御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

王日女殿御返事 1263頁 59歳御作

王日女は妙一尼であるとも、またはそのお付きの人であるとも伝えられているが、詳細は明らかではない。日昭の何らかの縁者であったと推察される。

 

(通解)

阿闍梨日昭に託して三百文、今度また二百文のご供養をいただきました。

仏はまことに尊い方で供養の品物によって人々の真心の浅深を測るようなことはありません。

昔、得勝童子は砂の餅を仏に供養して、のちの世に生まれ阿育大王と生まれ、一閻浮提を統治する王となりました。

また、ある貧しい女の人が自分の髪を剃ってその代価で油を求め、仏に供養したところ、須弥山を吹き抜ける強い風も、この貧女の供養した燈火を消すことはありませんでした。したがってあなたが供養したこの二百文、三百文のお金は日本国を治める人が国を供養し、七宝で飾られた塔を忉利天に届くほどに組み上げられて供養したよりもすぐれています。

法華経の一字は、たとえてみれば大地のようなものです。万物を生み出すのです。また、法華経の一字は大海のようなものです。大海がすべての河川の流れを納めているごとく一切経を納めているのです。また、法華経の一字は太陽や月のようなものです。全世界を照らすのです。

この法華経の一字が変じて月となり、月が変じて仏となるのです。稲は変じて苗となり、苗は生長して草となります。草は変じて米となり、米は食されて人の血肉となります。人は妙法によって仏となります。女人変じて妙の一字の当体となります。妙の一字は即、蓮華台上の釈迦仏となるのです。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。恐恐謹言。

太字のところの御書を載せますと・・・・

 法華経の一字は大地の如し万物を出生す、一字は大海の如し衆流を納む・一字は日月の如し四天下を照す、此の一字変じて仏となる、稲変じて苗となる・苗変じて草となる・草変じて米となる・米変じて人となる・人変じて仏となる・女人変じて妙の一字となる・妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし

(感想及び講義)

短い御書ですが、大事なご供養の精神が書かれています。それと仏法の深い哲理も含まれています。講義を読んでそれを思いました。

 

前半は得勝童子と貧女の一燈に代表される財供養の例。事供養ともいいますが、真の供養の究極は仏の所説のごとく法を弘めていく行為、すなわち法供養にある。五濁の社会にあって三類の強敵を恐れず、忍辱の鎧を着て折伏に励む人は、最高の法供養を実践している人である。未来永劫にわたる福運を築いていることを確信すべきである。

後半のところは大事な仏法の哲理です。御書では短い言葉で書かれています。

仏法は一切の存在がどうあるか、どう変化していくか、どのように運動していくかを追求していったものである、そして存在の根源にある法を見い出し、それを妙法と名付けたのである。この妙法は万物がのっとっている根源の法である故に、万物を出生する大地にたとえられたのである。我々もまたこの妙法を根本とした存在なのである。

「一字は大海の如し、衆流を納む」とは妙法に一切法が摂し納められていることを示している。釈尊の説いた一代聖教は、この妙法への悟りの上から説き出されたものである。故に妙法の一法に万法は摂しつくされているのである。これはまた仏法以外の一切の思想についても言えるであろう。即ちそれらもすべて妙法を根本とした人間の一念から展開されたものである。とすれば、やはり究極は妙法に摂せられることになる。

「一字は日月の如し、四天下を照らす」とはこの妙法を根本として一切法を見ていく時に、全ての本質が明瞭に見渡せることを示している。一般論としても部分観だけにとどまり、そこに執着をしていれば、その部分すらも的確に捉えられなくなっていく。全体観に立って初めてその部分の意味も明らかとなるのである。その意味から一切の根源である妙法の目から見ていく時に、一切法が照らし出されるのである。実践的に言えば我々は妙法の智恵を持って自身の生活、世間の法を正しく捉え、そこに豊かな価値創造をしていくことができるのである。

 

 

          日蓮大聖人御書講義 第26巻 終了