御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

寺泊御書 951頁 50歳御作

文永8年10月22日、大聖人が50歳の時、流刑地佐渡へ向かう途中の越後国寺泊で著され、富木常忍に与えられた御消息です。

依智を立って佐渡へ向かう途中、寺泊で風待ちをしていることを述べられ、法華経や涅槃経の文を引いて一切の諸宗の者が大聖人に怨嫉して、一大悪人と誹謗することは経文の通りであると教えています。また涅槃経は法華経のための経であることを明かされ、真言宗大日経に印・真言が説かれているという理由で、法華経に勝れるとしているとしているのは邪義であるとし、諸宗の宗祖らが内心は天台宗に下っていると指摘されています。

さらに法華経勧持品の文を引いて、「数数(さくさく)とは度々(たびたび)なり、日蓮※擯出(ひんずい)衆度流罪は二度なり」(953頁)と伊豆・佐渡の二度が経文を身で読まれていることになると述べて、大聖人が末法の御本仏であることを示唆されています。

※擯出=頻出(ひんじゅつ・ひんしゅつ)のけものにすること。人を退けること。擯斥 (ひんせき)

御書は3頁くらいの長さです。長いけどコピペして載せときます。(ルビ)と(現代語訳)もつけました。読みやすいように句読点もつけました。

 

<御書本文>

 鵞目一結給び了んぬ、心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし。
 今月十月なり十日相州愛京郡依智の郷を起つて武蔵の国久目河(くめがわ)の宿に付き 十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ、此れより大海を亘(わた)って佐渡の国に至らんと欲するに、順風定まらず其の期(ご)を知らず、道の間の事 心も及ぶことなく(想像も及ばないほどで)又筆にも及ばず(筆で書くこともできない)、ただ暗に推し度る可し(推し量っていただきたい)、又本より存知の上なれば(もとより覚悟の上なので)、始めて歎く可きに非ざれば之を止む(やめておく)。

 法華経の第四に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」、涅槃経の三十八に云く「爾の時に一切の外道の衆咸く是の言を作さく大王○今は唯・一の大悪人有り瞿曇沙門なり○一切の世間の悪人利養の為の故に其の所に往き集り、而も眷属と為つて善を修すること能わず、呪術力の故に迦葉及び舎利弗・目犍連等を調伏す」云云、此の涅槃経の文は一切の外道我が本師たる二天三仙の所説の経典を仏陀に毀(やぶ)られて出す所の悪言なり、法華経の文は仏を怨と為す経文には非ず、天台の意に云く「一切の声聞・縁覚並に近成(ごんじょう)を楽(ねが)う菩薩」等云云、聞かんと欲せず、信ぜんと欲せず、其の機に当らざるは言を出して謗(そし)ること莫(な)きも皆怨嫉の者と定め了(おわ)んぬ、在世を以て滅後を推すに一切諸宗の学者等は皆外道の如し、彼等が云う一大悪人とは日蓮に当れり、一切の悪人之に集まるとは日蓮が弟子等是なり、彼の外道は先仏の説教流伝の後・之を謬(あやま)って後仏を怨と為せり、今諸宗の学者等も亦復是くの如し、所詮仏教に依つて邪見を起す、目の転ずる(目のまわっている)者が、大山転ずと欲(おも)う(大きな山が回っているように見えるのと同じである)、今の八宗・十宗等が多門の故に(多くの流派を作って)諍論を至す。(論争をしているのも目の回っているもののたぐいである。)

涅槃経の第十八に贖命重宝(ぞくみょうじゅうほう)と申す法門あり、天台大師の料簡(りょうけん)に云く、命とは法華経なり、重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり(蔵・通・別の三教である)、ただし涅槃経に説く所の円教は如何(いかん=どうなのだ)、此の法華経に説く所の仏性常住を重ねて之を説いて帰本せしめ(もとの法華経に帰せしめ)涅槃経の円常を以て法華経に摂す(取り入れる)、

※円常:円は完璧の意味で仏性を指す。円常とは仏性が常住であること。

 

涅槃経の得分は但・前三教に限る、天台の玄義の三に云く「涅槃は贖命の重宝なり重ねて掌を抵つのみ」文、籤の三に云く「今家(天台宗の宗義)の引意は大経(涅槃経のこと)の部(説法のこと)を指して以て重宝と為す」等云云、

天台大師の四念処と申す文に法華経の「雖示種種道(すいじしゅじゅどう)=(種々の道を示すといえども)」の文を引いて先ず四味(華厳・阿含・方等・般若)を又重宝と定め了んぬ、若し爾らば法華経の先後の諸経は法華経の為の重宝なり、

世間の学者の想に云く、此れは天台一宗の義なり、諸宗は之を用いず等云云、日蓮之を案じて云く八宗十宗等は皆仏滅後より之を起し、論師人師之を立つ。滅後の宗を以て現在の経を計る可からず。天台の所判(判釈)は一切経(の意)に叶っているから、一宗に属して之を弃(す)つ可からず(これを天台宗のみの義として棄(す)ててはならない)。

諸宗の学者等自師(自らの師匠)の誤りに執着する故に、あるいは事を(法華経を)機に寄せ(機根に合わない)、あるいは前師に譲り(祖師の仰せだからといい)、或は賢王を語らって結句最後には悪心強盛にして闘諍を起し、失無き者(罪なき者)を之を損うて(迫害して)楽(たのしみ)と為す。

諸宗の中に真言宗殊に僻案(びゃくあん)を至す善無畏・金剛智等の想に云く、「一念三千は天台の極理であり、一代の肝心である。顕密二道の詮たる可き(顕密二道の究極である)心地(しんじ)の三千はしばらく之を置く。此の外・印と真言とは仏教の最も要である」等云云、その後真言師等、事を此の義に寄せて(祖師の義に事寄せて)印・真言のない経経を、これを下すこと外道の法のようである。

あるものがいうには、「大日経は釈迦如来の外の大日如来の説なり」といい、、あるものがいうには、「大日経は教主釈尊第一の説なり」といい、またある義ものは、「ある時は釈尊と現じて顕経を説き、ある時は大日如来と現じて密経を説いたのである」と言っている。

これらの者は道理を知らずして無尽の僻見(邪見)を起こしているのである。譬えば乳の色を知らない者が、種種の邪推をなせども本当の色に当らざるが如く、又象の譬の如し、今汝等知る可し、大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く、已後ならば涅槃経等の如し。⇒(法華経の命を贖うための重宝に過ぎないことを知るべきである。)
 又天竺(インド)の法華経には印・真言有れども訳者之を略して羅什は妙法経(妙法蓮華経)と名づけ、印・真言を加えて善無畏は大日経と名づけたのであろうか。譬えば正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利等のようなものである。

仏の滅後天竺に於いて此の詮を得たるは(正しく知ったのは)竜樹菩薩であり、漢土(中国)に於いて始めて之を得たるは天台智者大師なり。真言宗の善無畏等・華厳宗の澄観等・三論宗の嘉祥等・法相宗の慈恩等、名は自宗に依れども、その心は天台宗に落ちているのである。その門弟等は此の事を知らず。どうして謗法の失を免れることができようか。

ある人日蓮を非難してて云く、機を知らずして麤義(あらぎ)を立て(荒々しい折伏をして)難にあうと、ある人云く「勧持品の如きは深位の菩薩の義なり、安楽行品に違す」と、或る人云く「我も此の義を存すれども言わず」と云云、或る人云く「唯教門(教相門ばかりで観心門がないではないか」と(責めている)。

具(つぶさ)に我之を存すと雖も(こうした非難を日蓮はよく知っているが、)(中国の)卞和は足を切られ、清丸は穢丸(けがれまる)と云う名を付けられた上、死罪に及されようとした。その当時の人はこれを笑ったが、笑われた人は名を残し、然りと雖も其の人(笑った人は)いまだに善き名を流していない。汝等が邪難も亦爾る可し(同様であろう)。


 勧持品に云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈し」等云云。日蓮此の経文に当れり。汝等何ぞ此の経文に入らざる、「及び刀杖を加うる者」等云云日蓮は此の経文を読めり。汝等何ぞ此の経文を読まざる、「常に大衆の中に在つて我等が(法華経の行者を)謗ろうとする」等云云、「国王大臣婆羅門居士に向つて」等云云、「悪口して、顰蹙(ひんしゅく)し数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられん」数数とは度度なり、日蓮擯出衆度流罪は二度なり、

法華経は三世の説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し。

法華経は)一部八巻・二十八品であるが、天竺(インド)の御経(原典)は一由旬(の広さ)に布(し)くと承わる、定めて数品有る可し、(およそ経本は現在のもの以外にもっと多くの数の品があったのであろう。)今漢土(中国)日本の二十八品は略の中の要なり、

 

正宗は之を置く、流通に至つて宝塔品の三箇の勅宣は霊山虚空の大衆に被らしむ、勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は日蓮が浅智には及ばず。⇒ここの説明⇒(この法華経は序文・正宗分・流通分に分かれているが、その正宗分はさておき、滅後の弘教のあり方や功徳の説かれた流通分に至って、見宝塔品では三箇の勅宣をもって霊鷲山と虚空会の大衆に滅後の弘教を仰せつけられた。また勧持品で二万・八万・八十万憶等の大菩薩が弘教を宣言されたことについても、日蓮の浅い智慧では量れない。)

 

但し「恐怖悪世中(恐ろしい世の中)」の経文は末法の始を指すなり、此の「恐怖悪世中」の次下の安楽行品等に云く「於末世(末世において)」等云云、同本異訳の正法華経に云く「然るに後の末世に」又云く「然るに後に末世が来りて」、添品法華経に云く「恐怖悪世中」等云云、

この末法の時に当り、当世三類の敵人は之れ有るに、但八十万億・那由他の諸菩薩は一人も見えたまわず、乾(ひ)たる(干上がった)湖に水が満ちず、欠けた月が満ちないようなものである。水清めば月を浮かべ、木を植うれば鳥棲む、日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す(この法華経を弘めているのである)。彼の諸の菩薩の加被を請う者なり(加護を受けるであろう)。
 此の入道は佐渡の国へ御供するとあなたのいいつけであるから佐渡の国までお供するという。然る可き用途と云い、(費用もかさみ、)かたがた煩(わずらい)有るの故に之を還(かえ)す、あなたの御志し始めて申すに及ばず候、人人に是くの如く申させ給え、但し囹僧(れいそう=牢に入れられた僧のこと、日朗等の五人の門下が土籠にいれられたこと)等のみ心に懸(かか)り候、便宜の時(よい機会があったら)早早之(この法門)を聴かす可し(聞かしてください)、穴賢穴賢。
 十月二十二日 酉の時 日 蓮花押
 土木殿