御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

立正安国論 17頁 (新版御書24頁)前半部分(33頁まで)

久しぶりに立正安国論を読もうと思います。昔、最初の1頁くらいを暗誦したことがあって、大好きな御書の一つなんですが、今回読むのが遅くなってしまいました。

昔から座談会で「現代版立正安国論」という脚本を作って落語みたいにやるか、あるいは二人で掛け合い漫才みたいにやるか・・・なんていうアイデアを自分ではもっていたのですが、なかなか実現できませんでした。誰かやってみる?

 

新版御書を写しました。そのままでわかるところが多いと思うのですが、読みながら難しそうなところを現代語訳に変えていこうと思います。明日からぼちぼち頑張ります。

現代語訳された立正安国論も本になっていますね。数年前に買ったものが家にあったので、こちらの方が昔発刊された分厚い講義録より現代語が自然なので、これを参考にぼちぼち現代語訳していこうと思います。

 

さっき京都南部で地震がありましたが、ここ枚方は大阪北部なので結構揺れましたが、震度3だったみたいです。夜中の地震は怖いですね。停電にならなくてよかったけど、懐中電灯の置き場を確認しておこう。

 

最近地震が多くなりました。夕方にまた京都南部で地震がありました。(4月3日夕方)

 

 

(002)

立正安国論

 文応元年(ʼ60)7月16日 39歳 北条時頼

 旅人がやって来て嘆いていうには、近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉疫癘があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛や馬が街中の道に倒れ、骸骨が路に満ちている。死んだ人は既に大半を超え、悲しまない者はあえて一人もいない。
 それゆえ、ある者は「利剣即是(利剣は即ちこれなり)」の文を専らにして西土教主の名を唱え、ある者は「衆病悉除(衆病ことごとく除こる)」の願を持って東方如来の経を誦し、ある者は「病即消滅、不老不死(病は即ち消滅して、不老不死ならん)」の詞(ことば)を信じて法華真実の妙文をあがめ、またある者は「七難即滅、七福即生(七難は即ち滅し、七福は即ち生ぜん)」の句を信じて百座百講の儀を調え、ある者は秘密真言の教に因って五瓶の水を灑ぎ、ある者は坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし、もしくは七鬼神の号を書して千門に貼ってみたり、あるいは五大力の形を図して万戸に掲げ、あるいは天神地祇(天の神・地の神)を拝んで四角四堺の祭祀(お祭り)を企て、あるいは万民百姓を哀れんで、国主・国宰が徳政を行っている。
 しかし、ただ憂慮を深くするだけであって、ますます飢饉・疫病にせめられ、物乞いをする人は至る所で目につき、死人が眼につかないことがない。ふせる屍(しかばね)は物見台となるくらいで、並べる死体は橋のように見える。

よくよく考えれば、二離璧を合わせ(太陽と月は光明らかに平常通り運行し)、五緯珠を連ねている(五つの大きな惑星も珠を連ねたように美しく輝いている)。三宝(仏法僧)も世に厳然とあり、百代目の天皇にまで至っていないのに、この世が早く衰えてしまい、仏の教えはどうして廃れてしまったのか。これいかなる禍いにより、これいかなる誤りによるのであろうか。

 主人がいう。ひとりでこのことを愁いて胸中で憤ってもどかしい思いをしていた。あなたが来て共に嘆いてくれるので、しばしば話をしようではないか。
 そもそも、出家して仏道修行をする者は、法によって成仏することを願っている。しかしながら、今、神術もかなわず仏の威徳も結果として現れない。今の世の状態を見ると、(一般大衆は)愚かで死後どうなるのかとの疑いを起こすばかりである。それゆえ、天を仰いで恨みを吞み、地面に伏して憂慮に沈むのである。
 微力ながらじっくりと考え、少しばかり経文を開いてみたところ、世の中は皆正しい教えに背き、人々はことごとく悪に帰依している。故に、善神は国を捨てて去ってしまい、聖人は所を辞して帰ってこない。その結果、魔来り、鬼来り、災起こり、難起こる。言わないわけにはいかない、恐れずにはいられない。

 旅人がいう。天下の災い、国中の難、私ひとりが嘆いているのではない、大衆が皆悲しんでいるのである。今蘭室に入るようにあなたのところに来て、初めてお話をお聞きしたが、神聖(善神・聖人)が辞去し災難が次々と起こるということは、いずれの経に出ているのか。その証拠を聞かせていただきたい。
 主人がいう。その教文は極めて多く、その証拠も数えきれないほどある。

金光明経にはこうある。「その国土において、この経が有るといえ、いまだかつて流布させたことがなく、捨離の心を生じて聴聞することも願わず、また供養・尊重・讃歎もしない。四部の衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)・持経の人(別しては日蓮大聖人)を見て、また尊重乃至供養することもない。ついに、我らおよびそのほかの無量の諸天に対して、この甚深の妙法を聞かせないようにしてしまい、甘露の味に背いて、正法の流れを失い、威光および勢力を失わせてしまう。悪趣を増長して人天(の楽しみ)を損減し、生死の河におちて(苦しみの世界に落ち込んで)、涅槃の路にそむかん(成仏の道から遠ざかる)。

 世尊よ、我ら四天王ならびに諸の眷属および薬叉等は、このような事を見て、その国土を捨てて守護する心さえなくなってしまうだろう。ただ我らのみこの王を捨て去るのではなく、必ず無量の国土を守護する諸大善神まで、すべて捨て去るということが起こる。

そして捨て去った以上は、その国にはまさに種々の災禍があって国王は地位を喪失するにちがいない。一切の民衆は、皆善良な心がなく、ただ拘束・殺害・対立紛争のみあって、たがいに讒言し、真実をまげて罪無きものにも罪をきせるだろう。疫病流行し、彗星が何度も出て、二つの太陽が並び現われ、月食が不規則に起こり、黒と白の二つ虹が不祥の相(不吉な前兆)を表し、星流れ地動き、井戸の中から声を発し、暴雨・悪風、時節にかかわらず吹きあれ、常に飢饉に遭って苗も成長せず、実も成らず、多く他方の怨賊が来て国内を侵掠し、人民は諸の苦悩を受け、土地に楽しむところがなくなってしまうだろう」已上。
 大集経に云わく「仏法本当に隠没してしまったので、鬚(ひげ)・髪(かみ)・爪(つめ)は皆長く、諸法(さまざまな教え)もまた忘れられてしまった。その時、虚空の中に大なる声あって大地を震わせ、一切皆あまねく動くことは、まるで水車が回転するようなものである。城壁破れ落ち下り、家屋はことごとく壊れてばらばらになり、樹林の根・枝・葉・華葉(花びら)・果実・薬効成分がなくなった。ただ浄居天を除いて、欲界のあらゆるところの七味三精気は損減してすっかりなくなってしまった。解脱のための諸の善い教えは、その時一切なくなった。

生じる果実の味わいは乏しく、おいしくない。あらゆる井戸・泉・池はすべて枯れ果てて、土地はことごとく塩をふき、大きくひび割れて丘や谷になってしまう。諸山皆ぼうぼうと燃え、天竜雨を降らさない。穀物の苗も皆枯れ死し、生ずるもの皆だめになって他の草も全く生えない。

空から土が降ってきて真っ暗闇となり、日月も明るさを失った。四方皆干ばつとなりさまざまな不吉な前兆が何度も現れる。

十不善業の道、貪・瞋・癡倍増して、衆生の、父母においてこれを観ること獐鹿のごとくならん。衆生および寿命・色力・威楽減じ、人天の楽を遠離し、みな悪道に堕ちん。かくのごとき不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊し、天人の道を損減し、諸天善神、王にして衆生を悲愍する者、この濁悪の国を棄ててみな余方に向かわん」已上。
 仁王経に云わく「国土乱れん時はまず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る。賊来って国を劫かし、百姓亡喪し、臣・君・太子・王子・百官、共に是非を生ぜん。天地に怪異あり。二十八宿・星道・日月、時を失い、度を失い、多く賊起こること有らん」。また云わく「我、今五眼もて明らかに三世を見るに、一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍うるによって帝王主となることを得たり。ここをもって、一切の聖人・羅漢、しかもために彼の国土の中に来生して大利益を作さん。もし王の福尽きん時は、一切の聖人、皆、ために捨て去らん。もし一切の聖人去らん時は、七難必ず起こらん」已上。
 薬師経に云わく「もし刹帝利・灌頂王等、災難起こらん時、いわゆる人衆疾疫の難、他国侵逼の難、自界叛逆の難、星宿変怪の難、日月薄蝕の難、非時風雨の難、過時不雨の難なり」已上。
 仁王経に云わく「大王よ。私が今教化するところには、百億の須弥山、百億の日月がある。一々の須弥山にそれぞれ四つの大陸がある。その南閻浮提に十六の大国、五百の中国、十千の小国がある。その国土の中に七つの畏るべき災難がある。一切の国王、これを災難となしているが、どのようなことを災難となすのか。日月が異変を起こし、時節逆行し、あるいは赤い日が出で、黒い日が出で、二・三・四・五の日が出で、あるいは日食が起こって光が無く、あるいは日輪一重、二・三・四・五重の輪が現ずるを第一の難とする。

 二十八宿が異変を起こし、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刀星・南斗・北斗・五つの惑星・一切の国主星・三公星・百官星、かくのごとき諸星、各々変現するを第二の難とする。

大火国を焼き、万姓焼尽せん。あるいは鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。かくのごとき変怪を第三の難とする。

大水が百姓(民衆)を漂流・没没させ、時節逆行して、冬雨り、夏雪ふり、冬時に雷電(雷・放電)辟礰(激しく盛んに雷鳴すること)がある。六月に氷・霜・雹を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らす。江河逆さまに流れ、山を浮かべ、石を流す。かくのごとき変の時を第四の難となす。

大風が万民百姓を吹き殺し、国土の山河・樹木、一時に滅没し、時節はずれの大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風が吹きまくる。このような異変を第五の難となす。

天地や国土が大旱魃のために渇ききり、天地も国土も猛烈に暑く、大気は燃え上がらんばかりで、百草みな枯れて、五穀実らず、土地は焼けただれて万姓は滅尽するであろう。かくのごとき変の時を第六の難となす。四方の賊来って国を侵し、内外の賊起こり、火賊・水賊・風賊・鬼賊あって民衆を荒乱し、刀兵の劫が起きるだろう。かくのごとき怪の時を第七の難となす」。

 大集経に云わく「もし国王がいて、無量世において施(布施)・戒(持戒)・慧(智慧)を修行しても、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護しないならば、このように種うるところの無量の善根はことごとく失われ、その国は当に三つのよからぬことがあるにちがいない。一には穀貴、二には兵革、三には疫病である。一切の善神ことごとくこれを捨離せば、その王が命令しても、人は随従することがない。常に隣国の侵略されるだろう。激しい火災が盛んに起こり、害をもたらす風雨が多く、激流が水かさを増して人民を押し流し、内外の親戚が共に反逆する。その王久しからずして当に重病に遇い、寿命が尽きた後、大地獄の中に生まれる。(中略)王のごとく、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官もまた同じようになるだろう」已上。

 さて、四経の経文はまことに明らかである。万人のうち誰が疑うだろうか。それなのに、眼を閉ざした輩、迷いとまどう人々は、みだりに邪説を信じて正しい教えを弁えない。故に、天下の人々は諸仏・衆経に対して捨離の心を生じ、擁護の志がない。よって、善神・聖人は、国を捨て所を去る。それで、悪鬼・外道が、災いを成し、難を起こすのである。

 旅人顔色を変えて怒っていう。後漢の明帝は金色に輝く人の夢を悟って白馬の教を得、上宮太子は守屋の反逆を処罰して寺塔を建立した。それ以来、上一人より下万民に至るまで、仏像を崇め経巻を一心に信仰している。そうであるから、叡山・南都・園城・東寺、四海一州・五畿七道、仏の経は星のごとく散りばめられ、寺院は雲のごとく建っている。鶖子(しゅうし=舎利弗)の一族は則ち鷲頭の月を観じ、鶴勒の流れはまた鶏足の風を伝う。誰か一代の教を軽んじ仏法僧の三宝の跡を断絶させているというのだろうか。もしその証拠があるならば、委しくその故を聞かせてもらおう。

  主人喩して言う。仏閣(ぶっかく)甍(いらか)を連ね(たくさんの寺院が棟を連ね)、経蔵(経典を納めた蔵)軒を並べ、僧は竹葦(ちくい)のごとく、侶は稲麻(とうま)に似て大勢いる。崇重(そうじゅう)年旧(としふ)り、尊貴日に新たなり。【民衆が寺院や僧侶を尊重するようになって年久しく、しかもこれらを尊ぶ民衆の信仰心は日に日にあらたである。】ただし、法師は諂曲(てんごく=心がひねくれていること)にして人の心を惑わしている。王や臣下は無知のため邪正をわきまえることがない。
 仁王経にこうある。「諸の悪比丘は、多く名利を求め、国王・太子・王子の前において、自ら破仏法の因縁や破国の因縁を説くだろう。その王は正邪を区別できず、この語を信聴し、横しまに法制を作って仏戒に依らず。これを破仏・破国の因縁となす」已上。
 涅槃経に云わく「菩薩は、悪象等においては心に恐怖なく、悪知識においては怖畏の心を生ず。悪象に殺されては三趣に至らず、悪友に殺されては必ず三悪道に堕ちるのである」已上。
 法華経に云わく「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、いまだ覚りをまだ得ていないのに得たといい、慢心は満ち満ちているでしょう。あるいは人里離れたところで修行する者で、粗末な衣を身にまとい、人が住んでいない場所にいて、自分は真の道を行じていると思って、人間を軽蔑する者がいるだろう。布施に執着して、在家の人々のために法を説いている。世間の人々から恭敬されるさまは、六通の羅漢のようである。(中略)常に大衆の中に在って私たちを非難しようとするからです。

国王・大臣・婆羅門・居士および余の比丘衆に向かって、私たちを誹謗し悪人であると説いて『これ邪見の人、外道の論議を説く』というだろう。世界全体が混乱する悪い時代には、多くの恐ろしいことがあるでしょう。悪鬼はその悪僧らの身に入って、我を罵詈・毀辱するだろう。濁世の悪比丘は、仏の方便、宜しきに随って説きたもうところの法を知らず、悪口を浴びせ顔をしかめるでしょう。私たちはしばしば追い出されるでしょう」已上。

 涅槃経にはこう書いている。「我涅槃して後、数えきれないほどの歳月が過ぎて、、四道の聖人(4段階の仏道修行上の悟りを得た聖人)も、ことごとくまた亡くなるだろう。正法が滅して後、像法の中において、当に僧があらわれる。見た目には戒律を持っているように見えるが少しばかり経典を読誦しては、布施として手に入れた飲食を貪りその身を養っている。袈裟を着ているといっても、まるで猟師が目を細めに見て行くがごとく、猫が鼠を狙っているようである。そして、いつもこの言葉を唱えている。『我、羅漢を得たり(仏の境地を得た)』と。外見には賢人・善人の姿を現わしているが、内面には激しい欲望を抱いている。啞法(あほう=無言の行)をしているバラモン等のようである。実際には沙門(出家修行者)ではないのに出家修行者の姿を現じ、誤った考えが旺盛で正しい教えを誹謗するだろう」已上。経文に即してこの世を見ると、誠にその通りである。悪侶を誡めないで、どうやって善事を成し遂げるというのであろう。

 客なお憤っていう。明王(聡明な君主・天皇・将軍など)は天地の道理に因って衆生を化導し、聖人は道理にかなうかどうかを見極めて世を治めている。世の中の僧侶は天下の人々が帰依している対象である。悪侶に対しては聡明な王は信じない。聖人でなければ賢哲は尊敬することはない。今、賢聖が尊重していることから、則ち竜や象にも例えられる立派な僧侶は軽んじてよいものではないとわかるのである。どうしてあなたはいい加減な妄言を吐いて、無用な誹謗を成し、誰人をもって悪比丘と謂うのであろうか。委細に聞こうと欲す。

 主人がいう。後鳥羽院の御宇に法然というものがいて選択集を作った。則ち一代の聖教を否定し、あまねく十方の衆生を迷わした。その選択に云わく「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨て正しく浄土に帰すると述べている文。初めに聖道門とは、これについて二つある。乃至(中略)これに準じてこれを思うに、応に密教の大乗経および実教の大乗経をも含まれる。しからば則ち、今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、これらの八家の意が、正しくここに在る。曇鸞法師、往生論註に云わく『謹んで竜樹菩薩の十住毘婆沙を案ずるに云わく、菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり』。この中、難行道とは、即ちこれ聖道門なり。易行道とは、即ちこれ浄土門なり。浄土宗の学者、まず、すべからくこの旨を知るべし。たとい先より聖道門を学ぶ人なりといえども、もし浄土門においてその志有らば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし」。
 また云わく「善導和尚、正・雑の二行を立てて、雑行を捨て正行に帰するの文。第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除いてより已外、大小乗・顕密の諸経において受持・読誦するを、ことごとく読誦雑行と名づく。第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除いてより已外、一切の諸の仏菩薩等および諸の世天等において礼拝・恭敬するを、ことごとく礼拝雑行と名づく。私に云わく、この文を見るに、すべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能くこれを思量せよ」。
 またこうある。「貞元入蔵録の中に、始めの大般若経六百巻より法常住経に終わるまでの顕密の大乗経、総じて六百三十七部二千八百八十三巻なり。皆すべからく『大乗を読誦す』の一句に摂むべし。当に知るべし。随他の前にはしばらく定散の門を開くといえども、随自の後には還って定散の門を閉ず。一たび開いてより以後永く閉じざるは、ただこれ念仏の一門のみなり」。

またこうある。「念仏の行者必ず三心を具足しなければならないの文。観無量寿経には次のようにある。同経の疏に云わく『問うていう。もし解行(法門の理解や修行)がおなじではなく誤ったものを交えている人等がいたとしよう。そのような浄土教以外の邪で異なった考えの人の批判を防ごう。あるいは道を少し行くこと一分二分にして、群賊等呼び返すとは、即ち別の理解・別の修行・悪見の人等に喩えているのである』。私に云わく、またこの中に一切の別解・別行・異学・異見等と言うは、これ聖道門を指す」已上。

 また最後結句の文に云わく「夫れ、速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正・雑の二行の中に、しばらく諸の雑行を抛って、選んで応に正行に帰すべし」已上。


 これに即して見てみると、曇鸞道綽・善導のあや誤った注釈を引いて、聖道門・浄土門、難行道・易行道の主旨を建てて、法華・真言、総じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸の仏菩薩およ+び諸の世天等をもって皆聖道・難行・雑行等に摂めて、あるいは捨て、あるいは閉じ、あるいは閣き、あるいは抛つ。この四字をもって多く一切を迷わし、あまつさえ、三国(インド・中国・日本)の立派な僧や十方の仏弟子を皆「群賊」と呼び、ののしらせた。近くは、依るところの浄土三部経の「ただ五逆と誹謗正法とのみを除く」の誓文に背き、遠くは、一代五時の肝心たる法華経の第二の「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば乃至その人は命終して、阿鼻獄に入らん」の誡文に迷う者である。
 ここにおいて、時代は末代に至っており、人は聖人ではない。各冥衢に容ってならびに直道を忘る。悲しいかな、瞳矇を樹てず。痛ましいかな、いたずらに邪信を催す。故に、上国王より下土民に至るまで、皆、経は浄土三部の外の経無く、仏は弥陀三尊の外の仏はないといえる。

よって、伝教・義真・慈覚・智証等、あるいは万里の波濤を渉って渡せしところの聖教、あるいは一朝の山川を廻って崇むるところの仏像、もしは高山のいただきに華界を建てて、もって安置し、もしは深谷の底に蓮宮(れんぐう)を起てて、崇めていた。釈迦・薬師の威光をがともに輝き、その功力を現当に施し、虚空・地蔵が人々を教化し、益を生後に被らしむ。故に、国主は郡郷を寄せて、もって灯燭を明るくし、地頭は田園を充てて、もって供養に備う。しかるに、法然の選択に依って、則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び、付嘱を抛って東方の如来を閣き、ただ四巻三部の経典のみを専らにして空しく一代五時の妙典を抛つ。ここをもって、弥陀の堂にあらざれば皆供仏の志を止め、念仏の者にあらざれば早く施僧の懐いを忘る。故に、仏堂零落して瓦松の煙老い、僧房荒廃して庭草の露深し。しかりといえども、各護惜の心を捨て、ならびに建立の思いを廃す。ここをもって、住持の聖僧行って帰らず、守護の善神去って来ることなし。これひとえに法然の選択に依るなり。
 悲しいかな、数十年の間、百千万の人、魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり。謗を好んで正を忘る。善神怒りをおこさないだろうか。円教を捨てて偏教を好む。悪鬼が便りを得まいだろうか。。
 しかず、彼の万祈を修せんよりは、この一凶を禁じるのに勝るものはない。
 旅人がとりわけ顔色を変えて怒っていう。我が根本の師である・釈迦が、浄土三部経を説きたまいてより以来、曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣いてひとえに西方の行を弘め、善導和尚は雑行を抛って専修を立て、恵心僧都は諸経の要文を集めて念仏の一つの修行を肝要とした。弥陀を貴重すること、誠にこのようなありさまである。また極楽往生の人は一体どれだけいるだろう。

 

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