御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

太田入道殿御返事 1009頁 54歳御作

別名を「業病能治事」という。

乗明が病気の時との報告に対し、経文を引いて、病気の原因に六つあることを明かし、第六の業病が最も治しがたく、中でも法華経誹謗の業病が最も重いことを明かされています。乗明の病気も謗法によるものだが、妙法を持っているので、病気を治して長寿を招くことは疑いないとして、病気平癒を強く祈るように信心を励まされています。

 

太田入道殿御返事 建治元年十一月 五十四歳御作

 貴札(あなたの手紙)を開いて拝見しました。御痛みの事一たびは歎き、二たびは悦んだ。維摩詰経に「その時に長者の維摩詰自らが念じた。寝込んで病床に伏そうと。その時に仏が文殊師利に告げられた。汝、維摩詰のところに見舞いに行き、病状を問いなさい、と」と記している。大涅槃経に云く「その時に如来は(中略)身に病がある姿を現じ、右脇を下にして臥したもう。彼の病人のようにされた」とある。法華経に「少く病み少く悩む」とある。摩訶止観の第八に「もし【維摩詰が】毘耶(びや=首都)梨城の自邸に倒れ伏し、病によって教えを説き起こしたと同じように、(中略)如来は入滅に寄せて常住を談じ、病に寄ってよって功力を説いた」とある。また「病の起る因縁を明すのに六種類ある。一には四大順ではない故に病む・二には飲食が節制されていない故に病む・三には坐禅が正しく調わない故に病む・四には鬼が便りを得る・五には魔の為すところ・六には業の起る故に病む」とある。

大涅槃経に「世に三人のその病を治し難き人がある。一には大乗を謗ず・二には五逆罪・三には一闡提。このような三つの病は・世の中でも極めて重い。」とある。また「今世に悪業を成就し、(中略)必ず地獄に堕ちるだろう。(中略)(仏・法・僧)の三宝を供養する故に地獄に堕ちずして現世に報を受く、いわゆる頭と目と背との痛み」とある。摩訶止観に「もし重罪があったら(中略)人の中で軽く償うのだ。これは悪業が謝せんと欲する故に病むのである」とある。

竜樹菩薩の大論に云く「問うていう。もしそうであれば華厳経乃至般若波羅蜜は秘密の法ではない。しかも法華経は秘密の法である、(中略)たとえば大薬師のよく毒を変じて薬とするようなものである」云云、天台はこの論をうけて「たとえば良医のよく毒を変じて薬とするようなもので、(中略)今経(法華経)の得記(記別を得ること)は即ちこれ毒を変じて薬とすることである。」と述べている。故に大智度論に云く「余経は秘密ではない、法華経を秘密となすのである。」云云、止観に云く「法華経はよく治す。また妙と称するのである。」とある。妙楽云く「治し難きを能く治す。ゆえに妙と称す」云云、大経に云く「その時に王舎大城の阿闍世王はその性質が悪く、(中略)父を殺害しおわって心に後悔の熱を生じた。心が後悔の熱に冒される故に、全身に瘡(きず=傷・悪性のできもの)を生じた。その瘡は臭くてきたなくて近寄ることができなかった。その時にその母は韋提希(いだいけ)という名であったが、種々の薬をもって、しかも王のために之をつけたが、その傷はいよいよ増して軽減することがなかった。アジャセ王は母に言った。このような瘡は心からでたものである。四大から起こったものではない。

もし衆生がよく治す者がいると言うならば、それは偽りであると言った。その時に世尊、即ち大悲導師は阿闍世王のために月愛三昧に入られた。三昧に入りおわったときに大光明を放った。その光は清凉であり、王の身に届いて王を照らすと身の瘡は即ち愈えたのである。」云云、平等大慧の妙法蓮華経の第七に云く「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり、若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」云云。
 以上の諸の経文を引いて、ここにあなたの御病を考えると六種の病の域を出ないその中の五病はしばらく之を置く。第六の業病、最も治し難い。また又業病に軽き有り、重き有りて、多少定まらず就中(なかんずく)法華経誹謗の業病が最第一である。

神農・黄帝華佗・扁鵲も手を拱(こまね)き、持水・流水・耆婆・維摩も口を閉じてしまった。ただし釈尊一仏だけが、妙法蓮華経の良薬に限つて之を治すことができる。法華経に上述のように説かれてある。大涅槃経に法華経を指して、「若し是の正法を毀謗するも、よく自ら改悔し、かえって正法に帰すること有れば、乃至此の正法を除いて更に救護することはできない。この故に正法に還帰すべし」云云、

 

荆谿(けいけい)大師の云く「大涅槃経に自ら法華経を指して究極の法としている」云云、又云く「人が地に倒れたとき、かえって地によって立ちあがるようなものである。故に正法を謗って地獄に堕ちても正法に帰依するならば、かえって邪法による堕地獄の罪を救うことになる」と述べている。

〈※ここで補足説明:邪の堕を接すというのは、正法誹謗によって地獄に堕ちても遂に正法を信受するならば、邪見によって悪に堕ちることをも包摂して、すべて救われることになる、という意味。〉

世親菩薩はもとは小乗の論師である。五天竺(インド)の大乗を制する為に五百部の小乗論を造る。後に無著(むじゃく)菩薩にあってたちまちに邪見をひるがえし、一時にこの罪を滅するが為に、無著に向って舌を切ろうとした。無著は止めて、云く「汝よその舌をもって大乗を讃歎せよ」と言った。世親菩薩たちまちに五百部の大乗論を造って小乗を打ち破った。また一つの願を立てた。

我一生の間、小乗を決して説かないと。そうして後、罪滅して弥勒の天に生まれた。馬鳴菩薩は東印度の人、付法蔵の第十三に列なっていた。もとは外道の長であった時、勒比丘と内外(仏教と外道)の邪正を論じたところ、その仏法の精髄を一言のもとに理解して、重科を止めるために、自ら頭を切ろうとした。

いわゆる我は我自信を敵にして地獄に堕とそう」といったところ、勒比丘は諫め止めて「汝、頭を切ってはいけない。その頭と口とをもって大乗を讃歎しなさい」と言った。馬鳴菩薩は急に起信論を造って外道と小乗を破った。これが月氏(インド)の大乗の初である。

嘉祥寺(かじょうじ)の吉蔵大師は漢土第一の名匠・三論宗の元祖である。呉の国の会稽山に独歩し(その学徳は無比に優れていて)慢心の幢(はたほこ)も最も高かった。天台大師に対して已今当の文を諍い、すぐその場で邪執をひるがえし、謗人・謗法の重罪を滅せんが為に、百余人の高徳を相語らい、智者大師を屈請して身を肉橋となして頭に両足を受け踏み台となした。七年の間・薪を採り水を汲み、自分の講を廃して、自分の門下の集いを解散し、慢心の幢(はたほこ)を倒さんが為に法華経を誦さなかった。

(天台)大師の滅後、隋帝のところに行って両足をいただき最高の敬意を表し、涙を流して別れを告げ、古い鏡に写っている自分の影を見て慎み辱めた。(これは正法を誹謗した自分の)業病を滅しようとして上述のように懺悔されたのである。

慎んで思うに、一仏乗の妙経(妙法蓮華経)は三聖の金言であって、已今当の明珠諸経の頂にある。経に云く「諸経の中に於て最も其の上に在り」又云く「法華最第一なり」伝教大師の云く「仏立宗(仏の立てた宗旨である)」云云。
 私は随分と大日経金剛頂経蘇悉地経等の諸の真言の経を考究してきたが、敢えて此の文の会通の明文が無い。ただ善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の曲解のようである。ここに知ることができる。釈尊・大日の本意は法華経こそ最上ということにあるのを知ったのである。しかし、日本の真言宗の元祖たる弘法・慈覚・智証等の三大師が入唐の時、善無畏・金剛智・不空等の三人の三蔵の邪義を慧果・法全等から受け継いで、帰朝した。そして法華経真言宗を弘通するに際して、已今当の三説を超過している一仏乗の法華経の明月を隠し、真言経の胎蔵界金剛界両界曼荼羅の螢火を顕し、その上法華経を罵詈して、「法華経は戯れの論であり、釈尊は無明の辺域である」等と言ったのである。これは自らを害する謬りであり、大日経は戯れの論であり、無明の辺域であると言っていることになる。彼らの本師が既に曲がっているのであるから、末葉の門下がまっすぐであるはずがない。源が濁れば流れは清くないとはこの事を言うのである。これによって日本の国は長い間、(謗法の)闇夜となり、扶桑の国は終に他国の霜に枯れようとしている。【他国から攻められ亡びようとしているということ】

 抑(そもそも)貴辺(あなた)は真言宗の正統の家筋の末流の一分ではないが、また、真言宗を檀那として支えた人の従者である。その身は邪法の家に住んで長い年が過ぎ、心は邪義に染みて月を重ねてきた。たとい大山は崩れ、たとい大海は乾いたとしてもこの罪は消えるのは難しい。しかしながら過去世の縁に誘われる所、また今生に仏の慈悲が薫る所、思いのほかに貧道の日蓮に出会い、今までの信仰を悔い改める心を起こしたゆえに、未来世の苦を償うために現在に軽い瘡が出てきているのである。

彼の阿闍世王の身の瘡は五逆罪と誹法の二罪の招く所である。仏が月愛三昧に入つて、その身を(慈悲の光で)照らされると悪瘡が忽に消え、三七日の短寿を延べて、四十年の尊い年齢を保ち、その間に千人の阿羅漢を要請して、釈尊一代の金言を書き顕し、正像末に流布したのである。この禅門(在家の男子で剃髪して仏門に入った者のこと=太田殿のこと)の悪瘡はただ謗法の罪科によるのである。あなたが所持している妙法は月愛に超過している。どうして軽瘡を治して長寿を招かないことがあろうか。この日蓮の言うような現証がなければ、あなたは声を発して「一切世間の眼である釈尊は大妄語の人であり、一仏乗、妙経は綺語(飾り立てた偽りの言葉の経典である。名を惜しまれるならば世尊は効験を顕し、法華守護を誓った諸々の賢人聖人はその誓いを破ることを恐れるならばすぐに来て護りなさい」と叫ばれるがよい。このように言っても、書面は言葉を尽くさない。言葉は心を尽くさない。様々な事柄はお目にかかったときに話すことにしたい。恐恐。
 十一月三日 日 蓮花押
 太田入道殿御返事