御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

新池御書 1439頁 59歳御作

今年(2020年)2月11日から読んだ御書ですが、ブログに書くのが年末になってしまいました。新池御書も大好きな御書の一つで早く拝読しようと思っていたのです。

「うれしきかな末法流布に生れあへる我等・かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人、そもそも人界に生を受くるもの誰か無常を免れん、さあらんに取つては何ぞ後世のつとめを・いたさざらんや、」という一節で始まるお手紙です。

末法の正法流布の時代に生まれた私たちはなんと幸運であることか。この南無妙法蓮華経を信じない人たちはなんと悲しいことか。そもそも人界に生を受けたものでだれが死を免れることができようか。そのような者にとっては、どうして後世のための努力をしないでいられようか。

“人界に生を受くるもの誰か無常を免れん”

奇しくも今朝、「昨日のお昼にうちの地区の婦人部の方が亡くなられた」というような内容のLineが入っていました。最近までお元気な姿を見られたと言っておられる方もあり、肺がんになられてから何年も闘病されていたと思います。以前、座談会でお話した時もお元気そうでしたが、今年は自粛生活でお会いする機会が全くなかったです。11月の小グループには出ておられたそうですが、私は違うグループなのでお会いすることがなかったです。人間いつ死が訪れるかわからないので、怖いようだけど、その日が来るまでしっかり生きておこうと思えるわけですね。後世のために努力をするってことがわからない人もたくさんいると思います。仏法をわかっていけばどういう生き方が最高善なのかわかってくるのですが、「悲しきかなこの経を信ぜざる人々」という人たちが、信じている人より何倍も多いわけで、だからまだまだ折伏して広宣流布していかなければならないと思うところです。

また、こういうところがあります。亡くなった同志のことを思うと、是非ここを特に書いておきたいと思いました。御書の下のほうの太字にしたところです。わかりやすく通解を写します。

ああ、過ぎ去ったときが瞬く間であることから知ることができる、私たちの命がそれほど長くないことを。春の朝に花を眺めた時一緒に遊んだ人は花と共に無常の嵐に散り果てて、名前だけ残ってその人はいない。花は散ったといってもまた来春も咲く。しかし、消えてしまった人は、またいかなる世に生まれてくるのであろうか。秋の暮れに月を詠んだ時戯れ親しんだ人も、月と共に有為の雲に隠れて後は、面影ばかりが身に寄り添っているが言うことがない。月は西の山に入ると言っても、また来秋も詠むことができる。しかしながら隠れてしまった人はどこに住んでいるのであろう。はっきりしない。無常の虎の声は耳に近づくといっても聞いて驚くことがない。屠殺所の羊はあと幾日無常の道を歩むことであろう。

 

ということで前置きがながくなりましたが、新池御書を現代文混じりでわかりやすく載せていこうと思います。通解のまるうつしではなく御書の言葉を生かしながら書きます。

冒頭のところの続きからです。

よくよく世間のありさまを見てみると、人皆口には此の経を信じ手には経巻をにぎるといへども・経の心にそむいているので・悪道を免れ難い。譬えば人に皆五臓あり、一臓も損ずればその臓より病出で来て、余の臓を破り終に命を失うが如し。このことを指して、伝教大師は「法華経を讃すといえどもかえつて法華の心を殺している」等云云、文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども、法華の心に背いたならばかえって釈尊・十方の諸仏を殺すことになってしまうという意味である。終に世間の悪業衆罪は須弥山のようであっても此の経にあったならば・諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消えるであろう、しかれども此の経の十四謗法の中に一も二も犯しぬれば其の罪消えがたし。所以は何ん[理由はなぜか]一大三千界[三千大千世界]のあらゆる有情を殺したとしても、どうして一仏を殺す罪に及ぼうか。

法華の心に背(そむ)きぬれば十方の仏の命を失ふ罪なり、此の定めに背くを謗法の者とは申すなり、地獄おそるべし炎を以て家とす、餓鬼悲むべし飢渇に飢えて子を食ふ、修羅は闘諍なり・畜生は残害とて互に殺しあふ、紅蓮地獄と申すは紅の蓮とよむ、其の故は余りの寒さに・つめられてかがむことにより・(背中が割れて)肉の出でたるが紅の蓮に似たるなり、ましてや大紅蓮においてはなおさらである。そのような悪所に行けば王の位も将軍も物の数ではない。獄卒の呵責にあへる姿は猿回しの猿を回すに異ならない。此の時はどうして名聞名利や我慢偏執の心でいられようか。

(以上は講義第1章の範囲)

確信しなさい、法華経を知る僧を不思議の志にて一度であっても供養するならば悪道に行くことはない。ましてや十度、二十度ないし五年・十年・一生の間・供養する功徳は仏の智慧であっても知りがたい。此の経の行者を一度供養する功徳は釈迦仏を直ちに八十億劫が間・無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億倍勝れていると仏は説かれている。此の経にあひ奉りぬれば悦び身にあふれ、左右の眼に涙が浮んで釈尊の御恩報じ尽しがたい。このように此の山まで度々御供養されていることは法華経並に釈迦尊の御恩を報じられることになるであろう。いよいよ励まれるがよい。怠ってはなりません。皆、人がこの経を信じ始める時は信心がある様に見えるけれども・中ほどになると信心も弱く、僧をも敬わず供養もしない。慢心を起こして悪見をなす(邪悪な考えを起こす)。これ恐るべし恐るべし、始より終りまでいよいよ信心を貫きなさい。そうでなければ後悔するであろう。たとえば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩みをやめてしまっては、どうやって都の月をばながめることができようか。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、いよいよ仏法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべきである。(以上講義第2章の範囲)

(御書1440頁8行目~)
 噫過ぎし方の程なきを以て知んぬ我等が命今幾程もなき事を春の朝に花をながめし時ともなひ遊びし人は花と共に無常の嵐に散りはてて名のみ残りて其の人はなし花は散りぬといへども又こん春も発くべしされども消えにし人は亦いかならん世にか来るべき秋の暮に月を詠めし時戯れむつびし人も月と共に有為の雲に入りて後面影ばかり身にそひて物いふことなし月は西山に入るといへども亦こん秋も詠むべし然れどもかくれし人は今いづくにか住みぬらんおぼつかなし無常の虎のなく音は耳にちかづくといへども聞いて驚くことなし屠所の羊の今幾日か無常の道を歩まん。〈この太字の範囲は先に通解を書いたので見てください〉

雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜が明けると巣をつくろうと鳴くけれども、日が出たときには朝日の暖かさにつられて眠り忘れて又巣をつくらないで一生虚く鳴くという。一切衆生もまた同様である。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願わくは今度人間に生れて諸事を差し置いて、仏・法・僧の三宝を供養し、後世の悟り得ようと願っても、たまたま人間に生まれてきたときは名聞名利の風がはげしく、仏道修行の灯は消えやすい。無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をすることを面倒くさく思うことは、これただごとではない。地獄の使いが引っ張る力の方が強いのである。寸善尺魔というのはこれである、その上此の国は謗法の国土であるので守護の善神は法味に飢えて社をすて天に上られたので社には悪鬼入り替わって多くの人を導いている。仏陀は化導をやめて寂光土へ帰られたので堂塔や寺社はいたずらに魔のすみかとなってしまった。国費と民の歎きによって・いらかを並べて建っているだけである。これ私の言ではない。経文にこれあることである。習びなさい。(以上講義第3章の範囲)

 

(感想)今の時期、広布部員としては耳の痛い人もあるかと思います。そうでないことを願います。無益のことには財宝を尽くすに惜しからずって、結構よく体験してるかも?!供養することを面倒くさく思うこと、これただ事にあらず!と喝!されました~なので、ちゃんと真心でご供養したら功徳もただ事ではない!

 

(御書1441頁3行目~)
 諸仏も諸神も謗法の供養を全く受け取られない。まして人間としてこれを受けることができようか。春日大明神の御託宣に云く「飯に銅の炎をば食べても心が穢れた人の物は受けない。座として銅の炎には座っても心が汚れた人の家には行かない。草の廊下・萱の軒には行くであろう」といい、たとえ千日のしめ縄を引いても不信の者の所には至行かない。重い忌の家であっても信心のある所には行くであろう」と言っている。このようにして善神はこの謗法の国をば嘆いて天に上られたのである、心がけがれているというのは法華経を持たざる人の事である。この経の五の巻に述べられている。謗法の供養よりも銅焰のほうがましだ言われている。神でさえもこのようである。ましてや我等凡夫として炎を食べることができようか。人の子として我が親を殺したものが我に物を与えようとしたときに、これを取ることができるであろうか。いかなる智者聖人も無間地獄を逃れることはできない。又それにも近づいてもいけない。与同罪恐れるべきである、恐れるべきである。

(講義から)謗法こそ最も大きい罪であり、いかに優れた知人・聖人でも、法華経に背けば謗法であり、無間地獄を免れない。これに近づき「与同罪」を犯すことも厳に戒めていかなければならない。(以上講義第4章の範囲)


 釈尊は一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父なり主なり師なり、此の釈尊を殺そうとしているのをどうして諸天善神等がうれしく思うであろうか。今此の国の一切の人々は皆釈尊の御敵である。在家の俗男・俗女等よりも邪智心の僧達はとくに御敵である。智慧に於ても正智あり、邪智がある。智慧があってもその邪義には随ってはならない。貴い僧とか高名な僧であるからということに依ってはならない。賤き者なりとも、此の経の謂れを知りたらんものをば、生身の如来のごとくに礼拝供養すべし。是れ経文なり。それゆえ、伝教大師は「無智破戒の男女等も此の経を信ぜん者は、小乗二百五十戒の僧の上位の座席に座らせなさい。末座にしてはならない。まして大乗教のこの経の僧はなおさらである。」と仰せられている。今、生身の如来の如くに見える極楽寺の良観房よりも此の経を信じる男女は座席を高座に座るべきである。彼の二百五十戒の良観房も日蓮に会ったときは腹をたて眼をいからす、これただごとではない。智者の身に魔の入り替わっているからである。譬えば本性はよい人であっても、酒に酔いぬれば悪い心出できて人に迷惑をかけるようなものである。仏は法華以前の迦葉・舎利弗・目連等をば是を供養せん者は三悪道に堕つべし、彼らの心は犬野干の心には劣れりと説かれた。彼の四大声聞等は二百五十戒を持つことは金剛のようであり、三千の威儀を具足する事は十五夜の月のようであるけれども・法華経を持たざる時はこのように言われたのである。ましてやそれに劣る今の者たちはなおさらである。
 建長寺円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山が崩れたようなものであり、威儀のふしだらなことは猿に似ている。これを供養して後世を助からんと思うのは・はかないことである。はかないことである。(以上講義第5章の範囲)

守護の善神此の国を捨て去った事は疑いなし。昔、釈尊の御前で諸天善神・菩薩・声聞が異口同音に誓をたてられて、「もし法華経の御敵の国があれば、あるいは六月に霜や霰(あられ)となって国を飢饉に陥らせましょうといい、あるいは「小虫となって五穀を食べて失くしましょう」といい、或は「旱魃を起こしましょう」或は「大水となって田園を流しましょう」といい、或は「大風となって人民を吹き殺さん」と申し、或は悪鬼となってなやまさん」とそれぞれに申されている。今の八幡大菩薩も其の座にいらっしゃったのである。どうして霊山での起請が破れるのを恐れられないことがあろう。起請を破られたならば無間地獄は疑なき者なり。恐れられるべきである。恐れられるべきである。今までは正く仏の御使いが出世して此の経を弘めることなく、国主もあながちに御敵にはなられず、ただどれも貴いと思うばかりである。
 しかるに今私が仏の御使として此の経を弘むるに依りて上一人より下万民に至るまでが皆謗法の者となってしまったのである。今までは諸天もこの国の者たちを法華経の御敵にはさせまいと、一人いる子供が思いに反しており悪い場合のように捨てかねていたけれども・霊山の起請を破ることのおそろしさに、社を焼き払いて天に上らせ給いぬ。そうではあるけれども身命をおしまない法華経の行者がいるならばその頭には住むであろう。天照太神八幡大菩薩が天に上られたならば、そのほかの諸神がどうして社に留まれるであろう。たとえ捨てまいとお思いになっても霊山での約束のままに私が呵責したならば、一日もいらっしゃることはできない。譬えば盗人が世間に知られていない時はあちらこちらに住んでいても、よ事情を知ったものが「この者こそ盗人だ」と大声で騒ぎ立てたならば、不本意でも住かを去るように、諸天善神も私に責められて社をば捨てられたのである。こうしてこの国は思いの外に悪鬼神の住家(すみか)となったのである。哀(あわれ)である。哀(あわれ)である。(以上講義第6章の範囲)

 

・・・ちょっと休憩・・・以下はまた更新します。


 また(釈迦の)一代聖教を弘むる人は多くいるけれども、これほどの大事な法門を伝教も天台もいまだ仰せられていない。それも道理である。末法の始めの五百年に上行菩薩の出世あつて弘め給ふべき法門なるが故なり。心してなんとしても此の度此の経をよく信じて命終の時・千仏の迎えをうけ、霊山浄土に走りまいり自受法楽すべきである。信心弱くして成仏が延びた時・私をうらんではならない。たとえば病者に良薬を与ふるに毒を好んで食べていれば、その病が愈えがたき時・自分の過ちとは思わずかえって医師を恨むようなものである。

此の経の信心というのは少しも我見なく経文の通りに、人の言を用いず、法華経一部に背く事がなければ仏に成るのである。仏に成るというのはは別のことではない。、南無妙法蓮華経と他事にとらわれることなく唱えていけば、自然と三十二相八十種好を備えるのである。如我等無異〈我が如く等しくして異なることなし〉と言って釈尊のような仏にやすやすと成るのである。たとえば鳥の卵は始めは水である。その水の中より誰かがしたということもないけれども、觜よ目よと荘厳するものが出来てきて、虚空にかけるようなものである。我等も無明の卵にして・浅ましい身ではあるけれでも南無妙法蓮華経の唱への母にあたためられて、三十二相の觜出てきて、八十種好の鎧毛(よろいげ)が生えそろひて、実相真如の虚空(大空)にかけるべし(飛翔することができるのである)。このことを経に云く「一切衆生は無明の卵の中にいて智慧の口ばしはない。仏母の鳥は分段同居の古栖に帰って、無明の卵をたたき破りて・一切衆生の鳥をすだてて法性真如の大虚(大空)に飛ばせる」と説いている取意。(以上第7章の範囲)


 有解無信といって法門を理解しても信心なき者は絶対に成仏することはできない。有信無解といって理解はなくても信心あるものは成仏できる。皆この経の意なり。私の言ではない。法華経第二の巻には「信を以て入ることを得、己が智分に非ず」とて智慧第一の舎利弗もただこの経を受け持ち、信心強盛にして仏になった。己が智慧にて仏にならずと説いている。舎利弗でさえも智慧によっては仏にならなかった。ましてや我等衆生が少しばかりの法門を心得たとしても信心なければ仏になることはおぼつかない。

末代の衆生は法門を少しばかり心得、僧をあなづり法をゆるがせにして悪道に堕ちるであろうと説かれている。法を心得たるしるしとしては、僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべきである。今は仏がいらっしゃらない。仏法の解悟した智識を仏と敬うべきである。そうすればどうして功徳がないことがあろうか。後世を願う者は名利名聞を捨てて、何に賤しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬うべきである。これまさしく経文に説くところである。。(以上講義第8章の範囲)


 今の時代の禅宗は大段・仁義礼智信五常に背いている。智慧のある高徳の人をおそれて老いたるを敬ひ、幼きを愛することは仏典でも外典でも説いている法である。、ところが彼の僧家の者を見ると、昨日・今日まで粗野な田舎者で黒白を知らない者であっても、褐色〈濃い藍色〉の直綴(じきとつ)〈略儀の僧衣〉を着ただけで、慢心して天台・真言の有智・高徳の人をあなづり、礼もしないでその上位にいると思っている。これは傍若無人で畜生にも劣っている。この礼ということについて伝教大師の御釈には「川獺(せんだつ)〈かわうそ〉は魚を供えて先祖を祭っている志を持っている。林の中の烏は父や祖父に食べ物を運んで恩に報いる。鳩鴿(きゅうごう)三枝の礼あり〈鳩は親より三つ下の枝にとまる。〉行雁連を乱らず〈雁が列を乱さずに飛ぶこと〉、羔羊踞りて〈子羊は膝を屈めて〉乳を飲む、賤しき畜生ですら礼を知ることはこのようである。どうして人間同士にの間において、その礼がなくてよいものであろうか」と仰せになっている。彼等禅僧達が法に迷う事は道理である。人の踏み行うべき道さえも知らないのである。これ天魔破旬〈第六天の魔王〉の振る舞いではないか。

                         (以上講義第9章の範囲)


 これらの法門をよくよく明らかに知って、法華経一部八巻・二十八品を頭にいただき懈らず行いなさい。また某(それがし)〈私〉を恋しくなった時は日々に日〈太陽〉を拝みなさい。某は日に一度・天の日に影をうつす者である。この僧に読んでもらって聴聞しなさい。この僧を解悟の智識と頼みにされて、常に法門をお聞きなさい。聞かなければどうして迷闇の雲を払えよう。足がなくてどうやって千里の道を行けるだろうか。返す返す此の書をつねに読ませてお聞きなさい。事事面の次を期し候間〈いろいろなことはお会いした時にと思って〉・委細には申し述べず候〈詳しくは申しあげていない〉、穴賢穴賢。 
 弘安三年二月 日 日 蓮 御判
 新 池 殿

(講義から)

これまで述べてこられた種々の法門を理解して法華経を根本として信受し、懈怠なく自行化他の実践に励むべきことをご教示されている。日蓮大聖人の根本は南無妙法蓮華経であるが、一機一縁のために一往法華経を根本にすることを許されたものと思われる。

その意は法華経に三大秘法を含むからである。含意はあくまでも三大秘法の南無妙法蓮華経にあり、「一部八巻・廿八品を頭にいただき」とは妙法の御本尊を根本としていくこと、「惰らず行ひ給へ」とは自行化他の題目の持続であると拝すべきであろう。

また、大聖人を恋しく思う時は、毎日、太陽に向かって題目を唱えなさいと。大聖人が日に一度、太陽に影を映すとは、毎朝、東天に向かって唱題するとき、いずこにあっても心は信心唱題によって心は通ずることを教えられたのである。

この書を託した使僧を「解悟の智識」、正しい仏道修行に導く善知識と信頼し、常に法門のことを聞きなさいと言われている。前出の「解悟の智識」が別して大聖人をさしているのに対して、ここではその大聖人の名代としていくようにとの意味と拝される。

求めて聞くことが迷暗をはらって信心が深まり、智慧が開かれるというので、求道心を燃やして先輩にぶつかっていきたいと思います。

                        (以上講義第10章の範囲)