弘安三年、五月二十六日、身延で著され、富木常忍に与えられた御消息です。別名を「難信難解法門」といいます。
富木常忍が法華経法師品の難信難解の文について、質問を寄せたのに対して、問答形式で答えています。法華経以外の諸経は仏の随他意の教えであることから易信易解であり、法華経は仏の随自意の教えであるゆえに難信難解であると示し、法華経こそ一切経の王であり、一切衆生皆成仏道の経であることを明かされています。
そして、「仏は体の如し、世間は影の如し、体曲がれば影ななめなり」(992頁)と、
随他意の法門が流布して、仏法が顛倒し、体が曲がっている日本国の状態を憂え、仏の随自意の経である法華経の正法を立てて、体を正さなければならないと、訴えられています。
【御書に通解を付けたりして、わかりやすくして載せます】
問うていう。法華経の第四の巻、法師品にいうには、「難信難解云云」と説かれているのは、どういうことか。
答えて言う。此の経は仏説き給いて後二千余年を経ている。月氏(インド)に一千二百余年・漢土(中国)に二百余年を経て後に日本国に渡りて・すでに七百余年なり、仏滅後に此の法華経の此の句を読みたる人但三人なり、所謂月氏には竜樹菩薩の大論に云く「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云、此れは竜樹菩薩の難信難解の四字を読み給いしなり、漢土には天台智者大師と申せし人読んで云く「已今当説最も為れ難信難解」と云云(言われている)、日本国には伝教大師読んで云く「已説の四時(華厳・阿含・方等・般若)の経・今説の無量義経・当説の涅槃経は易信易解なり、随他意の故に。此の法華経は最も為れ難信難解なり随自意の故に」等云云(と述べている)、
問うていう。その意(こころ)はどういうことか。
答て云く、易信易解は随他意の故に・難信難解は随自意の故なり云云、弘法大師並びに日本国東寺の門人の思うには、法華経は顕教の内の難信難解にて、密教に相対すれば易信易解であると。慈覚智証並びに門家の思うには、法華経と大日経はともに難信難解なり、ただし、大日経と法華経と相対せば法華経は難信難解・大日経は最も為れ難信難解なり云云、此の二義は日本一同に流布している。日蓮が読んでいうには、外道の経は易信易解・小乗経は難信難解である。また、小乗経は易信易解で大日経等は難信難解。大日経等は易信易解・般若経は難信難解なり。般若と華厳と・華厳と涅槃と・涅槃と法華と・(法華経の)迹門と本門と・重重の難易があるのである。
問うて云く、此の義(法義)を知つて何の詮か有る(どういう益があるのか)。
答えて云く、生死の長夜を照す大燈明・(衆生の)元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか(この法門をおいて他はない)。随他意とは真言宗・華厳宗等は随他意の易信易解なり。仏九界の衆生の意楽(いぎょう)に随つて説く所の経経を随他意という。譬えば賢父が愚子に随うが如し。仏・仏界に随つて説く所の経を随自意という。譬へば聖父が愚子を随えたるが如きなり。日蓮此の義に付て大日経・華厳経・涅槃経等をかんがえてみるに皆随他意の経経なり。
問うて云く、其の随他意の証拠はどうなのか。
答えて云く、勝鬘経に云く「(因果是非の道理をもききわけず)非法を聞くこと無き(非法のみを行ずる)衆生には、人天(人界や天上に生まれる善根を説き、声聞を求むる者には声聞の穂法を説き、縁覚を求むる者には、縁覚乗を授け(縁覚の法を説き)、大乗(菩薩)を求むる者には菩薩の法で教えを導く。」と云云(これは衆生の機根に応じて法を説く随他意の法門であるから易信易解の心はこれである。華厳・大日・般若・涅槃等又是くの如し(これと同じである)。
(また、法華経法師品第十に)「爾の時に世尊が薬王菩薩によせて八万の大士(菩薩)に告げたまわく(告げて言うには)薬王汝是の大衆の中の無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人と非人と及び比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆、あるいは声聞乗を求むる者・辟支仏(縁覚界)を求むる者・仏道を求むる者等これら一切の者咸(ことごと)く、仏前に於て一仏乗たる妙法蓮華経の一偈一句を聞いて、ほんの一念でも随喜する者には、我、皆(仏の)記を与え授く、当に阿○菩提を得べし」文、諸経の如くんば(諸経のように)人間界は五戒・天上界は十善・梵王には慈悲喜捨・魔王には一無遮(いちむしゃ)・比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒・声聞の四諦・縁覚の十二因縁・菩薩の六度・譬へば水が器の方円に随い、象の敵に随つて力を出すがごとし。法華経は爾らず八部・四衆皆一同に法華経を演説す、譬へば定木の曲りを削り、師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし。
此の明鏡を以て一切経を見聞するに、大日の三部・浄土の三部等隠れ無し(随他意の法門であることが明瞭である)。
それなのに、どうしたわけか、弘法・慈覚・智証の御義を根本にしてしまったから、法華経最勝の義がすでに隠れてしまい、すでに隠没して日本国は四百余年経ってしまった。珠をもつて石にかへ栴檀を凡木に変えたようなものである。
仏法やうやく(次第次第に)顚倒したので世間も又濁乱せり(にごり乱れてしまった)、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり、幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す、世間の学者の若きは随他意を信じて苦海に沈まんことなり、委細の旨又又申す可く候、恐恐。
五月廿六日 日 蓮花押
富木殿御返事