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弁殿御消息(典籍依頼の事)
文永12年(ʼ75)3月10日 54歳 日昭
千観内供の五味義、盂蘭経の疏、玄義六の本末、御随身あるべく候。文句十、少輔殿御借用あるべし。恐々謹言。
1693ページ(243)
妙一尼御返事
文永10年(ʼ73)4月26日 52歳 妙一尼
滝王丸、これを遣使す。
昔、国王は、自身をもって床座となし、千歳の間、阿志仙に仕え奉り、妙法蓮華経の五字を習い持つ。今の釈尊これなり。今の施主・妙一比丘尼は、貧道の身を扶けんとて、小童に命じてこれを使わし、法華経の行者に仕え奉る。
彼は国王、これは卑賤。彼は国の畏れ無し、これは勅勘の身なり。これは末代の凡女、彼は上代の聖人なり。志既に彼に超過せり。来果何ぞ斉等ならざらんや、斉等ならざらんや。(青字の部分の現代語訳)=彼の人(釈尊)は国王であり、こちらは卑しい身です。彼の人は国に恐れるものは無く、こちらは国から処罰を受けた身です。そして、こちらは末代の凡夫の女性であり、彼の人ははるか昔の聖人です。あなたの志は、すでに彼の人を超えています。未来の果報がどうして同じでないことがあるでしょうか。同じでないことがあるでしょうか。 (2月号の大百蓮華より引用しました)
弁殿は今年は鎌倉に住し、衆生を教化するか。恐々謹言。
卯月二十六日 日蓮 花押
さじき
妙一尼御前
【解説】弁殿というのは日昭のこと。
さじきの尼と妙一尼が同一人物だとわかる御消息です。
1747ページ (267)
故阿仏房讃歎御書
弘安2年(ʼ79)3月以降 58歳以降 阿仏房の縁者
「方便もて涅槃を現ず。しかも実には滅度せず」ととかれて、八月十五夜の満月の雲にかくれておわするがごとく、いまだ滅し給わず候なれば、人こそ雲にへだてられてみまいらせず候とも、月は仏眼(ぶつげん)・仏耳(ぶつに)をもってきこしめし御らんあるらん。
その上、故阿仏房は「一心に仏を見たてまつらんと欲す」の者なり。あに、臨終の時、釈迦仏を見まいらせ候わざらん。その上。
【解説】阿仏房が死去するのは弘安2年3月21日、91歳の時。あて先は千日尼であろう。
信心を全うした阿仏房は一心に仏を見んと欲する人であったから、どうして臨終のときに釈迦仏に会えないことがあろうかと述べられています。
1343ページ(144)
富城入道殿御返事(十羅刹守護の事)
弘安3年(ʼ80)4月10日 59歳 富木常忍
鵝目一結、給び候い了わんぬ。
御志は挙げて法華経に申し候い了わんぬ。定めて十羅刹の御身を守護せんこと、疑いなく候か。さては尼御前の御事、おぼつかなく候由、申し伝えさせ給い候え。恐々謹言。
卯月十日 日蓮 花押
富城入道殿御返事
【解説】ご真筆では一枚目は漢文、二枚目は漢字仮名交じり文。
一枚目の冒頭「鵝目一結給候了 御志者挙」は大きな文字で書かれてあり、御供養に対する感謝の気持ちがよく表れている。最初の4文字は特に大きく、一文字の大きさが8センチ近くあるそうです。
2枚目には尼御前の病に対して、深く心配していることを伝えてほしいとの旨が述べられています。