御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

諸法実相抄 1358頁 52歳御作 

文永10年(1273年)5月17日、佐渡の一谷(いちのさわ)から最蓮房に送られた御消息。

初めに法華経方便品の「諸法実相乃至本末究竟等」の意義について、十界の依正の当体が妙法蓮華経の姿であるとの意であることを明かし、それを事相に顕したのが法華本門の儀式であると教えて、それが末法に初めて日蓮大聖人によって弘通される、事の一念三千の法本尊であることを示されています。

次に、この法華経の極理の付嘱を受けて末法に弘通するのは、本化地涌の菩薩の上首・上行菩薩であるが、その地涌の菩薩としての実践を大聖人がなさっていると述べています。(以下は内容の説明が長いので省略します。)〈「日蓮大聖人の御書を読む」から引用しました〉

 

私は昔、独身の頃に池田先生の講義本で勉強しました。懐かしい御書です。

今回は戸田先生の全集にある講義を読みました。面白くわかりやすかったけど、一つどうしても理解できないところがあって、寝る前にわからなかったので、明け方目が覚めた時にもう一回読んでわかりたいと思い、何度も繰り返し意味を考えて読んでいたらハッとわかったので、ようやく最後まで読むことができました。戸田先生はさらっと説明もなく次にいかれてたところです。講義録だと説明があってわかりやすく書かれていました。先に読んでおけばわかりやすかったかも。で、わかった気になりましたが、再度、池田先生の講義(この一節だけで2頁ちょっと講義されてます)を読みました。さらに深い考察があって、すごい!よくわかると思います。〈池田大作全集24巻55頁~58頁〉

大聖人様が「此の釈能く能く心中に案じさせ給え候へ」って言われてるだけあって、本当に大事なところだと思うのです。それは、

天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言(みょうごん)は迹門に主(ぬし)づけ本有(ほんぬ)の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり

ここのところ一回読んでわかる人はすごいと思いますが、深い意味をもっと知りたい人は池田先生の講義を読んでほしいです。

とりあえず現代語訳を載せます。最後に私が感動した箇所の池田先生の講義を載せました。上にあげたところです。

 

諸法実相抄 文永十年五月 五十二歳御作
 与最蓮房日浄
 日蓮之を記す
 問うていうには、法華経の第一(の巻)方便品(第二)に「諸法実相乃至本末究竟等」と説かれている。この経文の意味はどのようなものであろうか。

答えていう、「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」という経文である。依報があるならば、必ず正報が住している。釈に云く「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」等と述べている。又云く「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法は必ず十如をそなえている。十如は必ず十界という差別相がある。十界には必ず身と土が存在する」と述べている。また云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず(=阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身も中に具わり、毘盧遮那仏法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない)」としている。

これらの妙楽大師の釈義は分明である。誰が疑いを生ぜずるであろうか。したがって、法界のすがたは妙法蓮華経の五字に変わる事はない(ほかならない)。釈迦・多宝の二仏といっても、妙法等の五字のなかから用の利益(働きとしてあらわす利益)を施すとき、事相に【釈迦・多宝の】二仏と顕れて、宝塔の中にして・うなづき合われたのである。このような法門は日蓮を除いては申し出す人は一人もいないのである。天台・妙楽・伝教等は心には知っておられたのであるが、言葉に出されることはなかった。胸の中にしまって過ごされたのである。それも道理である。付属なかった故であり、時のいまだ至らなかった故であり、仏の久遠の弟子ではない故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘めるだけではなく、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なはいないのである。これすなわち本門寿量品の事の一念三千の法門であるからである。

したがって釈迦・多宝の二仏といっても用の仏である。妙法蓮華経こそ本仏であられるのである。法華経如楽寿量品第十六に「如来秘密神通之力」とあるのはこれである。如来秘密は体の三身であって本仏である。神通之力は用の三身であって迹仏なのである。凡夫は体の三身にして本仏である。仏は用の三身にして迹仏である。したがって、釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思っていたのであるが、そうではなくて、返つて仏に三徳を蒙らせているのは凡夫なのである。その故は如来というのは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏、二仏・三仏・本仏・迹仏の、一切の仏を通じて如来と号するのである。」この釈に本仏というのは凡夫であり、迹仏というのは仏である。しかしながら迷いと悟りの違いによって、衆生と仏との異なりがあり、倶体・倶用の三身という事を衆生は知らないのである。

だからこそ、諸法と十界を挙げて実相と説かれているのである。実相というのは妙法蓮華経の異名である。諸法は妙法蓮華経という。地獄は地獄の姿を見せたるが実の相だ。餓鬼と変われば地獄の実の姿ではない。仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるという事を諸法実相というのである。

天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、この釈の意味は実相の名言は迹門の立場から言ったものであり、本有の妙法蓮華経というは本門の上の法門なのである。この釈の意味をよくよく心中で案じられるのがよい。

 日蓮末法に生れて上行菩薩の弘められる所の妙法を先立てほぼ弘め、つくりあらわされるところの本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門の宝塔品の時に涌出された多宝仏、涌出品の時に出現された地涌の菩薩等を、まず作り顕したことは自分の分斉としては大それたことである。日蓮を憎むとも、内証(悟り)をどうすることもできないのである。それゆえ、このような日蓮をこの佐渡の島まで遠流した罪は、無量劫を経ても消えることはないだろう。譬喩品に云く「もしその【法華経誹謗の】罪を説くならば、劫のあらんかぎりを説いても説き尽くすことはできない。」とはこのことである。また日蓮を供養し、また日蓮が弟子檀那となられること、その功徳を仏の智慧でもはかり尽すことはできないであろう。法華経(薬王菩薩本事品第23)に云く「仏の智慧を以て量ってもその功徳の多少を量り尽くすことはできない。」と説かれている。地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人である。あるいは地涌の菩薩の数にも入っているのかもしれない。もし日蓮地涌の菩薩の数に入っているならば、日蓮が弟子檀那も地涌の流類ではないか。法華経法師品第十に云く「能くひそかに一人のために法華経の乃至一句を説くならば、まさに知るべし、この人は則ち如来の使い、如来の所遣として如来の事を行ずるなり」との文は、別人の事を説かれたものではない。

(1359頁16行目)

であるならば、大変よく人から自分がほめられる時は、どのようにもなりたい心が出てくるものだ。これはほむる処の言葉より起きてくるのである。末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有つて流罪死罪に及ぶであろう。しかしながら堪えて弘めん者を衣を以て釈迦仏が覆ってくださるのだ。諸天は供養をし、肩にかけ背中に負うべきである。大善根の者であり、一切衆生のためには大導師である」と釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩・天神七代・地神五代の神神・鬼子母神十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たちにほめられているので、無量の大難をも堪忍しているのである。ほめられれば我が身の損ずるをもかへりみず、そしられる時は又我が身が破滅するのも知らないで、振る舞う事は凡夫の常である。

(1360頁6行目)
 いかにもこのたび、信心をしたからには法華経の行者として最後までやり通し、日蓮が一門となり通していきなさい。日蓮と同意ならば地涌の菩薩であろうか。地涌の菩薩であると定まっているならば、釈尊久遠の弟子であることを、どうして疑うことができよう。法華経に云く「我久遠よりずっとこれらの衆を教化してきた」というのはこれである。末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は男女は分け隔てをしてはならない。皆地涌の菩薩の出現した人々でなければ唱えることができない題目である。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えていたが、二人・三人・百人と次第に唱え伝えてきたのである。未来もまたそうであろう。これが地涌の義ではないだろうか。そればかりか広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱える事は大地を的とするようなものである。

(1360頁11行目)

ともかくも法華経に名をたて身をまかせていきなさい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩が集まり、虚空会において二仏(釈迦仏法と多宝仏法)がうなづき合い、定められたことは別の事ではない。唯ひとへに末法の令法久住のためである。既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に譲られたとき、妙法蓮華経の旛(はた)をさしあらわし、釈迦・多宝の二仏が大将としてさだめられたことが、どうして偽りであろうか。それは我等衆生を仏にしようとの御談合なのである。

 日蓮はその座には居合わせなかったが、経文を見ると少しの曇りもない。その座にいたのかもしれないが、凡夫なので過去を知らない。現在は明らかに法華経の行者である。又未来は決定して当詣道場となるであろう【成仏するということ】。過去のこともこれを以て推するならば虚空会にも居合わせたであろう。三世の生命が別のものであるはずがない。このように思い続けていると、流人ではあるけれども喜悦は測りがたいものである。うれしいことにも、涙。辛いことにも涙。涙は善悪に通ずるものである。彼の千人の阿羅漢は、仏の事を思いだして涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へえられると、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は・なきながら如是我聞と答えられた。余の九百九十人は泣くなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経と書き付けたのである。今日蓮もこれと同じである。このような身となるのも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故である。釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生のために留め置かれたところの妙法蓮華経であると、このように我も聞いた故である。現在の大難を思い続けるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだが止まらないのである。鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は【声をあげて】泣いたりはしないが、【心の奥深くに流す】涙に暇がないのである。このなみだ世間の事ではない。ただひとえに法華経の故である。もしそうであるならば甘露のなみだともいえよう。涅槃経には「父母・兄弟・妻子・眷属に別れて流すところの涙は四大海の水よりも多いといっても、仏法のためには一滴もこぼさない」と説かれている。法華経の行者となる事は過去の宿習である。同じ草木であっても仏とつくられることは宿縁である。仏であっても権仏となるのは又宿業なのである。
 此文には日蓮が大事の法門を書いておいた。よくよく読んで深く理解し、肝に銘じて実践していきなさい。一閻浮提第一の御本尊を信じなさい。よくよく心して、信心強盛に三仏の守護を受けていきなさい。行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法ではないのである。我も行い、人にも教化していきなさい。行学は信心より起こってくるのである。力あるならば一文一句であっても人に語っていきなさい。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経、恐恐謹言。
 五月十七日                        日 蓮 花押
追申を申し上げる。日蓮が相承の法門等・前前から書き送っている。ことにこの手紙には大事の法門をしるしている。【日蓮と貴辺とは】不思議な契約があるのだろう。六万恒沙の上首の上行等の四菩薩の変化【変化(へんげ):仏菩薩が衆生を教化するために種々に変現した化身のこと】がであろうか。きっと故のあることであろう。総じて日蓮が身に当たる法門を差し上げている。日蓮はあるいは六万恒沙の地涌の菩薩の眷属であるかもしれない。南無妙法蓮華経と唱えて日本国の男女を導かんと思っているが故である。経に云く一名上行乃至唱導之師とは説かれているではないか。

あなたはまことに深い宿縁によって日蓮の弟子となられたのである。この手紙を心して秘されよ。日蓮が己証の法門を書き記したのである。以上をもってとどめる。

最蓮房御返事

 

天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言(みょうごん)は迹門に主(ぬし)づけ本有(ほんぬ)の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり

この一節の講義です:

迹門方便品に「実相」の名で示されたものの本体は、本門寿量品にあらわれた妙法蓮華経に他ならないということを、天台の釈を上げて裏付けられたところであります。

「この釈よくよく心中に案じさせたまえ」と仰せのように、これは法華経の根本義にかかわる深い法門であります。というのは天台は明確には言っておりませんが、この釈を大聖人の観心の上で読めば、実相の究極は何かといえば、寿量文底の南妙法蓮華経を示しているからであります。一応法華経の経文の流れをみますと、法華経は一切衆生の成仏のカギとなる三世諸仏の悟りの法を明かそうとしたのであります。方便品の初めに「諸仏智慧甚深無量」とあるのがそれであり、方便品に示されたその法の内容が「諸法実相、十如是」だったのであります。

ゆえに、声聞の弟子の中でも知恵第一と称せられた舎利弗は、ただこの「諸法実相」の説法で得脱し、他の中根、下根の声聞達も、その後の譬喩説、因縁説によって、次々と得脱したわけであります。この財在世の弟子、声聞達に対する説法のあと、法師品、宝塔品以下は、仏滅後の未来に妙法蓮華経を誰が弘めるかと釈尊が呼びかけ、それにこたえて迹化の菩薩達が名乗りでる。しかしこれを釈尊は制止し、大地から本化の菩薩を召しいだして、この地涌の菩薩に法を付属する、という流れで展開されます。したがって、法師品、宝塔品以下は文のうえからみますと滅後弘通の人を定めることを目的として展開されたことは明らかであります。しかしながら、ただそれだけではない。再往これをみれば、そこには滅後弘通の本体そのものが明かされている。これが「本有の妙法蓮華経」であります。在世の声聞の弟子達は、過去に下種・血縁がありますから、すなわち本已有善のゆえに、法華経の会座では「諸法実相」の説法、ないし「三車火宅の譬」、あるいは「三千塵点劫の結縁の説法を聞いただけで、種子を覚知することができたのであります。

これは、一つのたとえで言えば、かつて歩いたことのある道で、記憶が定かでなく、迷っている場合に見ています。大部分は思い出せるが、一つだけ曲がり角がどこだったかわからない場合、その一カ所だけ教えてもらえば、あとは迷わずに目的地へ行けるのです。舎利弗が「諸法実相」だけで得脱できたのは、これと同じようなものと考えてよいでしょう。

ところが、未来、特に末法衆生は過去に下種・結縁のない衆生、つまり本未有善の機であります。かつて歩いた事のない道は途中のことをどのように教えても、目的地を思い出させることはできません。目的地そのものを示さなければならない。この目的地が「本有の妙法蓮華経」です。

法華経の儀式の中で、法師品以後、特に宝塔品で多宝の塔があらわれ、そこに釈迦と多宝の二仏が並座し、更に十方の諸仏がら来至し、本化の菩薩が涌出して展開された、虚空会の儀式は、寿量品で魂を得て、そのまま「本有の妙法蓮華経」を表現していたのであります。

とはいえ、釈尊法華経二十八品は、本門といえども、この「本有の妙法蓮華経」に至る道を図に書いて示したようなものであります。

「本有の妙法」自体を具現化され、末代幼稚の凡夫に受持させてくださったのが、末法御本仏日蓮大聖人なのであります。

このように同じく「諸法実相」と言っても、迹門、本門、門弟文底独一本門の立場で、読み方が異なります。

文底独一本門に約せば、御本尊そのものが諸法実相であります。更に信心に約せば、大御本尊を受持しぬいた時に、妙法の生命が涌出し、幸福の諸法実相、人間革命の諸法実相として、我が人生が建設されてくるのであります。

 

感想:何度も講義を読んでいきたいと思いました。

諸法実相抄と生死一大事血脈抄はかなり大事な御書だそうです。

短いので何度でも読めるからいいですが、観心本尊抄と開目抄は長いので何度も読むのは大変です。こちらの二編だけでも身読しなければ!