御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

祈祷経送状 1356頁 

文永十年正月二十八日、大聖人が52歳の時、佐渡一谷(さどいちのさわ)から最蓮房日浄に送られました。

 

病弱であった最蓮房が「息災延命」の祈祷法について質問したことに対して、法華経の要文をしたためた祈祷経を与え(祈祷抄)、その副状として最蓮房の質問に答えられたものです。

 

祈禱経送状 文永十年正月 五十二歳御作
 与最蓮房日浄
 御札の趣旨を委細(いさい=くわしく)承(うけたまわ)った。兼ては又(前々からも申し上げたが)末法に入つて法華経を持つ者は三類の強敵を受けるということは、面拝の時(お会いした時に)おおむね申しあげた。仏の金言である以上は不審を致すべきではなかろう。それゆえ、すなわち日蓮も此の法華経を信奉して後は、或は頭に傷を蒙り、或は打たれ、或は追われ、或は頸の座(斬首刑)に臨み、或は流罪されたりして、結局はこの佐渡の島まで遠流されたのである。
 どんな重罪の者でも現在だけ罪を科せられるものであるのに、日蓮は三世にわたる大難にあったように思われる。

その故は現在の大難は今の通りである。過去世の難は当世の諸人等がいうところによれば、如来在世における善星や倶伽利等の大悪人が重罪の残りの惑を滅失しないで、如来の滅後に生れてこのように仏法に敵対しているのだというのがこれである。

次に未来世の難をいえば、当世の諸人の輩が誹謗するには、この日蓮房は存生の時は種種の大難に遭い、死門に趣むくの時は(死に臨むときは)自身を自ら食し、死んだならば、必ず大阿鼻地獄に堕ちて、無辺の苦(際限のない苦)を受けるであろうということである。古より已来(昔から今に至るまで)世間また出世間の罪をうけた人は、貴賤・上下・持戒・毀戒・凡聖にわたって多くいるけれども、ただ、それは現在だけであったのに、日蓮は現在はいうまでもなく過去・未来に至るまで三世の大難を受けていることは、ただひとえに法華経のゆえである。日蓮の三世にわたる大難をもって法華経の三世にわたる御利益をお考えなさるがよい。過去久遠の昔から、未来永劫まで妙法蓮華経の三世の御利益は尽くすことができないのである。日蓮法華経の方人(かとうど=味方)を少ししただけでも、このような大難に遭っている。まして釈尊の世世・番番の(出世のたびに)法華経の味方をされてきたことを考えると、道理をもって言い尽くせないくらいである。そうであれば勧持品の内容は少しも廃(すた)れておらず、殊更殊更(とくにとくに)貴く思われる。
 一、御山籠の御志しの事、総じて末法折伏の修行に背くとはいっても、病者であられるうえに、天下の災・国土の難が大変盛んであるときは、我が身にあてて知らなければ、いかに申しあげても、国主は信じられないので、日蓮でさえ籠(こも)っていようと思うこともある。まして、あなたの状況であればそうであろう。たとえ山谷にこもったとしても御病気も治ってよい機会があれば身命を捨てて弘教されるがよい。

一、御依頼を受けた末法の行者の息災延命の祈禱の事について、別紙に一巻註し進らせ候(記して送ります)、毎日一遍、欠けることなく読誦されるように。

日蓮も信じ始め候し日より毎日此れ等の勘文を誦して仏や天に祈誓してきたことによって、種種の大難にあったけれども、法華経の功力、釈尊の金言が深重であるがゆえに今まで相違無くて候なり(無事であった)、それにつけても法華経の行者は信心に退転無く、身に詐親無く、一切法華経にその身を任せて金言の如く修行すれば、確かに後生は言うまでもなく、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布大願をも成就す可ることができよう。
 一、御状(お手紙)に十七歳で出家の後は妻子を帯せず肉を食せず等とあったことについて。権教を信じていた大謗法の時の事は何なる持戒の修行者であっても、法華経に背く謗法の罪のために、正法の破戒の大俗(まったくの俗人)よりも百千万倍劣っているのである。彼の謗法の比丘は持戒であるといっても無間地獄に堕ちるのである。正法の俗人は破戒なりと言っても成仏は疑いないからである。ただし今の御身は念仏等の権教を捨てて正法に帰依されたがゆえに持戒の中の清浄な聖人である。もっとも比丘となったからには権宗の人ですら尚そうあるべきである。いわんや正法の修行者はなおさらである。たとえ権宗の時の妻子であっても、このような大難に遇う時は振捨てて正法を弘通すべきであるところ、もとよりの聖人であるということは大変に素晴らしいことである。素晴らしいことである。相構え相構え(よくよく)今後も用心して夫妻等が寄ってきても、遠離して(遠ざけて)身に障りなく、国中の謗法をせめて、釈尊の化儀をたすけるべきである。なお今後は此の一巻の書を誦して仏や天に祈誓し、御弘通にはげまれるがよい。ただし此の書は弘通の志が有る人にとって意味があるのである。、此の経の行者であるからといって、器用でない者には左右無く(簡単に)之を授与してはならない。穴賢穴賢、恐恐謹言。
 文永十年癸酉正月二十八日 日 蓮 花押
 最蓮房御返事

 

最蓮房日浄は妻子を帯せず、肉も食べないという持戒の僧であるけれども、権教を修行して法華経に背いているならば、法華経を信じて、結婚したり肉食を好むような俗人であっても、その俗人の方が、百千万倍も成仏するということ。大俗というのはまったくの俗人ということだそうです。法華経の信者であればどんな法律を犯しても成仏するということではないですよ~。破戒とか持戒とかは仏法における戒律をたもっているか破るかってことですからね。必要のない説明だったかな~

赤字にしたところが有名ですね。現代語にしてるので、ちょっと変かな。御書本文はこれです。

其れに付いても法華経の行者は信心に退転無く、身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥(たしか)に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり。

信心に退転なく、身に詐親なく(偽り親しむことなく=誠実な行動をとり)一切法華経にその身をまかせて(御本尊を絶対と信じて確信の題目をあげ)、金言のごとく修行すれば(死身弘法の折伏をやりきっていけば)、来世のことはいうに及ばず、今世も息災延命して絶対的幸福境涯の大果報を受けるということです。

いざ出陣!

というように私的に解釈してみました。