御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

生死一大事血脈抄 1336頁 51歳御作

文永9年2月11日、大聖人が51歳のとき、佐渡塚原でしたためられ、最蓮房日浄に与えられたお手紙です。

〈背景〉

この年、1月16日に塚原問答があった。これは、大聖人の御命を狙う念仏者たちに対し、佐渡守護代・本間六郎左衛門尉が、法論で決着をつけるように命じたため実現したものであった。佐渡のみならず越後・越中・出羽・奥羽・信濃等から集まった念仏者たちは大聖人と法論を戦わし、念仏者たちは完膚なきまでに破折された。

 

〈概略〉(「日蓮大聖人の「御書をよむ」から引用):

本抄は最蓮房が生死一大事血脈という仏法の極理について質問したことに対するご返事です。初めに生死一大事血脈とは何かということについて、いわゆる妙法蓮華経であると、法華経、天台大師、伝教大師の経釈を引いて明らかにされています。次に衆生がどのような信心の姿勢に立った時に、生死一大事血脈という仏の悟りの極理が仏から衆生へ血脈として伝えられるかを、三つの点に分けて教えられています。

第一は「久遠実成の釈尊と皆成仏道法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処」と我が身の内に尊極の仏の生命が具わっていることを信じ、妙法を唱えゆく実践を教えています。

第二は、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とはいうなり」と過去・現在・未来の三世にわたって、御本尊から離れないという信心の持続を教えています。

第三は「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思いを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処」と門下の団結、さらに全民衆へ開かれた連帯の絆が大切であることを教えて、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えるところにのみ、生死一大事の血脈が伝わることを示されています。しかもその題目は、今、末法において日蓮大聖人が弘通される究極のものであると述べ、最後に最蓮房が仏法の骨髄にかかわる問題について質問したことに対し、前代未聞のことであると喜ばれるとともに、師弟の宿縁を明かされ、いっそう強盛な信心に立つように励まされています。

〈戸田先生の講義を別にUPするつもりです〉

 

 

 

〈御書〉

生死一大事血脈抄 文永九年二月十一日 五十一歳御作
 与最蓮房日浄
 日蓮記之
 御状委細披見せしめ候い畢んぬ、夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり、妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり又此れを当体蓮華とも云うなり、天台云く「当に知るべし依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云此の釈に依正と云うは生死なり生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん浅猨浅猨、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。
 今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手を授け給はん事・譬えば蓏夕顔の手を出すが如くと思し食せ、過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり。
 総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、日本国の一切衆生法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か、経に云く「衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し」又云く「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ。
 殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴貴、此の文に委悉なり能く能く心得させ給へ、只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、火は焼照を以て行と為し・水は垢穢を浄るを以て行と為し・風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり、上行菩薩末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり、相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。
 文永九年壬申二月十一日 桑門 日 蓮 花押
 最蓮房上人御返事

 

〈通解〉

お手紙を詳しく拝見した。お尋ねの生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経のことである。そのわけは、この妙法蓮華経の五字は釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で上行菩薩にお譲りになったのであり、過去遠々劫以来、寸時も離れることのなかった血脈の法であるからである。妙とは死、法とは生のことで、この生死の二法が即当体である。またこれを当体蓮華とも言うのである。

〈講義のまとめ〉当体蓮華とは一切衆生の当体が妙法蓮華であるということ。当体蓮華(妙法蓮華)を説明するために用いられた華草の蓮華を譬喩蓮華という。

十界三千の妙法の当体、すなわち森羅万象を当体蓮華といい、また、一切衆生の胸間の八葉を蓮華と名付け、これを当体蓮華という。生死が妙法でそれを現ずる当体が蓮華であるゆえに十界の生命は妙法蓮華である。(講義14ー15頁)

 

天台大師は「まさに知るべきである。十界の依正の因果がことごとく蓮華の法門ある」と言われている。この釈に依正というのは十界の精進の意味である。生死があれば、その因果もまた蓮華の法門であることは明らかである。

〈講義のまとめ〉依正とも、生死ともとらえられる生命は因果の法をあらわし、その因果の法は必ず因果俱時であるから蓮華の法となる。蓮華は華(因)と果実(果)が同時にあるので因果俱時をあらわしている。一般に原因と結果は同時には現れない。これを一瞬の一念に因果が同時に存在すると考えられたのが法華経である。依報も正報も同時に同じ十界に存在するのである。十界の生命では九界が因で仏界が果である。御本尊を信受することが因で唱題は果である。信じて唱題したときその一瞬の生命に仏界が湧現する。九界の生命に仏界が具足するゆえに即身成仏となる。

伝教大師は「生死の二法は一心の妙用であり、有と無との二道は本学の真徳である」と述べている。

〈講義〉生死の二法は妙法蓮華経のあらわす働きである。一心とは生命、妙用とは妙なる用(ゆう)、すなわち働き・作用のこと。生まれて死ぬというのも常住不滅の生命のあらわす働きであるということ。

「有無の二道」とはこの世に有る、無いという妙法蓮華経のとる二つの存在の仕方をいう。「本覚」とは、もともとの覚りということで、その体は妙法蓮華経である。「真徳」とは真の徳(働き)の意味。すなわち、生死にしても、有無にしても、ともにその生死、有無を超えた体がある。それが「一心」であり、「本覚」である。それが、あるときは生、あるときは死、ある時は有、あるときは無という、様々な相(すがた)をあらわしているという意味。万物は生死の二法、有無の二道を示していくけれども、その体は常住不変の妙法蓮華経そのものであるということ。

 

天地、陰陽、日月、五星、地獄、ないし仏果に至るまで、生死の二法でないものはない。このように生死もただ妙法蓮華経の生死なのである。天台大師の摩訶止観に「起(生)はこれ法性の起であり、滅(死)もまたこれ法性の滅である」とある。釈迦・多宝の二仏も生死の二法をあらわしているのである。

〈講義〉釈迦は「生」多宝は「死」をあらわす。法華経を説法する主体は釈迦仏なので「生」であり、多宝仏は証明役で客観性をあらわしているので「死」である。境智の二法に約せば、釈迦は智、多宝は境。能動的主体の智の表象にあたる釈迦は「生」所証の境の表象である多宝は「死」となるのである。

 

このように十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と皆成仏道法華経すなわち妙法蓮華経と我ら九界の衆生の三つは全く差別がないと信解して、妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈というのである、このことが、日蓮が弟子旦那等の肝要である。法華経を持つとは、このことを言うのである。

所詮、臨終只今にありと覚悟して信心に励み

〈講義より〉単に死に臨んだときに、ということではない。今はまだ臨終ではないが、臨終だと思って、ということでもない。今は健康で長生きできそうであっても、いつ死ぬかわからないのが人間の寿命である。死は厳粛な事実であり、誰人も避けて通ることはできない。この先、何十年生きられるにしても、永遠の生命から見れば一瞬のようなものである。「解(さと)りて」とは、この生命の真実の姿を見極めるという意味である。この事実を自覚した時、今生きて真実の仏法を受持していることの重大さをひしひしと感じないわけにはいかない。そこに真剣な信心が生まれると言えよう。一日一日、一瞬一瞬に全生命をかけていくということが、「臨終只今」なのである。(25頁)

 

南無妙法蓮華経と唱える人を普賢菩薩勧発品には「この人は命が終わったならば千仏の手を授けて恐怖することなく、悪趣に堕ちることはない」と説かれている。喜ばしいことに、一仏二仏ではなく、また百仏二百仏でなく千仏までも来迎し、手を取ってくださるとは歓喜の涙を抑えがたいことである。

〈講義より〉「千如の法門」とは十界互具・百界千如のことであり、千仏とは千如是であるとのご教示である。すなわち我々の生命に具わっている千如是が、仏界の千如是になるということである。したがって本意は自行化他の信心に励むことにより、自分自身の胸中にある千仏の守護の働きを自らあらわしていくということにある。

 

これに対し法華経を不信のものは譬喩品に「その人は命終わって阿鼻獄に入るであろう」と説かれているから、定めて獄卒が迎えに来て、その手をとることであろう。浅ましいことである、浅ましいことである、このような人は十王にその罪を裁断され、倶生神に呵責されるに違いない。今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱える者に、千仏が御手を授けて迎えてくださるさまは、例えば瓜や夕顔の蔓あ(つる)が幾重にも絡んで伸びるようなものであると思われるがよい。

過去世において強盛に法華経に結縁していたので、今生において、この経に値うことができたのである。未来世において仏果を成就することは疑いない、過去、現在、未来と三世の生死において、法華経から離れないことを法華経の血脈相承というのである。

謗法不信のものは譬喩品に「即ち一切世間の仏種を断ぜん」と説かれて、成仏すべき仏種を断絶するが故に、生死一大事の血脈はないのである。

総じて日蓮が弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いを成して異体同心に南妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈というのである。しかも今、日蓮が弘通する所の肝要はこれである。もし弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するであろう。これに反して日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それは、例えば、城者にして城を破るようなものである。

日蓮は日本国の一切衆生法華経を信じさせ、仏になるべき血脈を継がせようとしているのに、帰って日蓮を種々の難に値わせ、揚げ句の果てはこの佐渡にまで流した。そうした中であなたは日蓮に随順され、また法華経のゆえに難にあわれており、その心中が思いやられて心を痛めている。金は大火にも焼けず、大水にも流されず、また朽ちることもない。鉄は水にも火にも、ともに耐えることができない。賢人は金のようであり愚人は鉄のようなものである。あなたは法華経の金を持つゆえに、まさに真金である。薬王菩薩本事品に「諸山の中で須弥山が第一であるように、この法華経もまた諸経中最第一である」とあり、また「火も焼くことできず、水も漂わすことができない」と説かれている。過去の宿縁から今世で日蓮の弟子となられたのであろうか。釈迦多宝の二仏こそご存知と思われる。化城喩品の「在在諸仏どの土に常に師ととも生まれる」の経文はよもや虚事とは思われない。

ことに生死一大事血脈についてのお尋ねは、先代未聞のことであり、誠に尊いことである。この文に詳しく記した通りであり、よく心得て南無妙法蓮華経、釈迦多宝上行菩薩血脈相承と唱え、修行されるがよい。火は物を焼き、かつ照らすことを持ってその働きとなし、水は垢や汚れを清めることをもってその働きとなし、風は塵や埃を払うことをもってその働きとなし、また人畜や草木のために魂となることをもってその働きとなし、大地は草木を生ずることをもってその働きとなし、天は万物を潤すことをもってその働きとする。妙法蓮華経の五字もまた、この地、水、火、風、空の五大の働きをことごとく具えているのである。本化地涌の菩薩の利益がこれである。さて上行菩薩末法の今の時、この法華経弘めるためご出現されることが経文に見えているが、どうであろうか。上行菩薩が出現されているにせよ、されていないにせよ、日蓮はその先駆けとして上行菩薩所弘の法門をほぼ弘めているのである。

心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念されるがよい。生死一大事の血脈をこのことの他に求めてはならない。煩悩即菩提、生死即涅槃とはこのことである。信心の血脈がなければ法華経を持(たも)っても無益である。詳しくはまた申し上げよう。恐恐謹言。

 

※最後まで講義を載せてないですが、UPします。