御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

義浄房御書 大事な御書です! 全892頁 新1196頁

文永10年5月28日 日蓮大聖人が52歳の時、佐渡の一谷(いちのさわ)から安房清澄寺の義浄房に送られた御消息です。

別名を「己心仏界抄」といいます。

義浄房の質問に対して答えて、天台よりも深い事の一念三千の法門を説かれています。

義浄房の環境は厳しく、師の道善房は日蓮大聖人の教えが正しいと思いながらも念仏を捨てきれずにいた。自身の弱い心を師としたからである。それで「心の師とはなるとも心を師とせざれ」と注意されたと思う。

そして、不惜身命の信心を強調されたのは、それなくしては即身成仏しないからである。不惜身命というは易く実践は難しいと思う。その決意に立っただけで成仏することを私は自分の体験から確信しています。

この御書も大事な法門が書かれているので、講義を読んでしっかり勉強しようと思います。

 

義浄房御書

 御法門の事委(くわ)しく承(うけたまわ)った。法華経の功徳というは唯仏与仏の境界・十方分身の智慧も及ぶか及ばないかの内証である。であるならば、天台大師も妙の一字を「妙とは、妙は不可思議と名(なづ)く」と釈しておられる。前々からご存知のとおりである。しかしながら、この経において重重【幾重もの段階】の修行が分かれている。天台・妙楽・伝教等だけが知っている法門である。なかんずく伝教大師は天台の後身(生まれ変わり)としておられたけれども、人々の不審を晴さんとや思われたのであろう、(中国の)大唐へ決(決答)を得るために人を遣わす事が多かった。

されば今経(法華経)の所詮は十界互具・百界千如・一念三千という事こそ非常に大事なのである。この法門は摩訶止観という文にしるされている。

次に寿量品の法門は日蓮が身に取つて頼みになる品である。天台・伝教等もほぼ知っておられたけれども、言(ことば)に出して宣(の)べられなかった。竜樹・天親等もまた同様である。寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」云云、日蓮の己心の仏界を、この文に依つて顕わすのである。そのわけは寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就しているのが、この経文だからである。秘すべし、秘すべし。【このことは秘しておきなさい。】

比叡山伝教大師が渡唐してこの経文の点(注釈)を相伝されたところである。一とは一道清浄の義であり、心とは諸法である。されば天台大師、心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云、日蓮云く一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり、この五字を弘通するには【身命も惜しまないというのが】不自惜身命である。「一心欲見仏」とは、「一心に仏を見る」、「心を一にして仏を見る」、「一心を見れば仏なり」ということである。

無作の三身の仏果を成就することは、おそらくは天台伝教にも越え、竜樹・迦葉にも勝れている。相構へ相構へて(しっかりとよくよく心して)、「心の師となっても心を師としてはいけない」と仏は記されている。法華経のために身を捨て、命も惜しまないようにと、強盛に言ってきたのはこのことである。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経

 

〈語句の説明〉

決=決答:伝教大師等の法華経三大部等に関する質問に、唐の道邃などが答えたものを唐決といった。

一道清浄:一道とは衆生を悟りへ赴かせる唯一の真実の法理。清浄とは清らかで煩悩のけがれを離れているの意味でここではあらゆるものの中に普遍的に存在している清浄無垢の仏性をさす。したがって一道清浄とは、あらゆるものの中に清浄な生命の仏性があるという十界互具・一念三千の意義を含めた実相のこと。

一月三星・心果清浄:この言葉の前に、「天台大師、心の字を釈して云く、」とありますが、天台のいずれの文かは明らかではありません。一月三星とは「心」の字の下の一画を一月に、そして上の三点を三星に配したもので、心の字形を示している。一月は一身、三星三身に配せられ、一身即三身三身即一身の義をあらわすと考えられる。心果清浄とは、久遠の本果に住せられている無作三身如来の境地が月と星の輝くように澄み渡って清浄であるとの意。

 

講義録200頁-201頁 ここが大事!

日蓮云く、一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり、この五字を弘通するには【身命も惜しまないというのが】不自惜身命である。

大聖人は「一心欲見仏」の五字を御自身の立場から妙法蓮華経の五字に配されている。時々念々作々発々(じじねんねんささほつほつ)の振る舞いの中に、ひたすら仏を見んとする一心が仏(妙法蓮華経の当体)であると仰せられたものと拝せられる。

「一心欲見仏不自惜身命」の一句は、元来「仏を見る」すなわち己心の仏界を悟るために「不自惜身命」たれ、という意味である。

 

しかるに大聖人は

一心欲見仏」の心すなわち御本尊を信じ受持するその信心がすでに「妙法蓮華経」であるとされ「不自惜身命」は「此の五字を弘通せん」うえでの根本姿勢とされているのである

 因果俱時の妙法であるが故に「一心欲見仏」という因の中に果は俱時にあるのであって、その妙法を弘通するという自行化他の上に「不惜身命」の精神が肝要となるとの仰せと拝せられる。まさに、ここに事行の仏法たる所以があるといえよう。

 

以下は、今日付け加えたところです。

「一心欲見仏」とは、「一心に仏を見る」、「心を一にして仏を見る」、「一心を見れば仏なり」

この三回に言い直されてるような一心欲見仏のところ、なんで~?なんちゅーこと~って、昔読んだときも、はてなでしたけど、また池田先生や、戸田先生の講義録漁って、無いから普通に講義録何巻?ってわかる本もやっと見つかって、14巻てやっとわかって、それも探し出して、やっと何度も読んで理解しました。

不肖な弟子ですが、わかりたい一心で(笑)探した。

それで、ほんとは御本尊に向かって、一心に御本尊に見て、心を一つにして御本尊を見て、(他事をしないで、韓ドラも見ないで)、御本尊に祈る私の一心を見たら、まぎれもなく仏でしょう!ってことですよね。