富木常忍はじめ門下一同に与えられたお手紙です。
法華経の行者が遭う難を示して、いかなる難に遭うとも退転することのないよう信心を励まされています。
当時は本抄にも記されているように、文永十年十二月七日に、佐渡の守護・武蔵前司宣時が大聖人を助けようとする者には厳罰を加えるという命令書を下すなど、迫害が強まっている時でした。
竜樹・天親・伝教が末法のために残した法門が、「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」であると、初めて三大秘法の内容を具体的に述べています。また天台・伝教が説かなかったのは、①仏が授与しなかったため、②時機が未熟なためであると述べています。
そして、釈迦・竜樹・天親・天台・伝教の受けた難を示し、大聖人が受けた難がそれらをはるかにしのぐ大難であることを実証して、大聖人が末法の法華経の行者であることを明かし、「釈尊・天台・伝教の三人に日蓮を入れ、四人となして法華経の行者末法に有るか」967頁)と述べています。
大聖人のお手紙は一枚一枚書かれていき、何枚かを重ねて門下に出されたものですが、後世の人が散逸しないように、順を追って貼り合わせていたようです。本抄の場合は、紙が足りなかったのか、最後の追伸の部分が、最初のところの空いたところに書かれていたので、このようになったようです。
御書:
法華行者逢難事 文永十一年正月 五十三歳御作
与富木常忍
河野辺殿等中
大和阿闍梨御房御中
一切我弟子等中
三郎左衛門尉殿
謹上 日蓮
富木殿
追て申す、竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず此に口伝有り、天台伝教は之を宣べて、本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう、所詮一には仏・授与したまわざるが故に、二には時機未熟の故なり、今既に時来れり四菩薩出現したまわんか、日蓮此の事先ず之を知りぬ、西王母の先相には青鳥・客人の来相にはかん鵲(じゃく)是なり、各各我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ設い身命に及ぶとも退転すること莫れ。
富木・三郎左衛門の尉・河野辺・大和阿闍梨等・殿原・御房達各各互に読聞けまいらせさせ給え、かかる濁世には互につねに・いいあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ。(このような濁世には、互いに常に話し合って、暇なく後世を願うようにしなさい。)最初のところからここまでは追伸文となります。
以下がお手紙の本文です。
法華経の第四に云く「如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等云云、同第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云。涅槃経の三十八に云く「爾の時に外道に無量の人有り○心に瞋恚(しんに=いかり)を生ず」等云云、又云く「爾の時に多く無量の外道有り。和合して共に摩伽陀(マガダ)国の王・阿闍世の前に行った。○今は唯一大悪人有り。瞿曇沙門(ぐどんしゃもん=釈尊)なり。王は未だ検校せず(取り調べをしていない)我等甚だ畏る(私たちは非常に恐れている)、一切世間の悪人利養の為の故に其の所に往集して眷属と為る。乃至迦葉・舎利弗・目犍連」等云云。如来現在猶多怨嫉の心是なり、得一大徳が天台智者大師を罵詈して曰く「智公(智者大師よ)汝は是れ誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根を以て、覆面舌(ふくめんぜつ)の仏の説かれた教時を謗ず(誹謗するとは)」、又云く「豈是れ(これこそ)顚狂(顛倒して狂っている)人ではないか」等云云、
南都七大寺の高徳等・護命僧都・景信律師等三百余人・伝教大師を罵詈して曰く「西夏(西北インド)に鬼弁婆羅門有り。東土(日本)に巧言を吐く禿頭沙門あり(巧みに言葉を操る坊主がいる。此れ乃ち物類(もののけのたぐい)冥召して(ひそかにつうじあって)世間を誑惑す(たぼらかしている)」等云云、。秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦(中国)に敷揚(宣揚)し、比叡山の一家(天台家)は天台に相承を受け、法華宗を助けて日本に弘通す」云云。
さて在世と滅後と正像二千年の間に法華経の行者・唯三人有り。所謂、仏と天台・伝教となり、真言宗の善無畏・不空等・華厳宗の杜順・智儼等・三論法相等の人師等は実経の文を会して権の義に順ぜしむる人人なり。竜樹・天親等の論師は内に鑒みて、外に発せざる論師なり、経の如く宣伝すること、正法の四依も天台・伝教には如かず(及ばない)。
而るに仏記の如くであれば、末法に入つて法華経の行者がいるはずである。其の時の大難は在世に超過するであろうということである。仏に九横の大難有り。いわゆる孫陀利(そんだり)から謗られたこと、金鏘(こんず=米の汁)の供養の果報を説いた釈尊がバラモンにそしられたこと、馬のえさの麦を食べなければならなかったこと、釈迦族の者が多く琉璃王に殺されたこと、乞食しても得られず、鉢が空(から)であったこと、旃遮女(せんしゃにょ)に謗られたこと、提婆達多に大石を落とされたこと、寒風に責められ三衣を求めなければならなかったこと、である。その上一切外道の讒奏(ざんそう)は上に引くが如し。経文のとおりであるならば、天台・伝教も仏の未来記にかなっていない。
これらのことから考えてみるに、末法の始めに仏説の如く、行者が世に出現するであろう、而るに文永十年十二月七日・武蔵の前司殿より佐土の国へ下す書状に云く(次のように言っている)、自判之在り(自身の判がある)。
「佐渡の国の流人の僧・日蓮弟子等を引率し悪行を企んでいるとのうわさを聞いている。所行の企て甚だ以て奇怪なり(けしからぬことである)。今より以後、かの僧に相い随わん輩に於ては、炳誡を加えしむ可し(明らかないましめを加えさせよ)、それでもなお違犯するならば、交名を注進せらる可きの由の所に候なり(その名を書き連ねたものを急いで報告されよ。)仍(よっ)て執達(しつたつ)件(くだん)の如し(通達の意向は以上のようである。)。
文永十年十二月七日 沙門観恵上る
依智六郎左衛門尉殿等云云。
この書状に「悪行を企んでいる」等とあるのは、外道が「瞿曇は大悪人である」等と言ったのと同じである。又九横の大難一つ一つについても、相応した難が日蓮にある。いわゆる琉璃殺釈(るりめっしゃく)と乞食空鉢(こつじきくうはつ)と寒風索衣(かんぷうさくい)は、仏世(釈尊在世)にはるかに超えた大難である。恐くは天台・伝教も未だ此の難にあわれていない。当に知るべきである。三人に日蓮を入れて四人として、日蓮こそ末法に出現した法華経の行者であることを。なんと喜こばしいことか。「況滅度後」の経文に当っているのである。なんと悲しいことか。国中の諸人が阿鼻獄(無間地獄)に入らんこと。茂きを厭うて(繁雑になることを避けて)このことを子細に記さないでおく。心を以て之を推せよ。(心をもってこのことを推し量りなさい)
文永十一年甲戌正月十四日 日 蓮花押
一切の諸人之を見聞し、志有らん人人は互に之を語れ。(一切の諸人はこの書を見聞きして、志ある人々は互いにこのことを語りなさい。)