御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

草木成仏口決 1338頁 51歳御作

文永9年(1272年)2月20日日蓮大聖人が51歳の時に佐渡塚原で著され、最蓮房日浄に与えられた御消息です。

初めに草木成仏は有情・非情のうちどちらの成仏かという問いを設けて、非情の成仏であることを明かされます。次に法華経では有情・非情ともに成仏することを示し、妙法蓮華経の五字がその文証であり、「妙法」が有情の成仏の、「蓮華」が非情の成仏の文証となると教えています。また、「草にも木にも成る仏」であり、「草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」と示し、「一念三千の法門をふりそそぎたるは大曼荼羅なり」と、御本尊こそ事の一念三千の当体であり、御本仏法の御生命をそのまま顕したものであることを教えられています。(御書を読むから引用)

 

通解する時に、よく出てきてわかりやすい言葉を、現代語にに変換しないでそのままにしておきます。

なり=ある、である。

云く=(いわく)=言う=言っている。

 

草木成仏口決 文永九年二月二十日 五十一歳御作
 与最蓮房日浄
 問うて云く、草木成仏とは有情非情の中どちらの成仏である。答えて云く、草木成仏とは非情の成仏なり、問うて云く、情非情共に今経に於て成仏するのか。答えて云く、そうだ。問うて云く、証文はどうなってる。答えて云く、妙法蓮華経がそれである。妙法とは有情の成仏なり(である)、蓮華とは非情の成仏なり、有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり、其の故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するのは死の成仏であり草木成仏なり。

止観の第一に「一色一香といえども中道でないものはない」とあり、妙楽がこの文を受けて「しかるに、(世人は)色香ともに中道であることを認めるが、無情が仏性を具えていると説くことは惑耳驚心す(耳を惑わし、心を驚かす」と言っている。

此の一色とは五色の中には何れの色ぞや、青・黄・赤・白・黒の五色を一色と釈せり・一とは法性【真如の一理のこと】である。爰(ここ)を以て妙楽は色香中道と釈し、天台大師も「無非中道」と言ったのである。一色一香の一は二三相対の一ではないのだ。中道法性をさして一と云うのである。要するに、この中道法性のうちには、十界の依正・森羅三千の諸法のすべて、そなえていないものはないのである。此の色香は草木成仏なり、是れ即ち蓮華の成仏なり、色香と蓮華とは言葉は・違っているけれども草木成仏の事である。

口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云とあるが、この意は草木にも成られる寿量品の釈尊をいうのである。経(寿量品)に云く「如来秘密神通之力」云云、法界は釈迦如来の御身でないものはない。

理の顕本は死を表し、妙法と顕(あらわ)る。事の顕本は生を表し、蓮華と顕る。理の顕本は死であり、有情をつかさどる。事の顕本は生にして非情をつかさどる、我等衆生のために依怙・依託なるは非情の蓮華がなっているのである。我等衆生の言語・音声・生の位には妙法が有情となっているのである。

我等の一身の上には有情非情が具足している。爪と髪とは非情なり・切るにもいたまず・其の外は有情なれば・切るにも痛み苦しむ。これらは一身所具の有情非情である。この有情・非情・十如是の因果の二法を具足している。衆生世間・五陰世間・国土世間、この三世間が有情非情である。
 一念三千の法門を振りすすいて立てた(完璧な形で顕わした)のが大曼荼羅である。当世の習いそこないの学者夢にもしらない法門である。天台・妙楽・伝教・内にはこの事を知っていたが、【外には弘められず】ただ「一色一香【も中道にあらざるものはない」とか、「無常に仏性があると説くのを聞いて、耳に惑い心に驚くのである」などとささやいて・南無妙法蓮華と云うべきを円頓止観と変えて弘められたのである。ゆえに草木成仏は死人の成仏をいう。これらの甚深の法門は知る人が少ない。所詮、妙法蓮華の元意を知らないところからくる迷いである。敢て忘失する事なかれ(わすれてはいけない)、恐恐謹言。
 二月二十日 日 蓮 花押
 最蓮房御返事

 

最後のところ、講義より:

最後に、結論して言えば草木成仏とは死者の成仏ということであると述べられている。有情の人身も、死後は非情の存在になる。その非情の成仏を説くのが草木成仏であるから、草木成仏は所詮、死んだ人が成仏することを説いていることになるのである。

そして本抄で明かされた草木成仏の深義について、世間の人、また他宗の人々は知らない。それは妙法蓮華経という仏法の根本義を知らないからであると仰せられている。