける、たとえば油が燈火をつぎ、水が魚を助けるのと同じことである。鳥が人の害することを恐れて梢(こずえ)に巣をつくる、けれども食【えさ】のために地上に下りてわなにかかる。魚は淵(ふち)の底に住み、浅い事を悲しんで穴を水の底に掘って住むのだが、餌にばかされて鉤(はり)をのむ、飲食と衣薬に過ぎた人の宝はないのである。
 しかも日蓮は他の人とは違って、山林の栖(すみか)【山林に住む身である】なかでも今年は疫癘飢渇【疫病や飢饉】に春夏は過ごし、秋冬はまた前にも過ぎたり【前より激しくなるばかりである】、また自分の身の病気が重くなっていたところに様々の薬といい、小袖など、色々な治療によってようやく快方の兆しがあって今では病気も平愈し以前よりも以上に健康になった。

弥勒菩薩の瑜伽論・竜樹菩薩の大論を見ると、定業の者は薬が変じて毒となる、法華経は毒が変じて薬となるとある。日蓮不肖の身で法華経を弘めようとしているので、天魔競って食を奪おうとするのかと思って歎かずにいたが、今度が命が助かったことは、ひとえに釈迦仏があなたの身に入りかわって助けてくれたのであろうか。
 是はさてをきぬ【このことはひとまずおく】、今度の帰りの道中のことは神(たましい)を失いて歎(なげ)き候いつるに【大変心配しておりましたが】事故なく【無事に】鎌倉に帰られた事、悦びいくそばくぞ、【どんなに喜んだことでしょう】あまりの覚束(おぼつか)なさに【あまりに心配であったので】鎌倉より来る者ごとに尋ねたところ、ある人は湯本にて行き逢(あ)ったといい、ある人はこうづ(国府津)で、またある人は鎌倉で逢ったと言いましたのでようやく安心したのです。これから後はよくよくのことでなければお越しにならないほうがよい。大事の事があれば使によって承(うけたま)わりましょう。返(かえ)す返(がえ)すも今度の帰り道はあまりにも心配しました。

敵(かたき)と申す者は忘れさせて狙(ねら)うものです。今後もし旅に出られるときは馬を惜しんではなりません。よい馬に乗りなさい、またお供の者たちも万一の場合に備えて役に立つ者を連れ、馬は甲冑を付けても堪(た)えられる馬に乗りなさい。

 

講義:四条金吾が身延の大聖人を見舞っての帰り、鎌倉へ無事についたとわかるまで大聖人のお心遣いは一方ならないものがあった。当時、身延から鎌倉に通ずる道は箱根路と足柄路とがあったがいずれも山越えの険しい道でいつ襲われるかわからない危険なところであった。鎌倉から身延に来られる人ごとに金吾の安否を尋ねられたのである。鎌倉で逢ったという人がいてやっと安心されたのである。また、馬や付き人のことにまで気を配られている。真実の指導者とはかくあるべきもの。

 

(天台の)摩訶止観第八に言うには、また(それを注釈した妙楽の)弘決第八に言うことには「必ず心の固(かた)きに仮(よ)つて神の守り則ち強し」【必ず心が堅固であってこそ神の守護も厚い】と。神が護ると言っても人の心が強いことによるということである。法華経はよい剣であるけれども、使う人によって物を切るのである【その切れ味は違う】。
 それゆえ末法に此の経を弘める人々は、舎利弗と迦葉と観音と妙音と文殊と薬王と此等程の人はいるであろうか。(舎利弗と迦葉の)二乗は見思(惑)を断じて六道を出ている。(観音等の)菩薩は四十一品の無明を断じて十四夜の月のようなものである。けれども此等の人々には譲られないで地涌の菩薩に譲られたのである。してみると、よくよく心を鍛えられた菩薩なのであろう。

(中国の)李広将軍という武人は、虎に母を食(くわ)れて虎に似た石を射るとその矢は羽ぶくらまで通った。後に石と見ては矢が立つ事がなかった。後には石虎将軍と言われた。あなたもまたこの故事のように敵は狙っているのだろうが、法華経への御信心が強盛なので大難もおこるまえに消えたのであろうか、これにつけてもよくよく御本尊を信じていきなさい。くわしくは手紙に書き尽くすことができません。恐恐謹言。
 弘安元年戊寅後十月二十二日 日 蓮花押
 四条左衛門殿御返事

 石虎将軍の故事のくだりは座談会御書などでよく講義されたところですので、あえて説明も講義も必要ないのではと思い省略いたします。

ただ何かあった時に思い出すべき言葉は「必ず心の固きに仮(よ)って神の守り則ち強し」【必ず心が堅固であってこそ神の守護も厚い】神というのは法華経の行者を守る宇宙の働き・作用のことで、諸天の加護のこと、といっても神秘的な力がどこからか働きかけてくるのではなく、自分の強い一念で人生に対処していったときに環境に現れてくるもの。宿命を打破するために出す信力・行力によって現れる仏力・法力のこととも言えます。

絶対治らないと医者が言っても、治すことのできる力がここにあると思います。