御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

生死一大事血脈抄 戸田先生の講義   新1774頁 全1336頁

普通に「日蓮大聖人御書講義」という本が親切でわかりやすいのですが、戸田先生の御書講義はおもしろくてわかりやすい、しかも説明をもうちょっとすると難しくなるってところはわざと省かれてると思う。(私の感想ですが)全部写すのは大変なので、途中まで載せようかな・・・

そして、池田先生の講義も読んでいるところです。

とにかくこの御書はすごい御書らしいです。何度も読むようにと言われています。

戸田先生の講義を載せますが、面白いけど全部載せるのはどうかなと思うので、興味のある人は戸田先生の全集などで講義を探して勉強してくださいね。

 

  生死一大事血脈抄 

〈戸田先生の講義ですが、部分的に池田先生の講義も青字で載せました〉

この御書は文永九年二月、佐渡において認められています。日蓮大聖人の御書を拝読する時は、御年がおいくつの時の御書であるかを考えなくてはいけないのです。佐渡流罪中の御書は非常に厳しいのです。大聖人様の一門が文永八年の由比ヶ浜での御難で、一応敗北に終わったのです。佐渡のお手紙というものは、時の政府の弾圧で敗北に終わって、それから佐渡に流されてからの御門下に対する御命令書なのです。(中略)

佐渡で認められた御書には「開目抄」「観心本尊抄」をはじめ、「当体義抄」「諸法実相抄」「顕仏未来記」「如説修行抄」等の重要な御書があられる。当時は総大将が負けて佐渡へ流されてしまい、門下は信心ができなくなっている。そういうときに大聖人様の御心をしのびまいらせれば、「退転させてはあいならん、敗れるのがなんだ、いちじの敗けではないか、必ず勝たせなければならん、全部を幸福にしなければならん。」という火のように燃え立った御心だと思うのです。またそうした大聖人の御精神がそれらのお手紙には強くにじみ出ているのです。

その後、身延の山に入られてからのお手紙というものは、非常にやさしい仏様の御手紙になっているのです。また、佐渡以前の御書とは、天台流の理論が主なのです。だがもちろん、その理論も絶対に間違ってはおりません。

この生死一大事血脈抄を読むのは、とてもめんどうです。スラスラと読もうと思えばスラスラと読めるし、スラスラとわかったといえばわかったのです。しかし、はたしてどこまでわかったのかというと、またわからなくなってくる。これはそういうめんどうな御書であります。

まず、生死一大事血脈ということから始めなければならない。

生死一大事血脈とは南無妙法蓮華経ということであります。天台の学説から説くならば、これを教相の面から述べまして、南無妙法蓮華経を生死一大事血脈という。大聖人の観心の法門から説きますときには妙法蓮華経と読む字なのです。

生死と申しますのは生命のことであります。人間というものは、死んだり生まれたり、生まれたり死んだりすることが、人間の本質であるということを天台の学者は知っております。そこで、この御書をいただいた最蓮房日浄という人は天台の学者です。なにか学説を立てて、流罪にあった人のように記されておりますが、その人にやる手紙でありますから、大聖人の観心の面から述べたのではわからない。相手が天台の学問をしておりますから、天台の学問から観心へとお説きあそばしたのです。

教相、観心と申しますのは、大聖人の仏法研究のためには、もっとも大事な法門であります。この御抄は教相面から、観心に説いていかれる。大聖人様の観心の法門と、天台の教相の法門を比べるのであれば、御義口伝をご覧なさい。御義口伝、御義口伝とわれわれは軽くいいますが、これは大聖人様の口伝書です。その口伝書を読みますと、はっきりとわかることであります。

生死とは生命のことであります。(略)

だが仏法においての一大事ということは、人間の生命の問題において、根本的な事という意味です。この一大事という言葉が法華経にあるのは、方便品のなかの一大事因縁という言葉を、大聖人がお説きあそばされるときにあたりまして、一とは普通の一、二、三の一ではなくて、これは平等、中道という意味であると、そのようにお説きあそばされながら、一大事因縁とは、これ妙法蓮華経なりとお説きあそばされておりますが、その御心がこの生死一大事血脈抄に歴々とあらわれているのです。前の生死ということは、理想にあらわれ形のうえにあらわれた生命を論ずるのでありまして、血脈というのは、そのまま続く生命であります。この生死一大事血脈というものはなんであるかということを、今大聖人が天台の学者に対して説法する御書であります。私は生死一大事血脈も南無妙法蓮華経と読んだと、それはおまえが勝手に読んだのではないかといわれるときにあたりまして、次に証明の御書がすぐでております。

 

御書の内容に入ります:

御状委細披見せしめ候い畢んぬ、夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、

このように大聖人は決定づけられております。

其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり、

これがめんどうなのです。法華経を読んだという人がいるかもしれませんが、真実に法華経を読みきった人が、この御書にぶつかったら困るところなのです。多宝如来と釈迦如来の二仏が宝塔品のなかでうなずきあって、そして、南無妙法蓮華経という御本尊を上行菩薩に渡した。これが法華経の表であります。宝塔というのは何か、これは面白い話がある。入らない話をすると、そればかり覚えて困るのですが、ある僧侶になっている学者でありますが、、私がその人に向かって「いったい法華経を説くところ、宝塔がたつと法華経にあるが、大聖人様は法華経を説かれたけれども宝塔がどこにも建たなかったが、そのわけは何ですか?」と聞いたことがあります。ご本人は困った。宝塔というのは、阿仏房が大聖人様に宝塔の事を伺い奉った時に、「阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房」と仰せられたことがある。あなた方の体は、それ自体が宝塔なのです。その宝塔の中に、あなた方の体のなかに釈迦、多宝の二仏がお座りになって上行菩薩という方を呼び出した。これがまた問題なのです。そこまでやかましくいうと、いつになっても講義が終わらないことになりますが、四菩薩を常楽我浄に配されますが、上行菩薩という方は常楽我浄のなかの我という存在です。それに向かって妙法蓮華経の五字を授けられたというのです。ですから遠々劫より離れざる血脈、生命なのです。南無妙法蓮華経という生命なのです。それは、あなた方の生命でもあれば、私の生命でもある。

池田先生の講義を一部載せます。

上行菩薩は一往文上では虚空会で釈迦多宝の二仏から妙法蓮華経を譲り受けるという儀式を踏みます。しかし、再往文底からみれば、上行菩薩の本地は久遠元初の自受用報身如来です。本来、妙法の大地に住し、人法体一である、最も根本の仏なのであります。ゆえに「過去遠々劫より已来寸時も離れざる血脈」なのです。

無作三身如来の内に脈打っているその生命こそ、妙法蓮華経ー南無妙法蓮華経にほかならないのであります

 

妙は死法は生なり、此の生死の二法が十界の当体なり、又此れを当体蓮華とも云うなり、

妙とは不可思議ということです。死ぬということぐらい不可思議なことはない。

生は法です。生きてる間は規則で生きています。

この生死の二法が生きるということと、死ぬということが、十界の当体です。十界の当体とは御本尊のことです。また我々の生命のことです。我々は十界以外には生きてないのです。ですから十界の当体は妙法であり、当体蓮華ともいうのです。

天台云く「当に知るべし、依正の因果は悉く是れ蓮華の法なり」と云云

すなわち天台の言葉を借りまして再び依正の法を説くのです。

因果の二法これ依報、正報の現実の世界です。

此の釈に依正と云うは生死なり、生死之有れば因果又蓮華の法なる事明けし、

依報も正報も生死の法でしょう。生きていなければ、みなさん方と会う必要もないでしょう。しかも妙法です。蓮華の法というものが、人生を決定し、みなさんを幸福に持っていく哲学的論理の根本になるのです。

伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳」と文、

これはすごい言葉です。死ぬとか生きるとか、それはみな心の妙用である。生命というものを自分がつかむのは、一心の妙用である。有無の二道とは生命があるか、ないかということです。それが本当に悟りの境地にこなければわからない。この空観とは仏教の極意でありますけれども、生命が「ある、ない」ということを法華経のなかでも大問題にしている。生命があると決めつけるのもいかん、ないと決めるのもいかん。これは断常の二見と申しまして邪見のうちに入ります。空観になることが本当の真実なのです。それを伝教はいまいっているところです。

 

天地・陰陽・日月・五星・地獄・乃至仏果・生死の二法に非ずと云うことなし、是くの如く生死も唯妙法蓮華経の生死なり、

人生・宇宙の状態のことごとくは、生死の二法であるということです。できてくる、なくなっていく、生死生死と動いて、そこに血脈があるということが、御書の根本問題であります。生まれてくるとか、できてくるとか、死んでいく等、あらゆる現象が全部、妙法蓮華経でないものはないと断ずるのです。そこで宇宙全体の法相というもの、宇宙全体の動きというもの、風であろうと、波であろうと、夫婦喧嘩であろうと自分の貧乏、自分の病気であろうと、ことごとくは妙法蓮華経の動きだというのです。そこで御本尊が大事になってくるのです。自分は病気で苦しんでいる、自分は金がない等々、そういう生命、生死というも、ことごとく妙法蓮華経の生死である。そこで、御本尊を持つがゆえに、自分の希望通りの世界がここに広げられるというのが、大聖人様の根本の大問題になっているのです。

(五星についての名前は略します。)この五星を五行の星とも五緯ともいうのです。

天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、

すなわち天台がいうのには、法性とは南無妙法蓮華経、御本尊のことです。生まれるのも大御本尊の御力によって生まれ、死ぬのも大御本尊の御力によって死ぬということです。もしそれを別の言葉で言えば、仏法の哲学では、死ぬのも宇宙の真理、生まれるのも宇宙の真理であるというのです。釈迦、多宝というのも、ことごとく生死の二法をあらわした姿であるというのです。

 

然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、

ここは池田先生の講義を引用します。

これまでのところを受けて、結局いかにすれば仏法の極理であり、仏の悟達の法であり、しかも我々の生命の体でもあるこの生死の一大事が、衆生の中に湧現してくるか、という実践法を述べられるところであります。

ここでは、その中でも最も根本となる、信心の姿勢をいわれていると考えてよいでしょう。

(中略)

ともかく、御本仏日蓮大聖人の御生命も南無妙法蓮華経であり、その大聖人の御生命をそのまま「すみにそめながしてかきて候」と仰せられている御本尊も南無妙法蓮華経である。そしてもったいないことでありますが、私ども一人一人の生命もまた、同じ南無妙法蓮華経であると、そう信じて、南無妙法蓮華経と唱える時、私どもの生命に生死一大事の血脈、すなわち南無妙法蓮華経の大生命が脈々と湧現してくるのであります。

これこそが、日蓮大聖人の弟子檀那ーすなわち日蓮大聖人の仏法を実践する者にとっての肝要であり、「法華経を持つとは是なり」ーこれ以外にないということなのであります。

   

此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり、所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、

池田先生の講義には「臨終只今にありと解りて」ということは単に肚(はら)を決めることではない。「解りて」とは、事実がそのとおりであることを前提にし、この生命の真実の姿を見極めるという意味であります。

 

悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し、法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば・定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん浅猨浅猨、十王は裁断し倶生神は呵責せんか。

 

ここで池田先生の講義のなかで、永遠の生命にかかわる話が出てきます。ここは全部載せられないので、死後のことなどに興味のある方は是非読んでほしいです。(池田大作全集24巻 154-165頁)

ちょっとだけ端折って書いておきます:

シカゴ大学精神科医学部の教授、エリザベス・キューブラー・ロス女史は死の宣告をされた人達が蘇生するまでの間に何が起きたかを詳細に語ってもらい、リポートしていたようで、その話は私は昔からテレビでもよく臨死体験の放送を見ていたので、同じことが書かれています。

先生はヘミングウェイや小林勝氏の話も取り上げられて、生命における魂の核のようなもの、これは決して魂を肯定するのではなく、仏法では魂は否定しているので、生命の核といってもいいのですが、それが生きている時は活動的、活性化しているが、死の瞬間から自分では何もできない非活性状態になる。その核のことを仏法では我という。自分自身の「我」は死んでもなくならない。

私の感想:「臨終只今にあり」の言は現代において、死ぬということを直視して考えることのない人たちに、立ち止まって自分の人生を考えてみる。何をすべきかということを考えてみる。今もし、自分が死んでも悔いはないのかということを常に考えて生きなければならないとしたら、もっと意義ある生き方をしたいと願うかもしれない、ということを教えてくれているように思う。

戸田先生の講義では臨終只今はユニークなとらえ方をされていました。自分が今死ぬという意味ではなくて、もし今師匠が死ぬとしたら、ととらえることもできると

長くなるので割愛させてもらいますけど、池田先生の講義にはなかったとらえ方でした。

 

 今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手を授け給はん事・譬えば蓏夕顔の手を出すが如くと思し食せ、

戸田先生の講義:千人の仏が来て南無妙法蓮華経と唱える人を死後はいざ知らず、現世においても護るべきはずである。ですから死後はもちろん安心していきなさい。一仏二仏ではない。

過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、

過去に結縁が強盛であるから、あなた方も御本尊を受けたのです。過去に縁なくしてはうけられないものです。それはいつの縁かわからない。‥略します・・・

未来に仏果を成就せん事疑有るべからず、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり。

そうすれば、未来において仏果を成ずるということは疑いないものである。この仏果ということは問題なのです。今これをだれも説く人がいないのです。成仏という境界はすごいのです。

 

 総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、

これは大事なところです。異体同心とは体が違うけれども心は同じということです。その心とは何か。素直に御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えて、体は異なっても心は同じく御本尊を信ずるということが生死一大事の血脈である。・・・略します

 

然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し、日本国の一切衆生法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺豈真金に非ずや・法華経の金を持つ故か、経に云く「衆山の中に須弥山為第一・此の法華経も亦復是くの如し」又云く「火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず」云云、過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ。
 殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事なり貴貴、此の文に委悉なり能く能く心得させ給へ、只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ、火は焼照を以て行と為し・水は垢穢を浄るを以て行と為し・風は塵埃を払ふを以て行と為し・又人畜草木の為に魂となるを以て行と為し・大地は草木を生ずるを以て行と為し・天は潤すを以て行と為す・妙法蓮華経の五字も又是くの如し・本化地涌の利益是なり、上行菩薩末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由・経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん・出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり、(この辺の講義は割愛します)

 

相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、

死ぬときは臨終正念でなければならない。死ぬときに血を吐いたり、世迷いごとを言ったりしないで、ただ臨終正念という大信力をいたして、本当に御本尊様を信じきって、死ぬときに世迷いごとをいわないようにしなさいというのです。

 

生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。

 文永九年壬申二月十一日 桑門 日 蓮 花押
 最蓮房上人御返事

 

信心の血脈がなかったならば、信心がなかったならば何をやってもダメです。信心の血脈をたもって、そしてほんとうの幸福の境界に入ってください。そしてまた人を幸福の境界に入れてください。  (昭和31年12月11日 大阪中之島公会堂

 

 

戸田先生の講義、やっぱり全部は書ききれませんでした。面白くて楽しいのですが、よくわかるかというと、そうでもなかったりするので、池田先生の講義を読むか、講義録を読むかしてください。以上です。