御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

聖人知三世事 974頁 54歳御作

富木常忍に与えられた御消息です。

三世を知る者が聖人であると定義され、外道から法華経本門までの聖人を明かし、大聖人こそ末法の御本仏であることを示されています。さらに大聖人の諌言を用いず、かえって軽んじ迫害していることから、一国が総罰を受けている旨を明かし、大聖人の正法を用いるほかに国難を免れる道はないことを教えられています。        

 

聖人知三世事 建治元年 五十四歳御作
 与富木常忍

聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、

 

通解:

聖人というのはくわしく過去・現在・未来の三世を知る人をいう。儒家の三皇・五帝や三聖と言われる孔子老子顔回等はただ現在のみ知って過去と未来を知らない。外道は過去八万劫、未来八万劫を知るから一分の聖人と言える。

 

小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、

 通解:

小乗教の二乗である声聞、縁覚は過去と未来の因果を知るから外道に勝れた聖人と言えよう。さらに小乗の菩薩は三阿僧祇の過去を知り、権大乗の通教の菩薩は過去に

動踰塵劫(どうゆじんこう)を経歴(きょうりゃく)し、同じく別教の菩薩は一つ一つの位の中においてさえ多倶低劫(たぐていこう)の過去を知る。

 

法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり、教主釈尊既に近くは去つて後三月の涅槃之を知り遠くは後五百歳・広宣流布疑い無き者か、若し爾れば近きを以て遠きを推し現を以て当を知る如是相乃至本末究竟等是なり。

通解:

法華経の迹門では釈尊が三千塵点劫という長遠の過去を説かれている。。これは一代超過の法門である。さらに法華経本門では五百塵点劫という遠々劫の過去を明かし、また未来無数劫のことまでも宣べられている。 これらの例証に考えてみるに、過去と未来をつぶさにしることこそ、聖人の本である。教主釈尊はすでに近くは三月後の入滅を知り、遠くは滅後末法の始めの五百年の法華経広宣流布を名言されたが、必ず、事実となるであろう。もしそうであれば近きをもって遠きを推し量り、現在をもって未来を知ることができるのであり、法華経方便品の「如是相乃至本末究竟等」の文はこのことである。

 

後五百歳には誰人を以て法華経の行者と之を知る可きや、予は未だ我が智慧を信ぜず然りと雖も自他の返逆・侵逼之を以て我が智を信ず敢て他人の為に非ず。又我が弟子等之を存知せよ日蓮は是れ法華経の行者なり、不軽の跡を紹継するの故に、軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を※安明に積まん、

※安明:須弥山のこと。 

通解:

後の五百歳の末法には誰人を法華経の行者と知るべきか。日蓮は未だ自身の智慧を信じないけれども、自界叛逆難と他国侵逼により、わが智慧を信じないわけにはいかない。これは他人のためではない。また我が弟子達もこのことをよく知ってほしい。日蓮こそまさしくこの末法にあって法華経の行者なのである。不軽菩薩のあとを承継する法華経の行者であるゆえに、軽しめたりそしったりする人は頭が七分に破(わ)れ、信ずる人は福徳を須弥山のように積むのである。

 

問うて云く何ぞ汝を毀る人頭破七分無きや、答えて云く古昔の聖人は仏を除いて已外之を毀る人・頭破但一人二人なり今日蓮を毀呰する事は非一人二人に限る可らず日本一国・一同に同じく破るるなり、所謂正嘉の大地震・文永の長星は誰が故ぞ日蓮は一閻浮提第一の聖人なり、

 

通解:

問うていう。日蓮御房を謗る人がどうして頭が七分にわれないのか、と。

答えて言う。仏を除いて昔の聖人をそしって頭がわれたのはただ一人、二人である。今、日蓮をそしることはその罪が一人二人に限らない。日本国の人々が一堂に頭が破れているのである。すなわち正嘉の大地震や文永の大彗星は誰のために起きたのであろうか。日蓮は一閻浮提第一の聖人である。

 

上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加え、流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天と隣国に仰せ付けて之を逼責(ひっせき)するなり、大集経に云く・仁王経に云く・涅槃経に云く・法華経に云く・設い万祈を作すとも日蓮を用いずんば必ず此の国今の壱岐対馬の如くならん、

 

通解:

日本国の上下万民が一同にこの日蓮を軽んじそしり、刀杖を加え流罪にしているために梵天、帝釈をはじめ日月、四天等がいかりをなし、隣国に言いつけて攻めさせ、これらの謗法を責めているのである。大集経、仁王経、涅槃経、法華経にこのことが説かれている。たとえどのような祈祷を行っても、日蓮を用いないならば日本国は必ず今の壱岐対馬のようになるであろう。

 

我が弟子仰いで之を見よ、此れ偏(ひとえ)に日蓮が尊貴なるに非ず法華経の御力の殊勝なるに依るなり、身を挙ぐれば慢(まん)ずと想い、身を下せば経を蔑(あなど)る。松高ければ藤長く、源深ければ流れ遠し、幸なるかな楽しいかな穢土に於て喜楽を受くるは但(ただ)日蓮一人なる而已(のみ)。

通解:

わが弟子達よ、この言を信じてその時を見なさい。このことは日蓮が尊貴であるのではない。法華経の御力がことに勝れていることによるのである。我が身を挙げれば慢心している思い、身を下せば法華経を侮る。松が高ければかかる藤は長く、源が遠ければ流れもしたがって長い。なんと幸せな事よ。楽しいことか。穢土にあってこのような喜びを受けるのはただ日蓮一人のみである。