御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

佐渡で書かれた御書

佐渡に行ってからも大聖人は念仏者たちに命を狙われます。

何も悪いことはしてないのに、島流し。(腹立つわ!時の権力者と邪宗の僧らに)

今朝ちょっと読んだ講義の序講のところ、泣きました。想像して、もらい泣き。

佐渡における大聖人様を守った、たくさんの影の信者達。大聖人様がご赦免になって、鎌倉へ戻ると決まった時、阿仏房・国府入道・中興入道・一谷入道等の佐渡の人々にとっては、喜ばしい事ではあったが、反面2年5ヶ月に渡って親しく給仕してきた大聖人との別れはとても辛いことであった。大聖人様にとっても同様で「剃りたる髪を後ろへ引かれ進む足もかえりしぞかし」(1325頁)とその心境を述べられている。
【この場面を想像して泣きそうになった。そしてほんまに涙が出てきた】


念仏者たちは何としても生きて帰らせまいと企んだが、予期せぬ順風に恵まれて対岸へ渡ることができ、全く危害を受けることはなかった。
大聖人が数々のお手紙の中で、詳しく周りのご様子を書かれているので、現代の私たちも想像することが出来るのですごいことだと思う。
佐渡において数々の重要な御書が書かれたのには理由があった。竜の口の法難以後、久遠の本地を顕された大聖人にとって、末法救済の大法を明確に遺(のこ)すことが、単に門下のためのみならず、万年の未来までの全民衆のために、なさねばならない仕事であったから。

でも、ほんとに命も狙われ、食べるものも少なかったし、紙や墨も十分ではなかったのに、すごいことを成し遂げてくださったと思う。現代のように何でもネットで注文して明日届くというような時代にいると、鎌倉時代の大変さが想像を絶する。たとえば、観心本尊抄は全部で17枚中、前半は和紙に書かれて途中から雁皮紙、さらに表と裏にも書かれていたそうです。

三沢抄という御書が別名を「佐前佐後抄」と言われています。大聖人が57歳の時に身延で書かれた御書で、私の大好きな御書なんですが、その中でこういう一節があります。現代文にしてわかりやすく書くと「法門の事は佐渡の国へ流される以前の法門は、ただ仏の爾前の経と思いなさい、・・・・去る文永八年九月十二日の夜竜の口にて首をはねられんとした時以後、(弟子たちに真実の法門を教示しなかったことは)不憫である。我につきたりし者どもにまことの事を言わなかったと思って、佐渡の国より弟子どもに内内に申す法門がある」この内々の法門というのが開目抄と観心本尊抄のことになります。竜の口で発迹顕本されてから、御本仏としての御自身の立場からさらに確信を持って法を説かれていかれたということです。

 

〈ここに佐渡に着かれてから書かれた御書を書いておこうと思います〉

文永8年

9月12日、竜の口の法難

9月13日、刑場での斬首を免れ、相模国愛甲郡依智の本間六郎左衛門尉重連の邸宅に送られる。日朗等五人投獄される。

9月14日、富木常忍に「土木殿御返事」を送る。

9月21日、四条金吾に「四条金吾殿御消息」を送る。

10月3日、獄中の日朗らに「五人土籠御書」を送る。

10月5日、大田乗明らに「転重軽受法門」を送る。

10月9日、再び日朗らに「土籠御書」を送る。

10月10日、佐渡流罪となり、依智を発って佐渡へ向かう。

10月21日、越後国寺泊に着く。

10月22日、富木常忍に「寺泊御書」を送る。

10月28日、佐渡に着く。

10月   佐渡にて「佐渡御勘気抄」を著し、円浄房に送る。

11月1日、大聖人、佐渡の塚原三昩堂に到着する。

11月   「開目抄」の執筆を始められています。

11月23日、富木常忍に書「富木入道殿御返事」を送られています。

文永9年

1月16日に塚原問答。本間重連に自界叛逆難を予言。

1月17日に「法華浄土問答抄」(117頁)を著す。

2月に「開目抄」が完成し、四条金吾と門下一同に送られる。

2月11日、最蓮房の質問に「生死一大事血脈抄」で応答。自界叛逆難が的中した知らせが届く。

3月13日「阿仏房御書」を送る。

3月20日富木常忍に門下への書「佐渡御書」を送る。

 4月10日、富木常忍に「富木殿御返事」(962)を与える。

    「同生同名御書」(1114)を佐渡に来た四条金吾に送る。

石田の郷、一谷(いちのさわ)に居を移される。この頃、中興入道が入信する。

5月2日「四条金吾殿御返事」(1116)を送る。

このころ、日妙・乙御前母子、佐渡に渡る。

5月25日「日妙聖人御書」(1213)を送る。

 この年、四条金吾の子・経王誕生に際し書「経王御前御書」(1123)を送る。

この頃、最蓮房に書「祈祷抄」(1344)を与える。

文永10年

1月28日 最蓮房に「祈祷抄」と「祈祷抄送状」を送る。

4月25日「観心本尊抄」を著す。

4月26日「観心本尊抄」に送状を副えて富木常忍に送る。

5月17日、最蓮房に書「諸法実相抄」を送る。

5月   「如説修行抄」を著す。

5月28日「義浄房御書」を著す。

閏5月11日「顕仏未来記」を著す。

7月「土木殿御返事」を常忍に送る。

8月3日 「波木井三郎殿御返事」を南部六郎三郎に送る。

8月15日 四条金吾の子・経王の病気に際し、書「経王殿御返事」を送る。

9月19日 日昭縁故の尼に書「辦殿尼御前御書」を送る。

12月7日 佐渡守・武蔵の前司(北条宣時佐渡の国へ「私の御教書」を出し、日蓮大聖人と門下等の布教活動を禁圧する。(1313頁)

  この年、年月日は不明ですが、「呵責謗法滅罪抄」(1125)「妙法曼陀羅供養事」(1305)を著す。

文永11年

1月14日 「法華行者逢難事」を著す。

2月14日 幕府、佐渡流罪の赦免状を発する。

3月8日 赦免状が佐渡に着く。

3月14日 前日、鎌倉に向けて一谷を出発するが、出航できず、網羅の津にとどまる。(928)

3月15日、寺泊に行く予定であったが、大風に流される。

3月26日 柏崎、国府を通って鎌倉に到着。

4月8日、平頼綱と会見し、蒙古襲来の時期について「今年は一定なり」と進言する。

5月12日、鎌倉を出発する。(928)

5月17日 酒匂、竹の下、車返し、大宮、南部を経て身延に到着。富木常忍に「富木殿御書」を送る。

5月24日「法華取要抄」を常忍に送る。

6月17日、仮の庵室完成。(1542)

 

 とりあえず今日はここまで。

佐渡で書かれた御書を全部書きたかったのですが、「日蓮大聖人 年譜」という本に全部は書かれていないことが書いてからわかりました。それで御書の目次から発地が佐渡の御書を全部載せました。発地が不明な御書も多いので他にもあるかもしれません。

 

いつ誰になんという御書を送られたかと書き写していると、結構何かがわかってくるような気がする~想像力を働かすと大聖人と門下の人達のことがわかってくるというか。編年体でない御書って年代はバラバラになってるので、わかりにくいですけど、私二回目の御書拝読は編年体の御書で拝読したのです。でも、年取ると、その時の感動が思い出せないなぁ。(笑) 

まあ、編年体御書は読まなくても、年代と日にちを追って何の御書を誰に送られたかということがわかるということは、なんというか、大聖人のことがちょっとわかってうれしいのです。

  最近は40歳くらいの時に買った文字の大きな御書を拝読しています。そのころ老眼になったので。11月発刊の御書も文字が大きくなるそうですが、私は今の自分の御書が何度も読んでるので愛着があって好きだな~。追加分の御書は読みたいけど・・・