御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

唱法華題目抄 全1頁 新1頁 

文応元年(1260年)5月28日、鎌倉の松葉が谷の草庵で書かれた書。

内容は、ある人(念仏者)が予(よ=大聖人)に問うという問答形式で書かれている。

日興上人は十大部の一つと選定された。

御書全集の一番最初に載せられている。だからこの御書だけは以前の御書も新しい御書も同じ1頁から始まってます。でも他のは頁が変わりますね~

できるだけ両方の頁を書きましょうかね。

 

新しい御書全集で拝読してみましたが、結構読みやすいですし、わかりやすい気がします。

創価学会公式サイトの御書本文では、まだ古い御書の本文なのです。しかもうちの家には唱法華題目抄の講義が見つからず、まだ買ってなかったのかな。現代語訳にはしづらいので、また講義本探して手に入ったら完成させるつもりです。講義本があるかどうかを先に見とくべきでした。

ネットで探すと現代語訳を載せてる人いますね。何と法華講の人が現代語訳を載せてるのもありましたが・・・

 

とにかく、古い御書を出だしのところだけ載せておきますが、(結構長い御書なのでコピーするのもな~)新しい御書を皆さん買われたら読んでみてください。句読点があるとそれだけでも読みやすいですよ。ちょっとだけ句読点打ってみますね。

 

 

唱法華題目抄 文応元年五月 三十九歳御作
 於鎌倉名越
 ある人、予に問うて云わく、世間の道俗、させる法華経の文義を弁えずとも、一部・一巻・四要品・自我偈・一句等を受持し、あるいは自らもよみかき、もしは人をしてもよみかかせ、あるいは我とよみかかざれども経に向かい奉り合掌・礼拝をなし香華を供養し、あるいは上の如く行ずる事なき人も、他の行ずるを見てわずかに随喜の心ををこし、国中に此の経の弘まれる事を悦ばん、これ体のわずかの事によりて、世間の罪にも引かれず、彼の功徳に引かれて、小乗の初果の聖人の度度人天に生れてしかも悪道に堕ちざるがごとく、常に人天の生をうけ終に法華経を心得るものと成って、十方浄土にも往生し、またこの土においても即身成仏する事有るべきや、委細に之を聞かん、

答えて云わく、させる文義を弁えたる身にはあらざれども、法華経・涅槃経ならびに天台・妙楽の釈の心をもって推し量るに、かりそめにも法華経を信じていささかも謗を生ぜざらん人は、余の悪にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず。ただし、悪知識と申して、わずかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我らが機に叶い難き由を和らげ申さんを、誠と思って、法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて、一生さて法華経へ帰り入らざらん人は、悪道に堕つべきこともありなん。
 仰せについて疑わしきこと侍り。実にてや侍るらん、「法華経に説かれて候」とて智者の語らせ給いしは、「昔、三千塵点劫の当初、大通智勝仏と申す仏います。その仏の凡夫にていましける時、十六人の王子おわします。彼の父の王、仏にならせ給いて一代聖教を説き給いき。十六人の王子もまた出家して、その仏の御弟子とならせ給いけり。大通智勝仏、法華経を説き畢わらせ給いて定に入らせ給いしかば、十六人の王子の沙弥、その前にして、かわるがわる法華経を講じ給いけり。その所説を聴聞せし人、幾千万ということをしらず。当座に悟りをえし人は不退の位に入りにき。また法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり。その人々、当座・中間に不退の位に入らずして三千塵点劫をへたり。その間、またつぶさに六道四生に輪回し、今日、釈迦如来法華経を説き給うに、不退の位に入る。いわゆる舎利弗・目連・迦葉・阿難等これなり。なおなお信心薄き者は、当時も覚らずして未来無数劫を経べきか。知らず、我らも大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん。
 この結縁の衆をば、天台・妙楽は名字・観行の位にかないたる人なりと定め給えり。名字・観行の位は、一念三千の義理を弁え、十法成乗の観を凝らし、能く能く義理を弁えたる人なり。『一念随喜』『五十展転』と申すも、天台・妙楽の釈のごときは、皆、観行五品の初随喜の位と定め給えり。博地の凡夫のことにはあらず。
 しかるに、我らは末代の一字一句等の結縁の衆、一分の義理をも知らざらんは、あに無量の世界の塵点劫を経ざらんや。これひとえに、理深解微の故に、教は至って深く機は実に浅きがいたすところなり。ただ弥陀の名号のみを唱えて順次生に西方極楽世界に往生し、永く不退の無生忍を得て、阿弥陀如来・観音・勢至等の法華経を説き給わん時、聞いて悟りを得んにはしかじ。しかるに、弥陀の本願は、有智・無智、善人・悪人、持戒・破戒等をも択ばず、ただ一念唱うれば、臨終に必ず弥陀如来、本願の故に来迎し給う。
 これをもって思うに、この土にして法華経の結縁を捨てて浄土に往生せんとおもうは、億千世界の塵点を経ずして疾く法華経を悟らんがためなり。法華経の根機にあたわざる人の、この穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申さざるは、法華経の証は取り難く、極楽の業は定まらず、中間になりて、中々法華経をおろそかにする人にてやおわしますらん」と申し侍るはいかに。
 その上、只今承り候えば、わずかに法華経の結縁ばかりならば、三悪道に堕ちざるばかりにてこそ候え、六道の生死を出ずるにはあらず。念仏の法門は、なにと義理を知らざれども弥陀の名号を唱え奉れば浄土に往生する由を申すは、遥かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞こえ侍れ。
 答えて云わく、誠に仰せめでたき上、智者の御物語にて侍るなれば、さこそと存じ候えども、ただし、もし御物語のごとく侍らば、すこし不審なること侍り。
 大通結縁の者をあらあらうちあてがい申すには名字・観行の者とは釈せられて侍れども、正しくは名字即の位の者と定められ侍る上、退大取小の者とて、法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたりと見えたる上、正しく法華経を誹謗してこれを捨てし者なり。たとい義理を知るようなる者なりとも、謗法の人にあらん上は、三千塵点・無量塵点も経べく侍るか。「五十展転」「一念随喜」の人々

を観行初随喜の位の者と釈せられたるは、末代の我らが随喜等は彼の随喜の中には入るべからずと仰せ候か。これを「天台・妙楽、初随喜の位と釈せられたり」と申さるるほどにては、また名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか。
 詮ずるところ、仰せの御義を委しく案ずれば、おそれにては候えども、謗法の一分にやあらんずらん。その故は、法華経を我ら末代の機に叶い難き由を仰せ候は、末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無きことなりと仰せらるるにや。もし、さように侍らば、末代の一切衆生の中に、この御詞を聞いて、既に法華経を信ずる者も打ち捨てて、いまだ行ぜざる者も行ぜんと思うべからず。随喜の心も留め侍らば、謗法の分にやあるべかるらん。もし謗法の者に一切衆生なるならば、いかに念仏を申させ給うとも、御往生は不定にこそ侍らんずらめ。
 また、弥陀の名号を唱え極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは、いかなる経論を証拠としてこの心はつき給いけるやらん。正しくつよき証文候か。もしなくば、その義たのもしからず。
 前に申し候いつるがごとく、法華経を信じ侍るは、させる解なけれども三悪道には堕つべからず候。六道を出ずることは、一分のさとりなからん人は有り難く侍るか。ただし、悪知識に値って法華経随喜の心を云いやぶられて候わんは、力及ばざるか。
 また、仰せについて驚き覚え侍り。その故は、法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を智者申されしかば、さかと思い侍るところに、只今の仰せのごとくならば、弥陀の名号を唱うとも、法華経をいいうとむるとがによりて、往生をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るは、ゆゆしき大事にこそ侍れ。

(以上新版御書4頁まで 最後は23頁までありますが、長いのでカットします。)