御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

曾谷入道殿御返事 1025頁 54歳御作 通解

方便品の長行を書写して差し上げた。先に差し上げた自我偈に添えて読まれるように。

この経(法華経)の文字は一字一字、ことごとく生身の妙覚の仏である。しかしながら、われら凡夫は肉眼なので、ただ、文字と見るのである。たとえば餓鬼道のものは恒河を火と見る、人間は水と見る、天人は甘露と見る。水は同じでも(見る人の)果報によって別々なのである。それと同じように、この経の文字は盲目の者はこれを見ることができず、肉眼の者は文字と見、二乗は虚空と見、菩薩は無量の法門と見、仏は一々の文字を金色の釈尊とご覧になるはずである。(経に)「即持仏身」とあるのはこのことである。けれども、僻見の行者はこのように尊い御経を破っているのである。ただ、用心に用心をして居異念なく、一心に霊山浄土に参れるよう期せられるべきである。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文である。委細はお会いした時に申し上げる。恐恐謹言。

文永十二年三月                    日 蓮  花 押

曾谷入道殿

 

人は境界によって物の見方が、受け止め方が異なるということはよくある話です。

人との違いをよく感じます。身近なところでは主人と私はテレビで同じ映像を見たり聞いたりしてても感じ方が違うことがよくある。男と女の違いはあるけど、それ以外に十界の境界の違いもあるのでは・・・それ以上は言わずもがな。

仏は法華経の文字の一字一字を仏と見るそうです。それも金色の釈尊と見るって書かれています。

仏道修行によって心の眼、生命の眼として天眼・慧眼・法眼・仏眼が具わるそうです。声聞・縁覚には智慧の眼、即ち慧眼。一切の諸法を実体のない空理であると悟る智慧の眼であって、文字を空と見る。菩薩の境界には法眼を具え、衆生済度のための無量の法門と見る。仏の境界には仏限を具え、一々の文字を金色の釈尊、即ち、常住不変の生命の輝きをもつ仏なりと見ることができるのである。

一人の人が題目を唱えて仏の境界になったとしたら、それまでのもののとらえ方ではなくなって、ちょっと上から見下ろすような感じになりませんか。俯瞰できるというか。もっと高い境界でものを見れるようになるってことは、信心していてよくあることだと思います。それこそ題目の功徳なのです。だから題目をあげていかないと六道輪廻で人生終わりますよ、と言いたい。よくできた人でも題目あげてないとええとこ菩薩界どまり。残念!仏界めざそ!