水火二信抄という題名から、ひょっとしてあの一節のある御書かなと、
ピンとくるかもしれないですね。そうなんです。それ!
1頁の御書なのですぐ読めますよ。有名な一節は3行です。太字にしましたよ。
まず、御書全部:通解は所々入れました( )の中です
上野殿御返事 建治四年二月二十五日 五十七歳御作
与南条七郎次郎
蹲鴟・くしがき・焼米・栗・たかんな・すづつ給び候い了んぬ。
月氏に阿育大王と申す王をはしき(おられた)、一閻浮提四分の一を・たなごころににぎり・竜王をしたがへて雨を心にまかせ・鬼神をめしつかひ給いき、始は悪王なりしかども後には仏法に帰し・六万人の僧を日日に供養し・八万四千の石の塔をたて給う、此の大王の過去をたづぬれば、仏の在世に徳勝童子・無勝童子とて二人のおさなき人あり、土の餅を仏に供養し給いて一百年の内に大王と生れたり、仏はいみじし(尊い)といへども、法華経にたいしまいらせ候へば(比べれば)・螢火と日月との勝劣・天と地との高下なり、仏を供養して・かかる功徳あり・いわうや法華経をや、土のもちを・まいらせて・かかる不思議あり・いわうや(ましてや)すず(種々)のくだものをや、かれはけかちならず(彼らの国は飢えてはいなかった)・いまはうへたる国なり、此をもつて・おもふに釈迦仏・多宝仏・十羅刹女いかでかまほらせ給はざるべき。(守護しないことがあろうか)
抑(そもそも)今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・燃え立つばかり思えども・遠ざかりぬれば・すつる(捨てる)心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり、此れ(あなた)はいかなる時も・つねは(常に)・たいせずとわせ給えば、(退することなく訪ねられるのであるから)水のごとく(水の流れるように)信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし(信じておられるのであろう)(尊いことである)(尊いことである)。
まことやらむ・いえの内に・わづらひの候なるは(あなたの家の内に病人がいるというのはまことのことであろうか。)・よも(もしそれが本当であっても、よもや)鬼神のそゐには候はじ(鬼神の所為=仕業・しわざではないでしょう、十らせち女の信心のぶんざいを御心みぞ候らむ(十羅刹女が信心のほどをためされているのであろう。)まことの鬼神ならば法華経の行者をなやまして・かうべ(頭)をわらんとをもふ(破ろうとする)鬼神の候べきか(いるだろうか)、又釈迦仏・法華経の御そら事の候べきか(虚妄はあるはずがない)と・ふかくをぼしめし候へ(深く信じていきなさい)、恐恐謹言。
二月廿五日 日 蓮 花押
<講義より>
鬼神には善鬼と悪鬼の二種類がいて、「善鬼は法華経のあだ(怨)を食し、悪鬼は法華経の行者を食す」のである。(1246頁)「食す」とは妨害したり、力を弱めたりして、生命力を奪う意味である。
鬼神は病気と大いに関連がある。天台大師は病の起こる原因を六つ挙げているが、その第四に「鬼便りを得る」とあるのがそれである。
法華経陀羅尼品で十羅刹女は「法華経を説く人を悩乱するものがいたら、頭を七つに破って処罰する」と誓っています。十羅刹女は鬼神の中でもきわめて強い存在です。「上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神」(1246頁)と言われています。
「釈迦仏・法華経」の御文は一重立ち入れば釈迦仏は日蓮大聖人(人本尊)、法華経は南無妙法蓮華経(法本尊)即ち、人法一箇の御本尊と拝される。強く御本尊を信じていけばいかなる病も克服しゆく力が厳然と現れることを、この御文から深く確信していきたい。