御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

身軽法重抄 乙御前御消息 1218頁 54歳御作

宛名は乙御前になっていますが、乙御前の母(おそらく日妙聖人)に与えられたお手紙です。建治元年(1275年)八月四日、身延で著されました。

初めに中国への仏教伝来の例を引きながら、内道(仏教)と外道の勝劣を明かし、内典にも勝劣・浅深があり、特に法華経がほかの一切経に比較してもっとも勝れている教えであることを強調されています。

次に諸経の人師にも経と同様に勝劣・浅深があることを明かし、真言氏と法華経の行者を対比して、犬と獅子、修羅と日輪のように比較もできないほど法華経の行者が勝れていることを教えられています。

また、遠い佐渡といい、不便な身延山中といい、女人の身で大聖人を慕って訪ね、仏法を求めている乙御前の母の姿はこの上なく不思議なことであるとおほめになり、夫のいない身ではあってもますます強盛に信心に励むなら妙法の功徳は絶大であると励まされています。

さらに大聖人は身は軽く、法は重いゆえに身を死(ころ)して法を弘めてこられたが、その法が流布したときは、大聖人の身も重みを増して人々を利益すると仰せになり、大聖人が末法の御本仏であることを示されています。

           以上【日蓮大聖人の「御書」を読む】から

 このお手紙は御書4頁半くらいです。2頁目(1219頁)の最後から2行目よりあとは線が引いてあるところが多く、何度も読んだところです。御書を載せて意味のわかりにくいところに現代語訳を入れました。

御書:

軍(いくさ)には大将軍を魂とす、大将軍をく(臆)しぬれば歩兵(つわもの)臆病なり。

女人は夫を魂とす・夫なければ女人魂なし、此の世に夫ある女人すら世の中渡りがたふみえて候に、魂もなくして世を渡らせ給うが・魂ある女人にもすぐれて心中かひがひしくおはする上・神にも心を入れ仏をもあがめさせ給へば人に勝れておはする女人なり、日蓮が)鎌倉に候いし時は念仏者等はさてをき候いぬ、法華経を信ずる人人は志あるも・なきも知られ候はざりしかども[誰が信心があるかないかはわからなかったけれど]・御勘気を・かほりて佐渡の島まで流されしかば、問い訪う人もなかりしに・女人の御身として・かたがた[いろいろと]、御志ありし上・我と来り給いし事[あなたが自らはるばる来られたことは]、うつつならざる[現実とは思えないほど]、不思議なり、其の上いまのまうで[今回の訪問]、又申すばかりなし、定めて神も・まほらせ給ひ十羅刹も御あはれみましますらん[十羅刹も賞嘆されていることであろう]、法華経は女人の御ためには暗きに・ともしび・海に船・おそろしき所には・まほりと・なるべきよし・ちかはせ給へり[薬王品に誓われている]、羅什三蔵は法華経を渡し給いしかば毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送りしなり、道昭法師・野中にして法華経をよみしかば無量の虎来りて守護しき、此れも又彼には・かはるべからず、地には三十六祇・天には二十八宿まほらせ給う上・人には必ず二つの天・影の如くにそひて候、所謂一をば同生天と云い二をば同名天と申す左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし・況や善人におひてをや、されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ、是は御ために申すぞ古への御心ざし申す計りなし・其よりも今一重強盛に御志あるべし、其の時は弥弥(いよいよ)十羅刹女の御まほりも・つよかるべしと・おぼすべし、例には他を引くべからず、日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんと・せしかども[一切の人が害しようとしたじけれども]・今までかうて候事は[今までこうして無事に生きていられることは](日蓮は)一人なれども心のつよき故なるべしと・おぼすべし、一つ船に乗りぬれば船頭のはかり事わるければ一同に船中の諸人損じ・又身つよき人も心かひなければ多くの能も無用なり、日本国には・かしこき人人はあるらめども[いるようであるが]大将のはかり事つたなければ・かひなし[大将の指揮が拙劣であるから望ましい結果もでない。]壱岐対馬・九ケ国のつはもの並に男女多く或はころされ或はとらはれ或は海に入り或はがけよりおちしもの・いくせんまんと云う事なし、又今度よせなば先には・にるべくも・あるべからず、京と鎌倉とは但壱岐対馬の如くなるべし、前にしたくして・いづくへも・にげさせ給へ、其の時は昔し日蓮を見じ聞かじと申せし人人も掌をあはせ法華経を信ずべし、念仏者・禅宗までも南無妙法蓮華経と申すべし、抑(そもそも)法華経をよくよく信じたらん男女をば肩に・になひ背に・おうべきよし経文に見えて候上・※くまらゑん三蔵と申せし人をば木像の釈迦をわせ給いて候いしぞかし日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ[日蓮の首の難には大覚世尊が身代わりになられた。]昔と今と一同なり、各各は日蓮が檀那なり争か仏にならせ給はざるべき。

(※くまらゑん三蔵は鳩摩羅什の父、4世紀ごろのインド人。代々国相の家に生まれる。聡明で意志が強く、宰相の位を辞退して出家し、東上してきゅうじ国に入り国師として迎えられた。宝物集上によると、「インドの弗舎密多王が国中の仏法を滅ぼしたとき、鳩摩羅えんは悲しんで仏像を持してきゅうじ国へ渡る途上、昼は仏を背に負い奉り、夜は仏に背負われた」とある。)

 いかなる男をせさせ給うとも法華経のかたきならば随ひ給うべからず、いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり、木は火にやかるれども栴檀の木は、やけず、火は水にけさるれども仏の涅槃の火はきえず、華は風にちれども浄居[浄居天]の華は・しぼまず・水は大旱魃に失れども黄河に入りぬれば失せず、檀弥羅王と申せし悪王は月氏の僧の頸を切りしに・とがなかりしかども・師子尊者の頸を切りし時・刀と手と共に一時に落ちにき、弗沙密多羅王は鶏頭摩寺を焼し時・十二神の棒にかふべ[頭]わられにき[割られたという]、今日本国の人人は法華経の・かたきと・なりて身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり、かう申せば日蓮が自讃なりと心えぬ人は申すなり、さには・あらず是を云わずば法華経の行者にはあらず、又云う事の後にあへばこそ人も信ずれ、かうただ・かきをきなばこそ[こう書置けばこそ]未来の人は(日蓮は)智ありけり[先見の明智があった]とは・しり候はんずれ[知ることができるであろう]、又身軽法重・死身弘法とのべて候ば身は軽ければ人は打ちはり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし、法華経弘まるならば死かばね還つて重くなるべし、かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし、利生あるならば今の八幡大菩薩と・いははるるやうに・いはうべし、其の時は日蓮を供養せる男女は武内・若宮なんどのやうにあがめらるべしと・おぼしめせ、抑一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし、況や日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや、何に況や一閻浮提・四天下の人の眼のしゐたるを候、日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をくじる人なり、されば天もいかり日日に天変あり地もいかり月月に地夭かさなる、天の帝釈は野干を敬いて法を習いしかば今の教主釈尊となり給い・雪山童子は鬼を師とせしかば今の三界の主となる、大聖・上人は形を賤みて法を捨てざりけり、今日蓮おろかなりとも野干と鬼とに劣るべからず、当世の人いみじくとも帝釈・雪山童子に勝るべからず、日蓮が身の賤きについて巧言を捨てて候故に国既に亡びんとする・かなしさよ、又日蓮を不便と申しぬる弟子どもをも・たすけがたからん事こそ[助けがたいことが]・なげかしくは覚え候へ[嘆かわしく思われる]。
 いかなる事も出来候はば[どんなことでも起こったならば]是へ御わたりあるべし[ここ身延へお越しなさい]見奉らん[心から迎えましょう]・山中にて共にうえ死にし候はん、又乙御前こそおとなしくなりて候らめ[乙御前はさぞかし成長されたことであろう]、いかにさかしく候らん[どんなにか聡明になられたことであろう]、又又申すべし。
 

「山中にて共に飢え死にしましょう。」とは結構ブラックな冗談ともとれますが、本気ですか?ほんとに食べるものもあまりない状態だったのでしょう・・・・大聖人にそういわせる状況って、われらは口を一文字にして深く決意するしかないですね。

 

下線を引いたところは2020年12月8日「心に御書を」で取り上げられました。

未来部の育成ということを示唆されています。