御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

法華経題目抄 940頁 根本大師門人 日蓮撰 45歳御作

 文永三年正月六日、当時滞在されていた故郷の安房清澄寺で著され、頂いたのは安房国天津にいた伯母御前であろうと推定されています。

はじめてに題目を唱えることに、いかに絶大な功徳があるかが明かされています。特に「仏道に入る根本は信をもって本とする」と信心が根本であることを示され、信をもって題目を唱えたら必ず成仏すると明かしています。

 

この御書は長いんですね。9頁あります。なかなか読んでみようというモチベーションがあがらないかもしれない。まず通解を読んでみるといいですね。

去年私は読んだのですが、ブログに書かなかったようです。結構沢山赤線を引いてます。今回は本文だけコピペさせてもらいました。ぼちぼちわかりにくいところを現代語にしたいと思っていますが、先を急ぐのであとに回して次いきます。

 

 法華経題目抄 根本大師門人日蓮

 南無妙法蓮華経
 問うて云く法華経の意をもしらず只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、答えて云くしかるべきなり、問うて云く火火といへども手にとらざればやけず水水といへども口にのまざれば水のほしさもやまず、只南無妙法蓮華経と題目計りを唱うとも義趣をさとらずば悪趣をまぬかれん事いかがあるべかるらん、答えて云く師子の筋を琴の絃として一度奏すれば余の絃悉くきれ梅子のすき声をきけば口につたまりうるをう世間の不思議すら是くの如し況や法華経の不思議をや小乗の四諦の名計りをさやづる鸚鵡なを天に生ず三帰計りを持つ人大魚の難をまぬかる何に況や法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり汝等此れを唱えて四悪趣をはなるべからずと疑うか、正直捨方便の法華経には「信を以て入ることを得」と云い雙林最後の涅槃経には「是の菩提の因は復無量なりと雖も若し信心を説けば則ち已に摂尽す」等云云。
 夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす五十二位の中には十信を本とす十信の位には信心初めなりたとひさとりなけれども信心あらん者は鈍根も正見の者なりたとひさとりあるとも信心なき者は誹謗闡提の者なり、善星比丘は二百五十戒を持ち四禅定を得十二部経を諳にせし者・提婆達多は六万八万の宝蔵をおぼへ十八変を現ぜしかども此等は有解無信の者今に阿鼻大城にありと聞く、迦葉舎利弗等は無解有信の者なり仏に授記を蒙りて華光如来光明如来といはれき・仏説いて云く「疑を生じて信ぜざらん者は即ち当に悪道に堕つべし」等云云、此等は有解無信の者を説き給う、而るに今の代に世間の学者の云く只信心計りにて解する心なく南無妙法蓮華経と唱うる計りにて争か悪趣をまぬかるべき等云云、此の人人は経文の如くならば阿鼻大城まぬかれがたし、さればさせる解りなくとも南無妙法蓮華経と唱うるならば悪道をまぬかるべし譬えば蓮華は日に随つて回る蓮に心なし芭蕉は雷によりて増長す此の草に耳なし、我等は蓮華と芭蕉との如く法華経の題目は日輪と雷との如し、犀の生角を身に帯して水に入りぬれば水五尺身に近づかず栴檀の一葉開きぬれば四十由旬の伊蘭を変ず我等が悪業は伊蘭と水との如く法華経の題目は犀の生角と栴檀の一葉との如し、金剛は堅固にして一切の物に破られずされども羊の角と亀の甲に破らる尼倶類樹は大鳥にも枝おれざれどもかのまつげに巣くうせうれう鳥にやぶらる、我等が悪業は金剛の如く尼倶類樹の如し法華経の題目は羊の角のごとくせうれう鳥の如し琥珀は塵をとり磁石は鉄をすう我等が悪業は塵と鉄との如く法華経の題目は琥珀と磁石との如し。
 かくをもひて常に南無妙法蓮華経と唱うべし、法華経の第一の巻に云く「無量無数劫にも是の法を聞かんこと亦難し」第五の巻に云く「是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得可からず」等云云法華経の御名を聞く事はをぼろげにもありがたき事なり、されば須仙多仏多宝仏は世にいでさせ給いたりしかども法華経の御名をだにも説き給わず釈迦如来法華経のために世にいでさせ給いたりしかども四十二年が間は名をひしてかたりいださせ給わず仏の御年七十二と申せし時はじめて妙法蓮華経ととなえいでさせ給いたりき、しかりといえども摩訶尸那日本の辺国の者は御名をもきかざりき一千余年すぎて三百五十余年に及びてこそ纔に御名計りをば聞きたりしか、さればこの経に値いたてまつる事をば三千年に一度華さく優曇華・無量無辺劫に一度値うなる一眼の亀にもたとへたり、大地の上に針を立てて大梵天王宮より芥子をなぐるに針のさきに芥子の・つらぬかれたるよりも法華経の題目に値う事はかたし、此の須弥山に針を立ててかの須弥山より大風のつよく吹く日・いとをわたさんにいたりてはりの穴にいとのさきの・いりたらんよりも法華経の題目に値い奉る事かたし、さればこの経の題目を・となえさせ給はんにはをぼしめすべし、生盲の始めて眼あきて父母等を・みんよりも・うれしく・強き・かたきに・とられたる者の・ゆるされて妻子を見るよりも・めづらしとをぼすべし。
 問うて云く題目計りを唱うる証文これありや、答えて云く妙法華経の第八に云く「法華の名を受持せん者・福量る可からず」正法華経に云く「若し此の経を聞いて名号を宣持せば徳量る可からず」添品法華経に云く「法華の名を受持せん者福量る可からず」等云云、此等の文は題目計りを唱うる福計るべからずとみへぬ、一部・八巻・二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広なり、方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、但一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には題目は要の内なり。
 問うて云く妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をかおさめたるや、答えて云く大海は衆流を納めたり大地は有情非情を持てり如意宝珠は万財を雨し梵王は三界を領す妙法蓮華経の五字また是くの如し一切の九界の衆生並に仏界を納む、十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む、先ず妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる事をいはば経の一字は諸経の中の王なり一切の群経を納む、仏世に出でさせ給いて五十余年の間八万聖教を説きをかせ給いき、仏は人寿・百歳の時・壬申の歳・二月十五日の夜半に御入滅あり、其の後四月八日より七月十五日に至るまで一夏九旬の間・一千人の阿羅漢・結集堂にあつまりて一切経をかきをかせ給いき、其の後正法一千年の間は五天竺に一切経ひろまらせ給いしかども震旦国には渡らず、像法に入つて一十五年と申せしに後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯の歳・仏経始めて渡つて唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午の歳に至るまで渡れる訳者・一百七十六人・持ち来る経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙、是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり。二門は日月の如し、諸の菩薩の二目ある二乗の眇目なる凡夫の盲目なる闡提の生盲なる共に爾前の経経にてはいろかたちをばわきまへずありし程に、法華経の時・迹門の月輪始めて出で給いし時・菩薩の両眼先にさとり二乗の眇目次にさとり凡夫の盲目次に開き生盲の一闡提未来に眼の開くべき縁を結ぶ是れ偏に妙の一字の徳なり。
 迹門十四品の一妙・本門十四品の一妙合せて二妙、迹門の十妙本門の十妙合せて二十妙、迹門の三十妙・本門の三十妙合せて六十妙、迹門の四十妙・本門の四十妙・観心の四十妙合せて百二十重の妙なり、六万九千三百八十四字一一の字の下に一の妙あり総じて六万九千三百八十四の妙あり、妙とは天竺には薩と云い漢土には妙と云う妙とは具の義なり具とは円満の義なり、法華経の一一の文字・一字一字に余の六万九千三百八十四字を納めたり、譬えば大海の一渧の水に一切の河の水を納め一の如意宝珠の芥子計りなるが一切の如意宝珠の財を雨らすが如し、譬えば秋冬枯れたる草木の春夏の日に値うて枝葉・華菓・出来するが如し、爾前の秋冬の草木の如くなる九界の衆生法華経の妙の一字の春夏の日輪にあひたてまつりて菩提心の華さき成仏往生の菓なる、竜樹菩薩の大論に云く「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」云云、此の文は大論に法華経の妙の徳を釈する文なり、妙楽大師の釈に云く「治し難きを能く治す所以に妙と称す」等云云、総じて成仏往生のなりがたき者・四人あり第一には決定性の二乗・第二には一闡提人・第三には空心の者・第四には謗法の者なり、此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ故に法華経を妙とは云うなり。
 提婆達多は斛飯王の第一の太子・浄飯王にはをひ・阿難尊者がこのかみ・教主釈尊にはいとこに当る・南閻浮提にかろからざる・人なり、須陀比丘を師として出家し阿難尊者に十八変をならひ外道の六万蔵・仏の八万蔵を胸にうかべ五法を行じて殆ど仏よりも尊きけしきなり、両頭を立てて破僧罪を犯さんために象頭山戒壇を築き仏弟子を招き取り、阿闍世太子をかたらいて云く我は仏を殺して新仏となるべし太子は父の王を殺して新王となり給へ、

阿闍世太子・すでに父の王を殺せしかば提婆達多は又仏をうかがい大石をもちて仏の御身より血をいだし阿羅漢たる華色比丘尼を打ちころし五逆の内たる三逆をつぶさにつくる、其の上瞿伽梨尊者を弟子とし阿闍世王を檀那とたのみ五天竺・十六の大国・五百の中国等の一逆・二逆・三逆等をつくれる者は皆提婆が一類にあらざる事これなし、譬えば大海の諸河をあつめ大山の草木をあつめたるがごとし、智慧の者は舎利弗にあつまり・神通の者は目連にしたがひ・悪人は提婆に・かたらいしなり、されば厚さ十六万八千由旬・其の下に金剛の風輪ある大地すでにわれて生身に無間大城に堕ちにき、第一の弟子瞿伽梨も又生身に地獄に入る旃遮婆羅門女も・おちにき・波瑠璃王もをちぬ善星比丘もおちぬ、又此等の人人の生身に堕ちしをば五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国の人人も皆これをみる、六欲・四禅・色・無色・梵王・帝釈・第六天の魔王も閻魔法王等も皆御覧ありき、三千大千世界・十方法界の衆生も皆聞きしなり、されば大地・微塵劫はすぐとも無間大城を出づべからず、劫石はひすらぐとも阿鼻大城の苦は・つきじとこそ思い合いたりしに、法華経の提婆品にして教主釈尊の昔の師・天王如来と記し給う事こそ不思議にをぼゆれ、爾前の経経・実ならば法華経は大妄語・法華経実ならば爾前の諸経は大虚誑罪なり、提婆が三逆を具に犯して其の外無量の重罪を作りし天王如来となる、況や二逆・一逆等の諸の悪人の得道疑いなき事譬えば大地をかへすに草木等のかへるがごとく堅石をわる者・輭草をわるが如し、故に此の経をば妙と云ふ。
 女人をば内外典に是をそしり三皇五帝の三墳五典に諂曲の者と定む、されば災は三女より起ると云へり国の亡び人の損ずる源は女人を本とす、内典の中には初成道の大法たる華厳経には「女人は地獄の使なり能く仏の種子を断つ外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」と云い、雙林最後の大涅槃経には「一切の江河必ず回曲有り一切の女人必ず諂曲有り」と、又云く「所有三千界の男子の諸の煩悩・合集して一人の女人の業障と為る」等云云、大華厳経の文に「能く仏の種子を断つ」と説かれて候は女人は仏になるべき種子をいれり、譬えば大旱颰の時・虚空の

中に大雲をこり大雨を大地に下すに・かれたるが如くなる無量無辺の草木・花さき菓なる、然りと雖もいれる種はをひずして結句・雨しげければ・くちうするが如し、仏は大雲の如く・説教は大雨の如く・かれたるが如くなる草木を一切衆生に譬えたり、仏教の雨に潤い五戒十善禅定等の功徳を修するは花さき菓なるが如し、雨・ふれどもいりたる種のをひずかへりて・くちうするは女人の仏教にあひて生死を・はなれずして・かへりて仏法を失ひ悪道に堕つるに譬ふべし、是を「能く仏の種子を断つ」とは申すなり、涅槃経の文に一切の江河のまがれるが如く女人も又まがれりと説かれたるは、水はやわらかなる物なれば石山なんどの・こわき物にさへられて水のさき・ひるむゆへに・あれへ・これへ行くなり、女人も亦是くの如く女人の心をば水に譬えたり、心よわくして水の如くなり、道理と思う事も男のこわき心に値いぬればせかれて・よしなき方へをもむく、又水にゑがくに・とどまらざるが如し、女人は不信を体とするゆへに只今さあるべしと見る事も又しばらくあれば・あらぬさまになるなり、仏と申すは正直を本とす故に・まがれる女人は仏になるべからず五障三従と申して五つのさはり三つしたがふ事あり、されば銀色女経には「三世の諸仏の眼は大地に落つとも女人は仏になるべからず」と説かれ大論には「清風は・とると云えども女人の心はとりがたし」と云へり。
 此くの如く諸経に嫌はれたりし女人を文殊師利菩薩の妙の一字を説き給いしかば忽に仏になりき、あまりに不審なりし故に宝浄世界の多宝仏の第一の弟子智積菩薩、釈迦如来の御弟子の智慧第一の舎利弗尊者、四十余年の大小乗経の経文をもつて竜女の仏になるまじき由を難ぜしかども終に叶はず仏になりにき、初成道の「能く仏の種子を断つ」雙林最後の「一切の江河必ず回曲有り」の文も破れぬ、銀色女経・並に大論の亀鏡も空しくなりぬ智積・舎利弗は舌を巻きて口を閉ぢ人天大会は歓喜せしあまりに掌を合せたりき、是れ偏に妙の一字の徳なり、此の南閻浮提の内に二千五百の河あり一一に皆まがれり、南閻浮提の女人の心のまがれるが如し、但し娑婆耶と申す河あり繩を引きはえたるが如くして直に西海に入る、法華経を信ずる女人亦復是くの如く直に西方浄土へ入るべし是れ妙の一字の徳なり、妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり、譬えば黄鵠の子・死せるに鶴の母・子安となけば死せる子・還つて活り、鴆鳥・水に入れば魚蚌悉く死す犀の角これに・ふるれば死せる者皆よみがへるが如く爾前の経経にて仏種をいりて死せる二乗・闡提・女人等・妙の一字を持ちぬれば・いれる仏種も還つて生ずるが如し、天台云く「闡提は心有り猶作仏すべし二乗は智を滅す心生ず可からず法華能く治す復称して妙と為す」と、妙楽云く「但大と云いて妙と名づけざるは一には有心は治し易く無心は治し難し治し難きを能く治す所以に妙と称す」等云云、此等の文の心は大方広仏華厳経・大集経・大品経・大涅槃経等は題目に大の字のみありて妙の字なし、但生る者を治して死せる者をば治せず、法華経は死せる者をも治するが故に妙と云ふ釈なり、されば諸経にしては仏になる者も仏になるべからず其の故は法華は仏になりがたき者すら尚仏になりぬ、なりやすき者は云ふにや及ぶと云う道理立ちぬれば法華経をとかれて後は諸経にをもむく一人もあるべからず。
 而るに正像二千年過ぎて末法に入つて当世の衆生の・成仏往生のとげがたき事は在世の二乗闡提等にも百千万億倍すぎたる衆生の観経等の四十余年の経経によりて生死をはなれんと思うは・はかなし・はかなし、女人は在世・正像末総じて一切の諸仏の一切経の中に法華経を・はなれて仏になるべからず、霊山の聴衆道場開悟たる天台智者大師・定めて云く「他経は但男に記して女に記せず今経は皆記す」等云云、釈迦如来・多宝仏・十方諸仏の御前にして摩竭提国王舎城の艮・鷲の山と申す所にて八箇年の間・説き給いし法華経を智者大師まのあたり聞こしめしけるに我五十余年の一代聖教を説きをく事は皆衆生利益のためなり、但し其の中に四十二年の経経には女人・仏になるべからずと説きたまひしなり、今法華経にして女人仏に成ると・とくと・なのらせ給いしを仏滅後・一千五百余年に当つて鷲の山より東北・十万八千里の山海をへだてて摩訶尸那と申す国あり震旦国是なり、此の国に仏の御使に出でさせ給ひ天台智者大師となのりて女人は法華経を・はなれて仏になるべからずと定めさせ給いぬ。
 尸那国より三千里をへだてて東方に国あり日本国となづけたり、天台大師・御入滅・二百余年と申せしに此の国に生れて伝教大師となのらせ給いて秀句と申す書を造り給いしに「能化・所化倶に歴劫無し妙法経の力にて即身に成仏す」と竜女が成仏を定め置き給いたり、而るに当世の女人は即身成仏こそ・かたからめ往生極楽は法華を憑まば疑いなし、譬えば江河の大海に入るよりもたやすく雨の空より落つるよりもはやくあるべき事なり、而るに日本国の一切の女人は南無妙法蓮華経とは唱へずして女人の往生成仏をとげざる雙観・観経等によりて弥陀の名号を一日に六万遍・十万遍なんどとなうるは、仏の名号なれば巧なるには似たれども女人不成仏・不往生の経によれるが故にいたずらに他の財を数えたる女人なり、これひとえに悪知識にたぼらかされたるなり、されば日本国の一切の女人の御かたきは虎狼よりも山賊・海賊よりも父母の敵・とわり等よりも法華経をばをしえずして念仏ををしゆるこそ一切の女人のかたきなれ。
 南無妙法蓮華経と一日に六万・十万・千万等も唱えて後に暇あらば時時阿弥陀等の諸仏の名号をも口ずさみ・なるやうに申し給はんこそ法華経を信ずる女人にては・あるべきに当世の女人は一期の間・弥陀の名号をば・しきりに・となへ念仏の仏事をば・ひまなくをこなひ法華経をばつやつや唱へず供養せず或はわづかに法華経を持経者に・よますれども念仏者をば父母・兄弟なんどのやうに・をもひなし持経者をば所従眷属よりもかろくをもへり、かくして・しかも法華経を信ずる由を・なのるなり、抑も浄徳夫人は二人の太子の出家を許して法華経をひろめさせ竜女は「我闡大乗教・度脱苦衆生」とこそ誓ひしが全く他経計りを行じて此の経を行ぜじとは誓はず、今の女人は偏に他経を行じて法華経を行ずる方をしらず、とくとく心をひるがへすべし・心をひるがへすべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 日 蓮 花押