御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

船守弥三郎許御書 伊豆配流事 1445頁 40歳御作 #33

弘長元年6月27日、日蓮大聖人が40歳の時、伊豆国伊東で著され、船守弥三郎に与えられた御消息です。

弥三郎は伊豆国川奈の舟持ちの漁師で弘長元年五月十二日に流罪されて川奈に着かれた日蓮大聖人をお助けして三十日にわたって匿いお仕えしています。その後伊東の地頭伊東八郎左衛門尉が重病になり、病気平癒の祈願を依頼してきたため大聖人伊東へ移られました。そこへ弥三郎夫妻がさまざまなご供養の品をお届けしたことに対するご返事です。大聖人が五月十二日に流罪されて川奈に着かれた時大聖人をお助けして三十日もの間お給仕した船守弥三郎夫妻に感謝され、大聖人の父母が生まれ変わってこられたのであろうか、法華経法師品の文にある清信の子女であろうかと賛嘆されています。そして地頭の伊東八郎左衛門尉が重病にかかったため、病気平癒の祈願を依頼してきて、大聖人の祈念によって病気が治ったので、海中から出現した釈尊の一体像を大聖人に捧げたことを述べ、これも弥三郎夫妻の功徳となるであろうと述べられています。

さらに、無始以来、生死の大海にいた我等衆生も、法華経を信ずることによって釈尊と同じ仏になることができるのであると明かし、このように凡夫が、即身成仏できるのが一念三千の法門であると説いています。最後に、弥三郎夫妻は釈尊が生まれ変わられて、日蓮を助けられたのであろうと賛嘆されています。(以上「日蓮大聖人の御書を読む」から抜粋)

 

講義を読んで興味深かった面白い逸話があります。(講義33巻17頁)

大聖人に祈っていただき病気が治った地頭が、お礼に漁師が海中より引き上げた立像の釈迦一体仏を大聖人に捧げたそうです。大聖人は終生、身から離さず所持されたと伝えられていて、大聖人の遺言として滅後はこの釈迦一体仏を墓所の傍らに立ておくように命ぜられ事実その通りになされた。しかし、日朗がこれを持ち去り、のちに京へ運ばれる途中、海路嵐にあって再び海中に沈んだとされている。

末法万年にわたる一切衆生成仏得脱のための真実の本尊は、大聖人所顕の南無妙法蓮華経の大曼荼羅以外にないことは言うまでもない。

大聖人がこの釈迦仏を持たれていた意義について、日寛上人が末法相応抄で3つ書かれているそうです。

1つには、立宗弘通の初めであることから、まず、釈迦仏を借りて肝心の妙法を顕そうとされたということ。

2つには、当時は阿弥陀仏大日如来など爾前経の諸仏が本尊として拝まれていたので、まず、釈尊に帰り、その本意を尋ねよ、との権実相対の立場を宣示するためであったということ。

3つには、上行菩薩の再誕として、仏の境界にあった大聖人の眼には立像の釈迦仏がそのまま久遠元初の本仏と映られたということ。

このような深い理由があって大聖人は釈迦一体象を所持されたのであり、釈迦像を本尊として崇めてよいということではない。