御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

嘱累品等大意 日女御前御返事 1245頁 57歳御作

本抄は弘安元年(1278年)六月、大聖人が身延に入られて五年目に、日女御前が法華経二十八品の品々ごとに御供養をしたことに対して与えられたご返事です。

前回も日女御前御返事でしたが、日女御前については池上宗仲の夫人とも、松野殿の娘で窪の持妙尼のこととも言われていますが、明らかではありません。

 

法華経嘱累品第二十二から勧発品二十八までの七品の大意を述べ、各品の功徳を賛嘆されています。そして、このような功徳のある法華経を品々ごとに供養した日女御前の信心を称えて宝塔品の虚空会の儀式は、日女御前の胸間の八葉の心蓮華であると述べ、日女御前の胸中の肉団に御本尊があると言われています。

最後にこのような世情が騒然としている中で、女人の身でありながら、法華経を信仰し、法華経の命をついでおられるのは、釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をついでおられることになるので、このような大きな功徳を受けていかれるのは、世界中にほかにはいないと、その信心をたたえて激励されています。

今回の御書は5頁半くらいあります。前回の日女御前御返事は2頁半ほどでしたので、こっちはかなり長いお手紙です。私が以前拝読した時にかなり線を引いて読んだあとがありました。今回は通解と講義を読んでしっかりわかりたいと思います。

 

御書の現代文(通解)だけ、載せていきたいと思います。(割愛した部分があったかもしれません(-_-;)すみません、また調べますが・・・記憶が飛んでます)

 

(1245頁初-

御布施七貫文送って頂きました。属累品の本意には多宝塔から出て虚空に立たれた釈尊が、四百万億那由佗の世界一面に、武蔵野のすすきの如く富士山の木の如く群がって膝を詰め寄せ、頭を地につけ身をかがめ手を合わせ、汗を流して、釈尊の御前に露のようにおびただしく集まった多数の上行菩薩等や文珠等、大梵天王、帝釈、日月、四天王、竜王十羅刹女等に法華経を譲るために、三度も頭をなでられた事にある。それはあたかも母がひとり息子の髪を撫でるようなものであった。その時に上行や日月天等は、かたじけない仰せを受けて、法華経を滅後末法に弘通することを誓ったのである。

   薬王品というのは、薬王菩薩が過去世に喜見菩薩と称した時に、日月浄明徳仏に法華経を習い・その師の恩といい法華経の尊さといい、感激のあまり万(よろず)の重宝を尽くして供養したけれども・それでもまだ、心ゆかずして(満足しないで)身に油を塗って千二百年の間・当時の油に燈芯を入れて焚(た)くように・身を焚いて仏を供養し・後に七万二千年の間ひじを灯として焚きつくし・法華経に御供養した。
 故に今、法華経を後五百歳の女人が供養すれば、その薬王菩薩の功徳を一分も残さず譲られるのである。たとえば長者が一人息子に一切の財宝を譲るようなものである。

妙音品というのは、東方の浄華宿王智仏の国に妙音菩薩という菩薩がいた。昔の雲雷音王仏の御代の妙荘厳王の后の浄徳夫人である。、昔、法華経を供養して、今、妙音菩薩となった。釈迦如来が娑婆世界で法華経を説かれる会座に来て、法華経を持つ末法の女人を護ることを誓ったのである。

観音品というのは又普門品と名づける。初めに観世音菩薩を持つ人の功徳を説かれているので、これを観音品と名づけるのである。この品の後半には観世音菩薩が信仰していた法華経を持つ人の功徳が説かれているので、これを普門品というのである。

 

[講義より]

薬王品から普門品までのあらわしているもあらわしているものは、先に嘱累品で付嘱を受けた菩薩がいかなる姿で各々の持っている力を発揮し、世界に貢献しつつ法を弘めるかということである。

薬王菩薩が喜見菩薩として、身を焼いて仏に供養し、世界に光明を与えたというのは、妙法を受持した人は自身の生命を燃焼させることによって世界に貢献し、仏に供養することを教えている。妙音菩薩は特に音楽の才能だけでなく、芸術的な力を発揮して人々に勇気と希望を与えていく働きであろう。また、なにも芸術に限らず、その言々句々や振る舞いが人々の心を楽しませ、自信と勇気を呼び起こしていくのが妙音とも考えられる。

観世音菩薩とは社会の動向や人々の心を見抜き、賢明にリードし救っていく力を表わす。政治、経済などに通達した生命の働きといえる。

これらは迹化の菩薩であるが、だからといって本化と無関係ではない。その本地は妙法受持の本化であっても、現実社会の中で表わす姿と働きは迹化の立場になるのである。

                      (講義240頁を参照)

 

 [御書通解の続き]

 

陀羅尼品(だらにほん)というのは二聖・二天・十羅刹女が、法華経の行者を守護するということが説かれている。二聖というのはは薬王と勇施(ゆぜ)である。二天と申すは毘沙門と持国天である。十羅刹女というの十人の大鬼神女であり、四天下(世界中)の一切の鬼神の母である。又十羅刹女の母がいる。鬼子母神である。

鬼の習いとして人を食べる。人には三十六の物がある。いわゆる糞と尿と唾と肉と血と皮と骨と五蔵と六腑と髪と毛と気と命等なり、而るに下品の鬼神は糞等を食べ・中品の鬼神は骨等を食べる。上品の鬼神は精気を食す、此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す、疫病の大鬼神である。鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼である。鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。今日本国の去年今年の大疫病は何と心得るべきであろうか。これの答えとしては、一には善鬼なり、梵王・帝釈・日月・四天の許しを受けて法華経の怨を食しているのである。二には悪鬼が第六天の魔王のすすめによって法華経を修行する人を食している。善鬼が法華経の敵を食うことは官兵が朝敵を罰するようなものである。悪鬼が法華経の行者を食べるのは強盗、夜討等が官兵を殺すようなものである。

たとえば日本国に仏法の渡った時・仏法に敵対した物部の大連守屋等も疫病にかかり、蘇我宿禰・馬子等も疫病にかかった。欽明・敏達・用明の三代の国王は心には仏法・釈迦如来を信じていたが、外面には国の礼に従って天照太神・熊野山等を崇めていた。しかし仏と法への信心はうすく、神への信心が厚かったので、強いほうにひかれて三代の国王とも疫病疱瘡にかかって崩御したのである。

この例をもって、善悪二鬼のことも、今の世間の人々の疫病についても、日蓮の味方の人々が病み死ぬことも考えていきなさい。したがって命がけで信ずる人々は・疫病にかからないこともあるであろう。又掛かっても助かることもあるであろう。又大悪鬼にあえば命を奪われる人もあるであろう。たとえば畠山重忠は日本第一の強いの大将であったが多勢には遂に滅ぼされたようなものである。

 鬼神は又日本国の一切の真言師の悪霊となったり、並に禅宗・念仏者等が日蓮をあだもうとして国中に入り乱れている。又梵釈・日月・十羅刹の眷属の善鬼も・日本国に乱入している。善悪の両方が互に攻めとらんと励んでいるのである。

而るに十羅刹女は総じて法華経の行者を守護すると誓われたのだから、一切の法華経を持つ人々を守護されるだろうと思うがそうではない。たとえ法華経を持つ人々であっても、大日経はまされりなど申して、真言師が法華経を読誦するのは、かえって法華経を謗っていることになる。またほかの宗々も此を以て押し計るべきである。

 (1247頁9行~)

法華経を経のごとく持つ人人も・法華経の行者を或は貪瞋癡により、あるいは世間の事によりあるいは・様々な振舞いによって憎む人がある。此は法華経を信ずれども信ずる功徳なし、かえって罰を受けるのである。たとえば父母が国主に謀反等を起こすようなものである。子息等の身として両親に背けば不孝の者となるようなものである。父が自分の愛する妻を横取りし、母が自分の愛する夫を奪うとも、子の身として少しでも背けば、現世には天に捨てられ後生には必ず阿鼻地獄に堕つる業である。ましてや父母にまされる賢王に背けばなおさらのことである。まして父母・国王に百千万億倍優れた世間の師においてはなおさらである。さらに出世間の師においてはなおさらである。まして法華経御師に背く罪はいかに大きいであろうか。


 黄河は千年に一度すむといわれる。聖人は千年に一度出るのである。仏は無量劫に一度出現する。その仏にあうことができても法華経にはあいがたい。たとえ法華経に値ったとしても末代の凡夫・法華経の行者には値いがたい。その理由は末代の法華経の行者は法華経を説かない華厳・阿含・方等・般若・大日経等の千二百余尊よりも、末代に法華経を説く行者は勝れているからである。妙楽大師釈して云く「供養すること有る者は福十号に過ぎ、若し悩乱する者は頭七分に破れん」云云、

 

今日本国の者、去年今年の疫病と去る正嘉の疫病とは人王始まりて九十余代に比類ない疫病である。聖人が国にいるのを人々があだむ故であると思われる。師子を吼る犬は腸切れ、日月をのむ修羅は頭が破れるというのはこれである。日本国の一切衆生、すでに三分が二は病んでいる。そのうち半分は死んでしまった。今三分の一は身は病んでいないが心は病んでいる。又頭も姿にはあらわれても、あらわれなくても破れているであろう。

罰に四あり総罰・別罰・冥罰・顕罰なり、聖人をあだめば総罰一国にわたる又四天下・又六欲天・四禅天にまで及ぶのである。賢人をあだむ場合は別罰で敵対した人等のみに限られる。今日本国の疫病は総罰である。きっと聖人が国にいるのを迫害したためであろう。山は玉をいだけば草木かれない。国に聖人あれば其の国やぶれず、山の草木のかれぬは玉のある故とも愚者は知らず、国のやぶるるは聖人をあだむ故とも愚人はわきまえないのである。
 たとえ日月の光あっても盲目の人のためには用をなさない。たとえ声があっても聾者のために何の役に立つであろうか。日本国の一切衆生は盲目と耳しひ(聾者)のごとし、これらの一切の眼と耳とを開かせ一切の眼をあけ一切の人々の耳に物を聞かせることは・どれほどの功徳かあることだろう。誰がその功徳をば計ることができようか。設ひ父母・子をうみて眼耳有りとも物を教ゆる師なくば畜生の眼耳と等しいというべきであろう。日本国の一切衆生は十方の中には西方の一方を、一切の仏の中には阿弥陀仏を、一切の行の中には弥陀の名号を唱えるという、この三つを根本として余行をば兼ねて修行する人もあり、一向に念仏のみを修行している人もいる。自分は去ぬる建長五年より今に至るまで二十余年の間・遠くは一代聖教の勝劣・先後・浅深を立て・近くは弥陀念仏と法華経の題目との高下を明らかにして破折してきたところ、上は執権より下万民に至るまで此の事を用ひず、あるいはそれぞれの師師に問い・あるいは主人に訴え、あるいは同僚にかたり・あるいは我が身の妻子眷属に話したので、やがて国という国・郡という郡・郷という郷・村という村・寺という寺・社という社に沙汰があったので、人ごとに日蓮が名を知り法華経を念仏に対して、念仏が勝れていること、法華経が叶ひがたき事、諸人の僧は立派で日蓮は悪僧であることなどを取りざたしたので、上もあだみ下も憎んで、日本一同に法華経と行者との大怨敵となってしまった。このようにいうと日本国の人人・並に日蓮が弟子檀那の中にも物に道理のわからない者は、人に信じられようとしてあらぬ事を云うと思っている。これは仏法の道理を信じたる男女に知らせるようにいうのである。それを信じるかどうかは各各の心にまかせるのみである。


 妙荘厳王品と申すは特に女性のために大切な経であり、妻が夫に信仰を勧めた品である。末代に及びても女房が夫に勧めるのは名こそ変わっても功徳は但浄徳夫人のようである。ましてあなた方は女房も夫も共に信心がある。鳥の二つの羽そなはり車の二つの輪かかれり・何事か成せないことはない。天あり地あり日あり月あり、日が照り雨が降っているのである。功徳の草木に花が咲き菓がなるであろう。

 次に勧発品と申すは釈迦仏の御弟子の中に僧はたくさんいたけれども、迦葉阿難は常に左右にいた。王の左右の臣の如し、これは小乗経の仏なり、又普賢・文殊と申すは一切の菩薩多しといへども、教主釈尊の左右の臣なり、而るに一代超過の法華経八箇年が間・十方の諸仏菩薩等・大地微塵よりも多く集まったときに・左右の臣たる普賢菩薩のいなかったのは不思議なりし事なり、而れども妙荘厳王品を・とかれて・いよいよ法華経の説法も終わろうとしている時に、普賢菩薩が東方の宝威徳浄王仏の国より、万億の伎楽を奏し、無数の八部衆を引率して、遅ればせながら馳せ参じたのである。参らせ給いしかば、仏のご機嫌が悪いと思ったのであろうか、真剣な面持ちで末代に法華経の行者を守護することをねんごろに誓われたところ、仏も法華経を世界に流布することを、誓う姿を誉められたのであろう、返つて※上(かみ)の上位の菩薩よりも特にねんごろに仏は誉められたのである。

 ※位の高い菩薩を指す。文殊・観音・弥勒・薬王等の迹化の大菩薩のこと。

 

(1249頁14行目~)
 このように法華経を末代の女人が二十八品を品品ごとに供養しようと思われたことはただごとではない。宝塔品の御時は多宝如来・釈迦如来・十方の諸仏・一切の菩薩集まったのである。この宝塔品はいづれのところにか・只今あるのであろうかと・考えてみれば、日女御前の御胸の間・八葉の心蓮華の内にこそあると日蓮は見ているのである。例せば蓮の実に蓮華のあるように、后の御腹に太子を懐妊したようなものである。前世に十善を持てる人が太子となって生まれるために、后の御腹に宿られると諸天は此を守護す、故に太子をば天子と号す(いうのである)。法華経・二十八品の文字・六万九千三百八十四字・一一の文字は字ごとに太子のごとし、字毎に仏の御種子なのである。闇の中に影あり、人此をみず。虚空に鳥の飛跡あり、人此をみず。大海に魚の道あり人これをみず。月の中に四天下の人物一もかけず(映っているが)人は此を見ることができない。とはいっても、天眼は此を見ることができるのである。

 日女御前の御身の内心に宝塔品まします(あるのです)。凡夫は見えないといっても釈迦・多宝・十方の諸仏はご覧になっているのである。日蓮又此を推察するのである。まことに尊いことである。尊いことである。

周の文王は老たる者を大切に養っていくさに勝ち、その子孫は三十七代、八百年の間す末裔には悪政の時代もあったが、根本である文王の功によって長く栄えたのである。阿闍世王は大悪人であったが、父びんばさら王が仏を数年の間供養した功徳によって、九十年の間・位を持つことができた。当世も又このように同じである。今北条氏は法華経の御かたきなっているので、しばらくも政権が保てるとは見えないけれど、故権(こごん)の大夫殿や、武蔵の前司入道殿の善政のおかげで当分は安穏なのであろう。それもこのままずっと法華経の敵となったならば叶わないのではなかろうか。
今、幕府のの人人の考えは念仏者等は法華経に親しみを抱いているのに、日蓮は念仏を敵のように思っている。我等は法華経も念仏も両方信じていると言っている。日蓮が反詰しよう。今の幕府にに大禍なければどうして、古今未曽有の疫病・飢饉・大兵乱はいかにして起こっているのか。また、他宗の僧と公平な立場で対決もさせないまま、法華経の行者である日蓮を二度まで流罪したのはどういうわけか。不便である、不便である。そんな中、女人の御身として(法華経を信仰し、)法華経の御命をつがせておられるのは、釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせておられることになるのです。このような功徳を持っている人は一世界中にいるだろうか、恐恐謹言。
 六月二十五日 日 蓮 花押
 日女御前御返事

 

大変長いお手紙ですが、法華経の品々に対してご供養をされたという日女御前さんも相当すごいなと思ったり、また法華経のいくつかの大切な品について大聖人が記述してくださっている内容がすごいと思いました。なかなかほかのお手紙ではまとまって書かれていることは少ないと思います。

1247頁9行目からのところ、太字にしておきましたが、私的に学会員としてこれは気を付けないといけないと思っていることです。身近な学会員でもこの過ちを知ってか知らずしてか、守らないこともあるようなので、恐るべし恐るべし!であります。同志の悪口を言ったりして、罰をうけないようにしなければ!