御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

種種御振舞御書(前半) 909頁~916頁3行目  激動の御本仏の自叙伝!55歳御作

 

建治二年(1276年)三月、身延で著され、安房国天津(千葉県安房天津小湊町)に住んでいた光日尼に与えられた御消息です。光日尼は光日房、光日上人とも呼ばれ、息子の弥四郎の勧めで入信し、純粋な信心を貫きました。のちに弥四郎を失って大聖人から励まされています。

本抄全体を通じて感じられることは大難を敢然と受け、かつ、悠々と御振舞になられた大聖人は、まさしく御本仏であるということ。そして本書を特に光日尼に賜わったのは、年老いて孤独な光日尼にそれを感得せしめて「われ御本仏とともにあり」という充実感に満ちた歓喜の人生を送らせようとのご配慮があったのではないでしょうか。

御書は17頁にわたる長いもので、1268年(文永五年)から1276年(建治二年)までの九年間の大聖人の御振舞を記された自叙伝ともいうべきもので、別名を「佐渡抄」といいます。

女性門下にあてて書かれたので、比較的読みやすいと思います。

御書を載せますが、ぼちぼちわかりにくいところを現代文にしていこうと思います。

「新・人間革命11巻」の躍進の章の後半部分に、この種種御振舞御書と同じ内容が小説らしく描かれています。池田先生(山本伸一)が佐渡に行って本土に帰る際の船の中で、大聖人のことを思いめぐらしながら書かれているところです。先にこちらを読んでからこの御書を読んでもいいと思います。(11巻、374頁-399頁)

とりあえず、前半です。

 

種種御振舞御書 建治二年 五十五歳御作
 与光日房 於身延
 去る文永五年後(のち)の正月【後の正月=閏・うるう正月とは暦と季節が大きく違うことをさけるために挿入する余分な一か月のこと】十八日に、西戎・大蒙古国より日本国を襲うと言う牒状を送ってきた。日蓮が去る文応元年太歳庚申に勘えたりし立正安国論、今すこしも違わず符合した。此の書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもを劣らない。末代の不思議。なに事かこれにすぎるであろうか。賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にも行われ、現身に大師号も贈られるに違いない。定めて御たづねありて、軍議の相談も受け、蒙古調伏の祈りなども依頼されるであろうと思ったのに、幕府からはなんの音沙汰もなかったので、その年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す(警告をした)。国に賢人といわれる者がいるならば、【予言と蒙古の通知と一致した、まことに】不思議な事である。これはただ事ではない。天照太神と正八幡宮がこの僧(日蓮)について日本国が助かる方法をはかられたのではないか」と思われるべきであるのに、そうではなくて、ある者はこの十一通の状を持って行った大聖人の使いに悪口し、ある者はあざむき、ある者は受け取りもせず、ある者は返事もなし、ある者は返事はしたけれども上(執権)へも申さず。これひとへにただ事ではない。たとい日蓮の一身上の私事であっても、国主となって、一国の政治をつかさどる立場の人であれば、取りついでこそ政道の法ではないのか。

ましてこの事は政府にとって大事件が勃発しようとしているばかりでなく、幕府や寺々の各各の身にあたって、大いなる嘆きが起こるべき大事件である。それであるのにこの忠告を用いる事はなかったとしても悪口を加えるのはあまりである。これひとへに日本国の上下万人・一人もなく法華経の強敵となって、長い年が経ったので誹謗の大罪がつもり、大鬼神が各各の身に入った上に蒙古国の牒状に正念をぬかれて狂っているのである。

例えば殷の紂王は忠臣の比干という者が死をもって諫めたのに対して、それを用いず、彼の死体の胸を割って(辱め)、結局、周の文王の子・武王に滅ぼされてしまった。呉王は伍子胥(ごししょ)の諫(いさ)めを用いず、【かえって伍子胥に死を賜わり、伍子胥は亡国を見るに忍びないと嘆きながら】自害してしまった。そのため呉王は越王勾践の手にかかって滅ぼされてしまった。

これも(幕府も)かれ(紂王や呉王)のようになるだろうと・いよいよ・不便に思って(悪名を立てられるのも惜しまず)命をもすてて強盛に申しはりしかば、風大なれば波大なり竜大なれば雨たけきやうに・いよいよ【日蓮に】あだをなし・ますますにくみて御評定(評定衆)で討議があった。首をはねるべきか、鎌倉から追い出すべきか、弟子檀那等をば所領あらん者は所領を召して、頸を切れ、或は牢屋に入れて責めよとか、あるいは遠流にせよなどというありさまであった。

(910頁3行目~)
 日蓮悦んで云く本より存知の旨なり、雪山童子は半偈のために身をなげ、常啼菩薩は身をうり、善財童子は火に入り、楽法梵士は皮をはぐ、薬王菩薩は臂をやく、不軽菩薩は杖木をかうむり、師子尊者は頭をはねられ、提婆菩薩は外道にころさる。此等はいかなりける時ぞやと勘うれば天台大師は「時に適うのみ」とかかれ章安大師は「取捨宜きを得て一向にすべからず」としるされ、法華経は一法なれども機に従い、時によって其の修行の方法はさまざまに差別があるべきである。

仏記して云く「我が滅後・正像二千年すぎて末法の始に此の法華経の肝心題目の五字計りを弘めんもの出来すべし。其の時悪王・悪比丘等・大地微塵より多くして、或は大乗或は小乗等をもつて・競い合うであろうが、此の題目の行者にせめられて、在家の檀那等を誘い合わせて、或はのり或はうち或はろうに入れ或は所領を召し或は流罪或は頸をはぬべし、などと言われても、退転なく・法華経をひろめるならば、あだをなすものは国主は・同士打ちをはじめ、国民は餓鬼のごとくその身を食い合い、後には他国より攻められるであろう。これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等が法華経の敵である国を他国より責めさせるのである」と説かれている。  

 各各我が弟子となのらん人人は一人もを臆する心を起こしてはならない。大難の時には親のことを心配したり、妻子のことを心配したり、所領を顧みてはならない。無量劫より現在まで親子のため、所領のために命を捨てた事は大地微塵よりも多い。法華経のゆへには・いまだ一度も捨てたことはない。法華経をば随分行ってきたけれども、このような大難が出来したならば退転してやめてしまった。譬えば湯をわかして水に入れ、火をおこすのに途中でやめて起こしきれないようなものである。各各思い切りなさい。此の身を法華経に変えるのは、石に金を変え糞に米を変えるようなものである。 仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等でさえも、いまだに弘通しなかった法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字が、末法の始に全世界に広まっていくべき瑞相に、日蓮がその先駆をきった。わたうども(わが一党の者)二陣三陣と自分に続いて、迦葉・阿難にも勝ぐれ、天台・伝教にも超えなさい。わずかばかりの小島の主らが脅さんを・おじ恐れるようであっては、【退転して地獄に堕ちたときに】閻魔王の責めを一体どうするというのか。せっかく仏の御使と名乗りながら臆するのは下劣な人々であるとよく弟子檀那たちに申し含めた。

こうしているうちに念仏者・持斎・真言師等は【大聖人と法論で戦っても】自身の智恵では勝つ見込みがなく、訴状も叶わざれば【幕府へ訴えても目的を果たせなかったので】上郎・尼ごぜんたち(幕府高官の夫人や尼になった未亡人達にとりついて、種種にかまへ申す(讒言した)。【日蓮は】故最明寺入道殿や極楽寺入道殿が無間地獄に堕ちたと言い、建長寺寿福寺極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払ってしまえと言い、道隆上人・良観上人等の首を斬れと言っているという。それでは、評定衆の会議で処置が決まらなかったとしても、日蓮の罪は免れない。但し上件の事・間違いなく言ったかと召し出て確かめるようにと言いつけたため九月十日に門柱所に召喚された。奉行人の云く上の仰せは以上の通りである。それに間違いないか」と言ったので、それに答えてその通り以上の件については一言も違わず言った。但し最明寺殿と極楽寺殿とを地獄に堕ちたというのは・嘘である【訴人の作り事である】。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時からいっていたことである。

 詮ずるところ、上の一件の事どもは、此の国のことを思っていっていることなので、世を安穏にたもとうと思うならば、彼の法師たちを召し合せて・聞きなさい。、そうでなくして彼等にかわりて理不尽に日蓮に罪を行わるるほどならば国に後悔があるであろう。日蓮・御勘気を蒙るならば仏の御使を用いないことになる。梵天・帝釈・日月・四天のおとがめがあって、日蓮を遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるだろう。その後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方より攻められるであろう。その時後悔するであろうと平左衛門尉に申し付けたけれども、太政入道の狂いしように・少しも周りをはばかる事なく、物に狂った【怒り猛り狂った】。

911頁15行目~)
 去文永八年太歳辛未九月十二日・御勘気を蒙(こうむ)った。、その時の御勘気のありさまも尋常ではなく、法に越えた異常なものであった。【九條堂の】了行が謀反を起こした時よりも、大夫の律師【良賢】が幕府を倒そうとして露見して召し取られたときよりも、無法で大がかりな者であった。平左衛門尉・大将として数百人の兵者に胴丸を着せて、自分は烏帽子をかぶって眼をいからし声を荒げてやってきた。大体・事件の心を考えてみると、太政入道が天下を取りながら、国を亡ぼそうとしたのに似ていて、ただ事とも見えなかった。日蓮これを見て次のように思った。「日ごろ月ごろ・考えついていたことはこれである。幸いなるかな法華経のために身を捨てる事よ、臭い頭を斬られるならば、沙に金を変え、石をもって珠を買い求めるようなものではないか。」と。さて平左衛門尉の第一の郎従・少輔房という者は、駆け寄って日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出して顔を三度殴りつけて・さんざんと打ち散らした。又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして・あるいは足で踏み・あるいは身にまとひ・あるいは板敷や畳等の家の二三間に散らさない所がなかった。日蓮・大高声を放ちて言った。「なんとおもしろいこと。平左衛門尉がものに狂うを見よ。おのおの方は、ただ今、日本国の柱を倒しているのであるぞ!」と宣言したところ、上下万人(その場の全員)あわてて見えた。日蓮こそ御勘気を蒙ったのであるから、臆して見えるべきなのに、そうではなくて、これは悪いことだと思ったのか、兵者どもの方が顔色を変えてしまったのがよく見えた。

十日並びに十二日の間、真言宗の失や禅宗・念仏等【が邪法な事】、良観が【雨乞いの祈祷をしてしかも】雨がふらなかった事をつぶさに平左衛門尉に言い聞かせたところ、或はどっと笑ったり、或は怒りなどした事は、煩わしいので書かない。

要するに六月十八日より七月四日まで良観が雨乞いの祈りをして、日蓮に阻止されて降らせることができず、汗を流し・涙だけ流して雨降らなかった上に、逆風吹き続けた事・三度まで使者をつかわして「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こ越えられようか。和泉式部が色好み(好色不貞)の身でありながら、八斎戒で制止している和歌を詠んで、雨を降らし、能因法師が破戒の身として・和歌を詠んで天が雨を降らせたのに、どうして二百五十戒の人人・百千人あつまりて七日二七日【天を】責めたのに、どうして雨が降らない上に大風は吹くのであるか。これをもつて知りなさい。各各(あなた方)の往生は叶うまい」と責めたので、良観が泣いた事・人人(高家の女房等について讒せし事。一つ一つはっきりとに申し聞かせたところ、平左衛門尉等が良寛の味方をしたが、理に詰まり弁護しきれなくなってついに沈黙してしまったことなどは、煩わしいからここには書かない。912頁15行目まで

以下は新版御書から本文を写します。

 

さては十二日の夜、武蔵守殿のあずかりにて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに、わかみやこうじにうちいでて、四方に兵のうちつつみてありしかども、日蓮云わく「各々さわがせ給うな。べちのことはなし。八幡大菩薩に最後に申すべきことあり」とて、馬よりさしおりて高声に申すよう、「いかに八幡大菩薩はまことの神か。和気清丸が頸を刎ねられんとせし時は、長一丈の月と顕れさせ給い、伝教大師法華経をこうぜさせ給いし時は、むらさきの袈裟を御布施にさずけさせ給いき。今、日蓮は日本第一の法華経の行者なり。その上、身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生法華経を謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり。また、大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におわすべきか。その上、釈迦仏、法華経を説き給いしかば、多宝仏・十方の諸の仏菩薩あつまりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天ならびに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時、『各々、法華経の行者におろかなるまじき由の誓状まいらせよ』とせめられしかば、一々に御誓状を立てられしぞかし。さるにては、日蓮が申すまでもなし。いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに、いかにこの処にはおちあわせ給わぬぞ」と、たかだかと申す。

 さて最後には、「日蓮、今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まず『天照太神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれ』とさしきりて、教主釈尊に申し上げ候わんずるぞ。いたしとおぼさば、いそぎいそぎ御計らいあるべし」とて、また馬にのりぬ。
 ゆいのはまにうちいでて、御りょうのまえにいたりて、また云わく「しばし、とのばら。これにつぐべき人あり」とて、中務三郎左衛門尉と申す者のもとへ熊王と申す童子をつかわしたりしかば、いそぎいでぬ。
 「今夜、頸切られへまかるなり。この数年が間願いつることこれなり。この娑婆世界にして、きじとなりし時はたかにつかまれ、ねずみとなりし時はねこにくらわれき。あるいはめこのかたきに身を失いしこと、大地微塵より多し。法華経の御ためには一度だも失うことなし。されば、日蓮、貧道の身と生まれて、父母の孝養、心にたらず。国の恩を報ずべき力なし。今度、頸を法華経に奉って、その功徳を父母に回向せん。そのあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せしこと、これなり」と申せしかば、左衛門尉兄弟四人、馬の口にとりつきて、こしごえたつの口にゆきぬ。
 ここにてぞあらんずらんとおもうところに、案にたがわず、兵士どもうちまわり、さわぎしかば、左衛門尉申すよう「只今なり」となく。日蓮申すよう「不かくのとのばらかな。これほどの悦びをばわらえかし。いかにやくそくをばたがえらるるぞ」と申せし時、江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのようにて、辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみえざりしが、物のひかり月よのようにて、人々の面もみなみゆ。太刀取り目くらみ、たおれ臥し、兵どもおじ怖れ、きょうさめて、一町ばかりはせのき、あるいは馬よりおりてかしこまり、あるいは馬の上にてうずくまれるもあり。日蓮申すよう「いかにとのばら、かかる大禍ある召人にはとおのくぞ。近く打ちよれや、打ちよれや」と、たかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。「さて、よあけば、いかにいかに。頸切るべくばいそぎ切るべし。夜明けなばみぐるしかりなん」とすすめしかども、とかくのへんじもなし。


 はるかばかりありて云わく「さがみのえちと申すところへ入らせ給え」と申す。「これは道知る者なし。さきうちすべし」と申せども、うつ人もなかりしかば、さてやすらうほどに、ある兵士の云わく「それこそ、その道にて候え」と申せしかば、道にまかせてゆく。午時ばかりにえちと申すところへゆきつきたりしかば、本間六郎左衛門がいえに入りぬ。
 さけとりよせて、もののふどもにのませてありしかば、各かえるとて、こうべをうなだれ、手をあざえて申すよう「このほどは、いかなる人にてやおわすらん、我らがたのみて候阿弥陀仏をそしらせ給うとうけたまわればにくみまいらせて候いつるに、まのあたりおがみまいらせ候いつることどもを見て候えば、とうとさに、としごろ申しつる念仏はすて候いぬ」とて、ひうちぶくろよりずずとりいだしてすつる者あり。「今は念仏申さじ」と、せいじょうをたつる者もあり。六郎左衛門が郎従等、番をばうけとりぬ。さえもんのじょうもかえりぬ。

 

914頁16行目
 その日の戌時ばかりに、かまくらより上の御使いとて、たてぶみをもって来ぬ。頸切れというかさねたる御使いかと、もののふどもはおもいてありしほどに、六郎左衛門が代官・右馬のじょうと申す者、立ぶみもちてはしり来り、ひざまずいて申す。「今夜にて候べし。あらあさましやと存じて候いつるに、かかる御悦びの御ふみ来って候。『武蔵守殿は、今日卯時にあたみの御ゆへ御出で候えば、いそぎあやなきこともやと、まずこれへはしりまいりて候』と申す。かまくらより御つかいは二時にはしりて候。今夜の内にあたみの御ゆへはしりまいるべしとて、まかりいでぬ」。
 追状に云わく「この人はとがなき人なり。今しばらくありてゆるさせ給うべし。あやまちしては後悔あるべし」と云々。


 その夜は十三日、兵士ども数十人、坊の辺り、ならびに大庭になみいて候いき。九月十三日の夜なれば、月大いにはれてありしに、夜中に大庭に立ち出でて月に向かい奉って、自我偈少々よみ奉り、諸宗の勝劣、法華経の文あらあら申して、「そもそも今の月天は、法華経の御座に列なりまします名月天子ぞかし。宝塔品にして仏勅をうけ給い、嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ、『世尊の勅のごとく、当につぶさに奉行すべし』と誓状をたてし天ぞかし。仏前の誓いは日蓮なくば虚しくてこそおわすべけれ。今かかること出来せば、いそぎ悦びをなして法華経の行者にもかわり、仏勅をもはたして、誓言のしるしをばとげさせ給うべし。いかに、今しるしのなきは不思議に候ものかな。いかなることも国になくしては、鎌倉へもかえらんとも思わず。しるしこそなくとも、うれしがおにて澄み渡らせ給うはいかに。大集経には『日月も明を現ぜず』ととかれ、仁王経には『日月度を失う』とかかれ、最勝王経には『三十三天、各瞋恨を生ず』とこそ見え侍るに、いかに月天、いかに月天」とせめしかば、そのしるしにや、天より明星のごとくなる大星下って、前の梅の木の枝にかかりてありしかば、もののふども、皆えんよりとびおり、あるいは大庭にひれふし、あるいは家のうしろへにげぬ。やがて即ち天かきくもりて、大風吹き来って、江の島のなるとて、空のひびくこと大いなるつづみを打つがごとし。

 夜明くれば、十四日卯時に、十郎入道と申すもの、来って云わく「昨日の夜の戌時ばかりに、こうどのに大いなるさわぎあり。陰陽師を召して御うらない候えば、申せしは『大いに国みだれ候べし。この御房、御勘気のゆえなり。いそぎいそぎ召しかえさずんば、世の中いかが候べかるらん』と申せば、『ゆりさせ給び候え』と申す人もあり。また『百日の内に軍あるべしと申しつれば、それを待つべし』とも申す」。
 依智にして二十余日、その間、鎌倉に、あるいは火をつくること七・八度、あるいは人をころすことひまなし。讒言の者どもの云わく「日蓮が弟子どもの火をつくるなり」と。「さもあるらん」とて、「日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからず」とて、二百六十余人しるさる。「皆遠島へ遣わすべし。ろうにある弟子どもをば頸をはねらるべし」と聞こう。さるほどに、火をつくる等は持斎・念仏者が計り事なり。その余はしげければかかず。

以上全集916頁3行目まで