御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

八幡抄 四条金吾許御文 1195頁 59歳御作

弘安三年十二月十六日に金吾の女房、日眼女に書かれたお手紙です。内容が四条金吾の女房だけに書かれたものではないので、四条金吾許(もと)御文の「許」とは「・・・のもとに」とか、「・・・のそばに」と言う意味です。本抄は立正安国論(p.17)、諫暁八幡抄(p.576)、智妙房御返事(p.1286)にも述べられている神天上の法門について書かれています。弘安3年11月14日に鎌倉八幡宮が炎上したのは、一国謗法の故に八幡がいない証拠である、と。

最初のところで、わ〜大聖人さま、一日も早く温かいお着物を着て欲しかったですーって私は思いましたが、どうなんですかね、大聖人結構大袈裟な嫌味?らしき言葉をベールに包んで故事を引かれておっしゃってますが、相手の状況を察することの難しさ、本当の思いやりとは何ぞって感じました。

通解:白小袖一枚、綿十両確かに頂きました。今年も暮れ近くなりました。また私がいるところは山の中で風が激しく庵室はまるで籠の目のように風が吹き抜けていく。敷いているのは草の葉であり、着ているものは紙衣、身体は冷えて石のようであり、食物は氷のように冷たいので、この小袖を頂いてすぐにも来て体を温めようと思ったが、明年の一日(元旦)に着るようにと書いてあったので、迦葉尊者が雞足山に入って、弥勒菩薩の出現を五十六億七千万歳の間待たれたのも、このように待ち遠しい心ではなかったかと思われます。

(私、ここのくだりで日眼女さんが「一日も早く小袖をお召しになって寒さをしのいでください」と書いてたらよかったのにと思いました。紙衣って!寒いときは衣服の中に新聞挟んだらええて言うけど、紙の衣は流石に寒すぎる)

 

間、省きまして、後半のところ:

八幡抄を読んではじめて分かったことは、八幡大菩薩というのが釈迦の化身(垂迹の姿)であるということ。
そこのところの御書の通解は「釈迦滅後二千二百二十余年の間、インド中国、日本ないし、世界中に聖人・賢人と生まれた人は、皆釈迦如来の化身であると言っているが、このような不思議は未だかつて見聞したことがない」
八幡大菩薩としてまつられている応神天皇が釈迦の化身(垂迹)であることの証明として、「インドの釈迦と日本の応神天皇は甲寅(きのえとら)の年四月八日に生まれ、壬申(みずのえさる)の年の二月十五日にどちらも八十歳で亡くなっている。このような不思議は今までなかったということである。応神天皇は男山(石清水八幡宮)の主神であり、日本国の守護神として、その正体は特別変わったものではないが霊験あらたかで、今の八幡大菩薩がこれである。」というように書かれています。

また、

日本国で第一の不思議なことは、釈迦如来(八幡)の治める国に生まれながら、この仏を捨てて一切の衆生が皆一同に阿弥陀仏についていることである。縁の深い釈迦仏を捨てて無縁の阿弥陀仏を崇めているのである。その上父である釈迦仏の入滅の日を、阿弥陀仏の日とし、また釈迦仏の誕生の日を、薬師如来の日としている。八幡大菩薩を崇めているようだが、その本地を阿弥陀仏としてしまった。

このように、本地垂迹を捨てた上、このことを正す人を敵とする故に八幡も力が及ばないで天に昇られたのであろう。ただし月は影を水に浮かべるが、濁った水には栖(す・住)むことがない。木の上や草の葉であっても、澄んだ露(つゆ)には、月は映るのであるから、必ず国主でなくても、正直の人の頭には宿られるのである。

 

講義より:

一般に正直とは自己の心を偽らないという意味に用いられているが、この自己の心もそれ自体としては真実ではある。だが自己の心が誤りを犯す場合も少なくない。誤りを犯している心に対しては正直であっても、真実に対しては不正直となる。仏法の正直はこうした誤りの多い自己の心に対してではなく、仏の教えに対して正確であり、まっすぐであることを言うのである。そしてこれこそがいかなる時代にあっても社会が変わろうと誤りのない正直ということができる。この正直な生き方をする人、真っ直ぐで正しい心を持った人の上に諸天善神の力は守護の働きをあらわすというのが「正直の頭(こうべ)に神宿る」という考え方である。

 

御書通解:

これらのことをもって思うに、法華経を信ずる人々は正直の法についているので、釈迦仏さえもこれを守ってくださる。言わんや、釈迦如来垂迹である八幡大菩薩がどうして、正直の人を守らないはずがあろうか。

浄(きよ)い水でも濁(にご)れば、月が映らない、糞水(ふんすい)でも澄(す)めば、月は影を映すのである。濁った水は、清くても月は宿らないし、糞水は汚いが澄めば月影は惜しまず宿るのである。ちょうど濁水は智者や学匠の戒を持っている人が法華経に背いているようなものである。これに対し、糞水は愚人で戒律を持たない人が、貪欲ふかく、いかりの心が強くても法華経だけを唯一と信じているようなものである。(略)

故に八幡大菩薩は不正直を嫌って天に昇られたのであるが、法華経の行者を見ては、どうしてその影を映すことを惜しまれようか。

我が一門は深くこの真理を信じて行きなさい。八幡大菩薩はここ日蓮の一門のいるところにいらっしゃるのである。疑ってはいけない。