文永10年8月15日、佐渡一谷で著され、経王と呼ばれた女の子の両親に与えられた御消息です。以前は四条金吾夫妻の子供が経王と思われていましたし、御消息は四条金吾夫婦あての内容であると思われていました。でも、そこは断定できないと、最近は考えられているようです。(2022年9月度の座談会御書の講義でお聞きしましたので、変更いたしました。)
お金を供養するとともに、経王御前の病気について報告したことに対する御返事です。
先日与えた御本尊は、日蓮の全生命をそそいで図顕したものであるとされ、南無妙法蓮華経は師子吼のようなもので、どんな病も障にならないと言われています。経王御前の病気は必ず治るので、強盛に祈るよう励まされています。
四条金吾をはじめ当時の大聖人門下は、権教を捨てて法華経に帰すべきこと、日々の修行としては題目を唱えることは知っていても、信仰の対象は日蓮大聖人としか知らなかった。否、それさえ知らず、釈迦像を本尊と考えている門下も少なくなかったのである。それに対して本抄ではその信行の根本依処が何であり、したがって信仰の正しいあり方はいかにあるべきかを明瞭に教示されている。数多い御書の中でもまれであって、その意味でも本抄は非常に大事な御書です。
現代語訳した御書を書きます。最後に講義を載せます。
経王殿御返事 文永十年八月 五十二歳御作
その後お便りを聞きたいと思っていたところに、わざわざ人をつかわしていただきました。また何よりも重宝な金銭を受け取りましたが、これは山海を尋ねても日蓮の身には時に当って大切なものであります。
それについて、お便りにあった、経王御前の事は二六時中(昼夜)に日月天に祈っております。先日の御本尊は片時も身から離さないで持っているようにしなさい。
師子王は前三後一と言って、ありの子を取ろうとするときも、又獰猛なものを取らんとする時も、勢いを出す事はただ同じ事である。日蓮が守護する処の御本尊を認め(したため)参らせることも、師子王に劣らない。経に云く「師子奮迅の力」とは是である。又この曼荼羅(まんだら=御本尊)をよくよく信じていきなさい。南無妙法蓮華経は師子吼(ししく)のようなものである。どんな病が障(さわ)りをなすというのであろうか。鬼子母神・十羅刹女・法華経の題目を持つ者を守護すると経文に見えている。幸いは愛染明王のように、福は毘沙門(びしゃもん)のように備わっていくであろう。たとえどのようなところに遊びたわむれていても、災難のあるはずがない。遊行(ゆぎょう)して畏(おそ)れの無いことは師子王のようであろう。十羅刹女の中でも皐諦女(こうだいにょ)の守護が特に深いであろう。ただし御信心によるのである。剣なども進まない(勇気のない)人のためには用る事はない(なんの役にも立たない)。法華経の剣は信心のけなげな(健気な=殊勝な、心がしっかりしている)人が用いることで更に力を発揮できるのであり、まさに鬼に金棒なのである。
日蓮の魂を墨に染め流して書きしたためた御本尊である。信じていきなさい。仏の御意(みこころ)は法華経である。日蓮の魂は南無妙法蓮華経に過ぎるものではない。、妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」(本地の遠寿を著すことをもって、その根本となす。すなわち、本とは無作三身、遠寿とは久遠元初の生命で、顕本遠寿は南無妙法蓮華経をさす)」と解釈されている。
経王御前には・災(わざわ)いも転じて幸となるであろう。心して信心を奮い起こしてこの御本尊にご祈念していきなさい。何事か成就しないことがあろうか。「充満其願・如清涼池・現世安穏・後生善処(その願いが充満して、清涼の池の如し、現世は安穏にして、のちの世には善処に生まれる)」とあるり、これらの経文の通りになることは疑いないところであろう。また申しあげましょう。当国(佐渡の国へ)の大難が許されたならば、大急ぎで鎌倉へ上りお目にかかりましょう。法華経の功力を思うと、不老不死は目前にある。ただ歎(なげ)く所は経王御前の露(つゆ)のようにはかない命ばかりである。天助け給えと強盛に祈っております。浄徳夫人や、竜女のあとをつぎなさい。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、あなかしこ・あなかしこ。
八月十五日 日 蓮花押
経王御前御返事
<講義>
「その御本尊は正法・像法の二時には習える人もいなかった。まして書き顕した事は絶えてなかった。」
中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」としたためられた、事の一念の御本尊は正法・像法二千年間、誰も聞いたこともないし、まして書き顕したこともない未曾有の御本尊であると仰せである。
仏法は「一切衆生皆成仏道」全民衆を等しく成仏の道に入らしめることに本意がある。そのために釈尊は法華経を説いて生命の哲理を明かし、衆生の生命に仏性があることを説いた。
成仏とはこの仏性を開覚することに他ならず、その開覚のためには法華経を信じ、受持・読・誦・解説・書写の修行に励まなくてはならないと教えた。
また、天台は己心に法華経の哲理を観ずることが成仏の要諦であると示した。しかしながら、仏性の当体とは何か、成仏の根源の種子は何かを明示することはできなかった。
これに対して日蓮大聖人は、初めてその実体が「南無妙法蓮華経」であると明かされ、本尊として図顕されたのである。そして、この本尊を受持し、信じて題目を唱えるならば、境智冥合してわが身も妙法の当体となることを教えられている。
過去の仏法は目的に迫る方法しか示すことはできなかった。その目的そのものを本尊という明確な実体として顕わしたのが大聖人の仏法である。
ここに仏としての力および資格の格段の違いがあることを知らなければならない。修行自体が難しければ条件にかなった人しか救えない。修行が簡単であればあらゆる階層、立場の人々をひとしく救っていける。ここに大聖人が一切衆生皆成仏道の根本依処として、御本尊を図顕されたことの重大な意義がある。
「日蓮が守護する処の御本尊を認(したた)め参(まい)らせることも、師子王に劣らない」
御本尊を認めるにあたっての大聖人の心構え、姿勢を述べられた文である。大聖人は全生命力をこの一幅の曼荼羅に込められているのである。それゆえにこそ、御本尊は即、日蓮大聖人の生命そのものであり、偉大な力があるのである。仏法の八万法蔵を凝縮し、宇宙生命の縮図ともいうべき当体が御本尊である。たとい一機一縁の御本尊といえども、小さなお守り御本尊といえども、衆生成仏の根源として、そこには仏法の一切が秘められているのである。
「此の曼荼羅(御本尊)をよくよく信じなさい」(此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、)
「能く能く(よくよく)」と言われている言葉に深く心をとどむべき一文である。いかに信ずることを言われているのか。疑うことなく、どこまでも御本尊を信じるということ。絶対に間違いないと確信することである。ただ一筋に信ずること。ほかにも正しいものがあるのではないかといった信仰のあり方ではいけない。純粋にただ御本尊を信ずることが大切である。また、三障四魔・三類の強敵にあって崩れるような信心であってはならない。いかなる障魔にあおうと毅然として信仰を貫くべきであるとの意も、この言葉の中に含まれていると考えるべきである。
「南無妙法蓮華経は師子吼のようなものである。どんな病が障りをなすというのであろうか。」(南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや)
その人の本源的生命の力が、題目を唱えることで、躍動してくるのである。それはあたかも百獣の王である師子がの一吼があらゆる獣の声を圧して沈黙させてしまうように、煩悩や病悩の生命のリズムを吹き消してしまう強大な力がある。ゆえに「いかなる病さわりをなすべきや」と断言されているのである。
およそ病気というものは生命力の衰えに乗じて起こってくるものである。病気を治す根本の力がその人自身の生命力にあることはよく知られていることである。生命は本来抵抗する力、治癒する力を持っている。その生命力の本源の実体こそが南無妙法蓮華経にほかならない。肉体上の病のみならず、人生のあらゆる悩み、苦しみも全部同じ方程式で起こってくる。生命力が衰えれば病悩・苦悩に敗れて不幸のどん底に落ちるのである。強い生命力があれば悠々とこれを克服し、乗り越えていける。むしろそうした起伏は人生に華を添えるにすぎず、それゆえにこそ楽しいと言えるようになるであろう。
〈以下の講義は割愛します〉
<感想>
何かあれば、とことん題目をあげてみる。乗り越えられると信じて、他の事に目もくれないで、とにかく題目に挑戦する。弱い自分が御本尊を信じきって題目をあげきっていくと、絶対乗り越えらる。そのとき、魔が「参りました」といって去っていく。
確実に我が身が妙法の当体となれる。仏だと実感できる。本来ある仏性が最大限発動して魔をやっつけるんだと私は思っています。
#日蓮大聖人御書講義 22巻 p.337