別名を「現世果報御書」といいます。「春始書」「初春書」ともいいます。
時光の真心からの供養の功徳によって、時光自身が現世に大果報を得られるだけでなく、亡き父への追善になることを教えられています。
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南条殿御返事(現世果報の事)
建治2年(ʼ76)1月19日
はるのはじめの御つかい(新春早々の御使い)、自他申しこめまいらせ候(お互いにおめでたい)。さて、給わるところのすず(種々)の物のこと、もちい(餅)七十まい・酒ひとつつ・いもいちだ・河のり一紙袋・大根ふたつ・やまのいも七ほん等なり。
ねんごろ(真心)の御心ざしは、品々のものにあらわれている。法華経の第八の巻に云わく「願いは必ず叶い、また現世において、その福報を得るであろう」。また云わく「当に現世において現実の果報を得ることができる」等云々。天台大師云わく「天子の一言に虚言はない」。また云わく「法王虚しからず」等云々。
賢王となりぬれば、たとい身をほろぼせども嘘はつかない。まして、釈迦如来は、普明王とおわせし時は、班足王の館へ入られた。不妄語戒を持っておられた故である。かり王とおわせし時は、「実語少なき人と大妄語とは地獄に入る」と仰せられている。いまして、法華経と申すは、仏自らと「要ず当に真実を説く」と述べられた上、日月・衆星が並ぶように多宝仏、十方の諸仏が参集された座席で説かれたのである。法華経にそら事あるならば、なに事をか人信ずべき。
このような御経に一華一香をも供養する人は、過去に十万億の仏を供養する人なり。また釈迦如来の末法に、世の乱れている時に、王臣・万民、心を一にして一人の法華経の行者に迫害を加えている時、この行者、干ばつのわずかな水に魚のすみ、万人にかこまれたる鹿のごとくならん時、一人ありてとぶらわん人は、生身の教主釈尊を、一劫が間、三業相応して供養しまいらせたらんより、なお功徳が勝れていると説かれている。如来の金言は分明なり。日は赫々たり、月は明々たり。法華経の文字は、かくかくめいめいたり、めいめいかくかくたり。あきらかなる鏡にかおをうかべ、すめる水に月のうかべるがごとし。
しかるに、「また現世において、その福報を得ん」の勅宣、「当に現世において現の果報を得べし」の鳳詔、南条七郎次郎殿にかぎってむなしいことがあろうか。日は西よりいずる世の中になり、月は大地から出るような時であっても、仏の御言葉に虚言はないと定められている。これをもって推しはかるに、亡くなられた慈父の聖霊は、教主釈尊の御前にお出になり、檀那(南条殿)はまた、現世に大果報を招くことは疑いない。幸甚幸甚。
建治二年正月十九日 日蓮 花押
南条殿御返事
(御書講義録を参考に、わかりやすく書き直してみました。)