御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

日厳女御前御返事 1262頁 59歳御作

本抄は弘安三年十一月二十九日、大聖人が59歳の時身延で著されました。

日厳尼から「立願」の願文と御布施およびかたびらを送ってきたことに対するお手紙です。日巌尼については日亨上人は弟子檀那等列伝に「日厳尼等も不明ながら高橋六郎兵衛入道の所縁であろう」と推測されている。

短いお手紙ですが、有名な一節が含まれています。

叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず、水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心の・いさぎよきはすめるがごとし、木は道理のごとし・風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ」

 

(このお手紙を通解で載せておきます)

 弘安三年十一月八日、日厳(にちごん)尼がたてられた立願(りゅうがん)の願書、並びに御布施の銭一貫文、また、太布で仕立てられた単衣(ひとえぎぬ)を一つ、法華経の御宝前並びに日月天にもその旨を申し上げておきました。

その上は自分勝手に御本尊の功徳を推し量ってはいけません。あなたの願いが叶うか叶わないかは御信心によるのです。全く日蓮のとがではありません。水すめば月うつり、風ふけば木がゆれるように、人の御心は水のようなものであり、信心の弱いのは水がにごっているようなものです。信心が潔いことは水が澄んでいるようなものです。木は仏法の道理のようなものです。風が木を揺り動かすのは経文を読むようなものであると思いなさい。恐恐。
 十一月二十九日 日 蓮 花押
 日厳尼御前御返事

 

[講義がよかったので引用して載せます]

願いが叶う、叶わないは信心の厚薄によるのであり、大聖人の失(とが)ではないとの仰せである。日巌尼の「立願」については、その内容は不明であるが、大聖人の元へ願書としてしたためて送ったのであるから、よほどの心配事か悩みがあったのであろう。それに対して大聖人は法華経信仰の基本姿勢を明確に教えられている。願いが叶うか叶わないかはすべてその人の信力によるとの仰せは、凡夫である我々が、ともすると陥りがちな他力本願的な考え方を根本的に打ち破られている。

日厳尼の胸中には御本仏である日蓮大聖人に直接自分の願いを訴えれば必ず願いを叶えてもらえるのではないかという甘えがあったのではないだろうか。もしそうだとすれば、この指導は日厳尼の信心の甘えを根本から正された指摘であり、自主性のある確固とした信人に立つべきであると教えられた、まさに厳父の愛の指導と拝せよう。

我々凡夫の常として、わりあい都合よく事が運んでいる時には御本尊への感謝を忘れてしまうものである。逆に何か不都合なこと、悩みが出てくると、御本尊に願い、結果がなかなか現れないと、これだけ祈っているのにと思ってしまう。こういう信心の姿勢もやはり本当の正しいあり方とは言えない。水の流れるような信心が何より大切である。普段は御本尊を忘れ何かの時に思い出して拝むというような、甘えた信心は法華経の信心とは言えないのである。願いが叶わないのは御本尊に力がないからではなく、信力、行力が弱いからである。

仏力、法力は無限である。所詮甘えた信心だからであり、真剣な祈念を欠き、心の底から信じて祈っていないからである。その心の不信がそのまま現実の姿の上に現れているに過ぎないことを知るべきであろう。南妙法蓮華経と唱える我ご一念は、全宇宙に遍満していく。御本尊に強い一念をとどめて題目を唱える時、生命に力強く躍動する仏界が湧現し、願いが叶っていくのである。

祈りを叶えさせる信心には純真な信ずる心と強い実践が必要である。水が澄めば月が映ると仰せられる゙月”とは獅子王の如き仏の智恵と力である。妙法の功力を疑わない、澄んだ信心があってこそ、この偉大な仏界の生命が私達凡夫の身に現れるのである。しかしながらただ純真に信じているというだけでは、十分ではない。こうして己心に顕現した仏性の智恵と力をもって、現実の問題解決に取り組まなければ、結果をあらわすことはできないのである。更に「経文を読む」と表現されている仏法の実践は木=道理を揺るがす“風”に相当する。道理を揺るがすとは直面している事態を少しでも有利なように変革することと言えよう。真剣な仏法の実践を行なうことによって客観情勢そのものも変えることができるのである。「経文を読む」と代表して示されている実践とは「勤行・唱題」であり、「化他の折伏・布教の展開」であることは諸御抄に照らしていうまでもないところであろう。