御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

道場神守護事 979頁 55歳御作

身延で書かれた御消息です。宛名は富木常忍と推定されていますが、他の下総方面の信徒とも考えられます。

供養のお礼を述べ、十羅刹を夢に見たと知らせたことについて、心が固ければ倶生神の守りは強く、まして、道場を守る神においておやとされ、法華文句の文を引いて、仏・法・僧の三宝を信ずれば罪のある者でも大難をも脱がれることを明かされ、十羅刹の夢は難を去って福の来る先兆であり、たとえ災いが来るとも幸いに変じるであろう、と述べています。

本抄の内容は大聖人に報告された「託宣」の内容が不明のため意味が取りにくいですが、それが「十羅刹の御計らい」で「檀那の功を致さしむる」ものと仰せであり、そのあとで道場神の守護を強調されていること、また「難をさって福の来る先兆ならん」とか「災来るとも変じて幸とならん」等の御文から推察すると、富木常忍御自身のことではなく、身延の大聖人の身の上になんらかの変事、災難がふりかかることを予知して、通知したもので、今こそ常忍が檀那として大聖人を外護すべきことを教えたものと考えられるのである。

 

短い御書なので通解を載せます。

銭五貫文、確かにお送りいただいた。すでにご承知のようにこの身延の場所は里を離れた深山である。(あなたの供養がなかったら)衣食が乏しいために読経の声は続きがたく、談義の勤めはやめてしまわなければならないところである。この託宣は十羅刹女の御計らいであなたに檀那としての功徳を積ませようとしたものであろうか。

摩訶止観の第八巻に「帝釈の堂を小鬼が敬って避けるようなものである。道場の神が偉大であれば、むやみに(病が)侵すことはない。また城の主が剛(つよ)いときは守る者も強い。城の主がおそれるときは守る者も怖れる。心は身の主である。同名・同生の天はよく人を守護する。」とある。止観輔行伝弘決の第八巻には「常に人を守護するといっても、必ず心の堅固さによって神の守りは強いのである」とあり、また「身の両肩にいる神でさえ常に人を守護するのである。まして道場の神はなおさらである」とある。

人は生まれた時から二神が守護しているのである。いわゆる同生天と同名天である。これを倶生神(くしょうじん)という。華厳経の文にある。

法華文句の第四巻には「盗賊が南無仏と唱えてさえ天人の像の頭を得たのである。ましてや賢者が唱えたならば十方のあらゆる尊神が守護の任にあたらないことは絶対にない。ただひたすら仏道修行に励みなさい。怠ることがあってはならない」等とある。

この法華文句の文の意は月氏(インド)において天を崇めて仏を用いない国があった。寺を造っても第六天の魔王の像を本尊としていた。その像の頭は金でできていた。大盗賊が数年来これを盗もうとして得ることができないでいた。あるとき仏前に詣で、物を盗んで法を聞いた。仏が説いていうには「南無とは驚覚の意義である」と。盗人はこれを聞いて「南無仏」と称えることによって第六天の魔王の像の頭を得ることができたのである。

のちにこれを糾明したところ、盗人は前述のように述べた。そこで一国の人々はみんな、天を捨てて仏に帰依したという。

このことからあなたのことを推測するに、たとえ科があるものでも仏・法・僧の三宝を信ずるならば大難を脱れることであろう。しかるに今、示された託宣の書状はかねてから承知していることである。このことを思案するに、これは難を去って福が来る先兆であろう。妙法蓮華経の妙の一字については竜樹菩薩の大智度論に「よく毒を変えて薬とする」と言っている。災いが来たとしてもそれは変じて幸いとなるであろう。ましてや十羅刹女がこのことを前もって知らせているのであるからなおさらである。薪が火の勢いを盛んにし、風が加羅求羅虫を大きくするというのはこれである。言葉は紙面に書き尽くしがたい。心でこれを推し量りなさい。恐恐謹言。

 十二月十三日              日蓮 花押

   御返事