御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

善無畏抄 1232頁 54歳御作

おそらく真言宗を信仰していたであろうと思われる知的水準の高い女の人に与えられたのではないかと思われる内容の御書です。本抄の末尾が欠けているのでわからないようです。善無畏三蔵のことが詳しく書かれているので善無畏抄と言います。

私が講義を読んで一番面白かった話があります。以下、講義の33頁を引用しつつまとめてみました。

善無畏は13歳で出家して以来、一代仏教を学び、膨大な知識を持っていたはずであるが、死んで獄卒の責めにあった時、そのような知識は跡形もなく消えさり、ただ法華経の題目だけを覚えており、それが地獄からこの世に戻ってくる力となった。このことは今日における題目の下種の意味を教えるために引かれた故事と言える。だから、たとえそれを聞いた時は信じようとせず、反対したとしても、ひとたび生命に植え付けられた法華経の題目は、いざ地獄の責めにあった時、必ず思い起こされ、救いの力となっていくのである。法華経の題目だけがなぜ忘れえないかといえば、この題目こそ一切の衆生の生命に本有(ほんぬ)の仏性を表わしたものに他ならないからである。つまり単に外から与えられた知識は死という試練に消え去ってしまう。だが、題目はもともと地上の生命の本源に根を持ったものであるから、死という暴風にあっても飛び散ってしまうことはないのである。

また現実問題として、ひとたびこの仏法を教えてあげたことによって、たとえその時は発心するに至らなくとも、人生の苦難に陥った時に、この妙法を思い出し、それが蘇生の機縁になる事例はしばしば見聞するところである。その意味で善無畏のこの体験は現実にこの世界に多くの体験者を持っていると言えるのではあるまいか。

 

善無畏が生き返ったという所の御書の通解も書いておきます。

善無畏三蔵はこのように尊貴な人であったけれども、ある時頓死した。やがて息を吹き返して言うのに、自分が死んだ時、獄卒が来て鉄の縄を七重にかけ、鉄の杖で散々に打ち攻め閻魔王の宮殿に連れて行った。その時八万四千の聖教の一字一句も頭の中にはなく、ただ法華経の題目だけを忘れないでいた。その題目を頭に思い浮べたところ、鉄の縄は少し緩んだ。息をついで今度は声を高くして、「今此の三界は皆これ我が有なり。その中の衆生は悉(ことごと)くこれ吾が子なり。しかも今この処は諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し、唯我一人のみよく救護(くご)をなす」という法華経比喩品の文を唱えた。すると七重の鉄の縄は切れ砕けて十方に散らばった。閻魔王は善無畏に敬意を表して冠を傾け、南側の庭に下りて向かい合った。そして「この度はまだ寿命が尽きていない」ということで、(この世に)帰されたのだ、と語った。

 

真言宗の開祖と言われる善無畏が、こういう体験をしたということを、真言宗の人達が知らないのですね、面白いと思いませんか。

 

講義の第二章のところにこう書かれてあります。

善無畏は一国の太子と生まれるぐらいであるから、過去の善根も並々ならないものであったし、しかも今生ではそうして持って生まれた権勢に驕ることなく、むしろ仏法を修め弘めたのであるから、一層大きい善根を作っているはずである。にもかかわらず、仮死とはいえ一度死の世界に入った時、なぜ地獄の責めにあわなければならなかったのか。ここに「日蓮不審して云く」の不審の本質がある。

善無畏が真言を信じ、またそれを中国に伝えて仏法興隆のために我が身を捧げようとしたその心は純粋なものだったに違いない。だが信仰はその心が純粋で、無私であれば十分なのではない。もとより信仰のあり方として、これも不可欠ではあるが、同時により以上に大切なのは、その法の正邪である。むしろ誤った法であれば、それを信じる心が純真で強ければ強いほど、それによって受ける結果もますます深く大きい苦悩とならざるを得ない。だが、今日においても、信仰はそれを信ずる心さえ清らかで真っ直ぐであれば良いといった論議が正当視されている。否、今日の信仰論は一層こうした傾向を強めていると言ってよいであろう。宗教によってもたらされる不幸の根源はまさにここにある。

 

講義の第5章のところの通解に→(1234頁17行目)

世間の法では下の者が上の者を倒したり、上位の者に背いて下の者に通じ親しんだりすることは、国が乱れ滅びる因縁である。仏法では権大乗教、小乗教の教々を根本として、実教である法華経等を侮ることは、大謗法の因縁である。これはまことに恐るべきことである。

講義ではこう言われています。

法然の謗法の罪の重さは、これら中国浄土宗の開祖たちの言を勝手に拡大解釈して、法華経をも、末世には無益な経の中に入れ、捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、抛(なげう)てと唱えたことにある。[捨閉閣抛(しゃへいかくほう)という。]

 

こうした大謗法に陥った根源がどこにあったかを考える時、宗教的執着に行き着く。すなわちそこにあるのは仏法の真理を究めようとする求道心でもなければ、正しい法を宣揚しようとする信仰の情熱でもなく、自己の宗旨に対する執着心であり、その本質は貪瞋癡といった醜い生命の魔性にあることを知らなければならない。

講義は全部で9章まであります。8章のところには女人成仏のことが出て来ます。五障三従の話も。長くなるので、この辺で置いておこうと思います。