御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

減劫御書 1465頁 (2021年8月度座談会御書) 講義33巻

述作の年代も宛名も書かれていない御消息です。その内容から駿河国の門下、高橋六郎兵衛入道の没後、その家族・縁者に送られたものであると考えられます。

別名を「智慧亡国書」と言います。

その内容から建治二年(1276年)以後の御書と推定され、高橋六郎兵衛入道が亡くなったあと、大進阿闍梨を使いとして墓参につかわされ、その時に入道の家族に与えられた御消息と推定されています。

【大意】

減劫といっても人の心の中にあるものであり、三毒が次第に盛んになり、善心が弱くなることによって、世の中が乱れて寿命も縮まるのである、と述べています。そして、人の心を治めることのできる法が、時代とともにどのように変遷してきたかを示しています。そして末法の今日では釈尊の法では治めることはできず、かえって邪師によって釈尊の法が悪用されて邪法となり、薬が変じて毒となってしまうありさまを述べ、末法に世の中を治めようとすれば、仏のような大智慧の人が出現し、賢王の助けを得て、八宗の智人と思われている僧たちを責め、供養を止めることが肝要である、と示しています。

さらに、大聖人こそ「智人」であることを教え、「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば、閻浮提内広令流布はよも疑い候いはじ」と述べて、世の中に大きな災いがあらわれているのは、世界に正法が広宣流布する瑞相であることを明かされています。最後に、大進阿闍梨を使いとして、故六郎入道の墓前で自我偈を読ませたことを知らせています。

 

 減 劫 御 書       

 減劫というのは人の心の内にある。貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になってゆくことによって、次第に人の命(寿命)も縮まり、背(せい=身長)も小さくなっていくのである。漢土(中国)・日本国は仏法以前には三皇・五帝・三聖等の外経(外典経書)をもつて民の心をととのへて世をば治めしほどに・次第に人の心は善きことは・はかなく・悪き事は・かしこく(巧妙に)なってくると・外経(外道の教書)の智恵が浅いので悪の深い失(とが)を抑えがたくなった。外経をもつて世を治まらなくなったために・だんだん仏経(仏教経典)をわたして世間を治めたところ世の中は穏やかになった。此れはひとへに仏教のかしこき(優れた智慧)によつて人民の心を詳しく明かしているからである。当時(=現在)の外典というのはもとの外経の心ではない。仏法のわたりし時は外経と仏経とあらそいしかども・だんだん外経が負けて、王と民とが用いなくなったので・外経を教書を信奉する者は、内経(仏経)の従者となって、勝負を争うこともなくなった。ところが、外経の人々が内経の心を抜きとって智慧を増し、外経に入れているのを愚かなる王は外典が勝れているのかと思っているのである。                   又人の心が次第に、善の智慧は・はかなく悪の智慧がすぐれるようになると、仏経の中にも小乗経の智慧で世間を治めようとしても、世の中は治まることがなかった。その時、大乗経をひろめて世を治めたところ、少し世の中は治まった。

今の世は外経(外道の教書)も小乗経も大乗経も一乗法華経等も治めることがかなわない世となった。理由はなぜかといえば、衆生の貪・瞋・癡の心のはなはだしいことが、大覚世尊の大善にすぐれていることと同じだからである。譬へば犬は鼻のすぐれている事は人にまさっている。又鼻の禽獣をかぎ分けることは大聖(小乗の聖者)の鼻の通力にも劣らない。ふくろうが耳のすぐれていること、とびの眼のすぐれていること、すずめの舌の軽やかな事・竜の身のすぐれていること、皆賢人よりもすぐれている。そのように末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のはなはだしさは、いかなる賢人・聖人であっても治めがたいことなのである。

その故は貪欲を仏は不浄観の薬をもって治し、瞋恚を慈悲観をもって治し、愚癡を十二因縁観をもってこそ治されたのであるが、・いまは此の法門を説いて、人を陥れて、貪欲・瞋恚・愚癡を増してしまうのである。譬へば火は水をもって消す。悪は善をもって打つ。ところが、逆に水より出た火に対して、水をかければ、油にかけたようになっていよいよ大火となる。
 今末代悪世に世間の悪より出世の法門について大悪生じている。これを知らないで今の人々が善根を修しているので、いよいよ世の中のほろぶ事態が起きている。今の世の天台真言等の諸宗の僧等を供養することは、外見は善根を積んでいるように見えるけれども内実は十悪五逆にも越えた大悪なのである。

しかれば代(世の中)の治まらん事は大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて・仙予国王のごとくなる賢王と寄り合って・一向に(ひたすらに)善根を止め、大悪をもつて八宗の智人と思われている者を・或は責め或は流罪し、或は布施を止め、或は頭をはねてこそ代は少し治まるであろう。
 法華経の第一の巻の(方便品第二に)「諸法実相」また、「ただ仏と仏とがよく究め尽くされたところのもの」と説かれているのはこれである。本末究竟というのは本とは悪の根本、善の根本であり、末と申すは悪の終わり善の終りである。善悪の根本から枝葉までを悟り極めているのを仏というのである。天台大師は「一瞬の生命に十法界を具している」等と言っている。章安大師は「仏は此れを一大事としている。どうして理解しやすいことがあろうか」と言っている。妙楽大師は「これが最終究極の極説である」等と言っている。

法華経(法師功徳品第19)に云く「諸の法は皆実相と違背しない」等といっている。天台大師は之をうけて「すべての世間の治生産業は皆実相と違背しない」等と言っている。智者とは世間の法以外において仏法を行ずるのではない。世間において世を治める法を十分に心得ているのを智者と言うのである。(座談会の範囲です)

殷の世が濁乱して民が苦しんでいた時に、大公望が世に出て殷の紂王の頸を切って、民のなげきをとどめ、二世王が民の生活を苦しめた時に、張良が出て世の中を治め、民の口をあまくせし(生活を豊かにした)、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民を助けたのである。外経(外道の経書)の人人は・知らなかったけれども、彼等の人人の智慧は内心(実際)には仏法の智慧を含み持っていたのである。 

今の世において正嘉元年の大地震・文永元年の大彗星の時、智慧かしこき国主がいたならば日蓮をば用いたに違いないのである。それがなかったとしても文永九年の同士討ち・十一年の蒙古の襲来の時は、周の文王が大公望を迎えたように、殷の高丁王が傅悦を七里の先より請じたようにすべきであったのだ。日月は盲目の者には財ではない。賢人を愚王が憎むというのはこのことだ。繁雑になるので詳しくは書かないでおこう。法華経の御心というのは、このようなことなのである。外(ほか)のことと・思ってはならない。大悪は大善の来るべき瑞相なり(来る前兆である)、一閻浮提(世界)がうち乱れるならば、「閻浮提のなかに広く流布せしめる」ということは、よもや疑いあるまい。

 此の大進阿闍梨を故六郎入道殿のお墓へ行かせることにした。昔、この法門を聞いている人々に対しては、関東の内であるならば、自ら行ってその墓に自我偈を読んで差し上げようと思っていた。しかしながら現在の状況は、日蓮がそこへ行くならば、その日のうちに一国に伝わり、また、鎌倉までも騒ぐであろう。(信心の)心ざしある人であっても、自分が行った先の人は、人目を心配しなければならなくなるであろう。今まで訪れていないので、聖霊がどんなに恋しがっていらっしゃるであろうと思うと、何かできることもあるかと考え、それで、まず弟子を派遣して御墓に自我偈を読ませ申し上げることにしたのである。其の事情をご了承ください。恐恐。

 

 減劫について:人間の寿命が減っていくとされる時。仏教では一つの世界が成立・継続・破壊を経て次の世界が成立するまでの間を四期に分けて、成・住・壊・空の四劫とし、この住劫のなかで人寿が減じていく時期と増していく時期が繰り返されると説く。

一説によると初め人寿は無量歳であったが、百年に一歳ずつ減じて十歳にいたり、次に人寿十歳から百年に一歳ずつ増して八万歳に至ると、また十歳になるまで減じていく。これを十八回繰り返したのち、最後は増して人寿無量歳にいたるという。

参照:「大悪起これば大善来る」という大悪大善御書(1300頁)