御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

上野尼御前御返事 1575頁 新版御書1920頁 60歳御作

別名を「聖人御書」とも、「霊山再会の事」とも言います。

内容は尼御前が子息・五郎を亡くして、年が明けた正月に年賀の状と、故五郎の菩提を弔うための種種の御供養をたまわったことに対して、御供養を謝し、年始の言葉を述べられるとともに、故五郎の死を悼んで限りない同情を寄せられている。そして、、子は親にとって財(たから)であることも敵であることもあるが、故五郎は惜しんでもあまりある財であったと述べられ、しかしもうこの世では会うことはできない。唯一の道は信心に励んで成仏を遂げ、霊山浄土で行き会うことであると、尼御前の信心を激励されている。

 

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上野尼御前御返事(霊山再会の事)

 弘安4年(ʼ81)1月13日 60歳 上野尼

 聖人(すみざけ=清酒)ひとつつ・ひさげ【提子=鉉 (つる) と注ぎ口のある小鍋形の銚子 (ちょうし) 】十杯ほどか・十字(むしもち)百個・飴(あめ)ひとおけ二升か・柑子ひとこ・串柿十くし、すべて送っていただきました。
 春のはじめ、御喜びは花のごとくひらけ、月のように満ちておられるとのこと、うけたまわりました。
 そもそも、故五郎殿の御事こそ思い出されてなりません。散った花も咲こうとしているし、枯れた草も芽を出し始めております。故五郎殿もどうして同じように帰られないのでしょう。ああ、無常の花と草とのようならば、(柿本人麻呂=)人丸でなくとも花のもとをはなれないし、つないだ馬でなくとも草のもとをまさか去ることはないでしょうに。
 ある経文には、子はかたきであるととかれています。それも理由のあることでしょう。梟(ふくろう)と申すとりは母を食べます。破鏡(はけい)と申すけだものは父を害す(殺す)。あんろく山と申す人は史思明と申す子にころされた。義朝と申せし武士は為義と申すちちを殺した。子はかたきと申す経文も道理なのです。
 また、子は財と申す経文がある。妙荘厳王は、一期の後、無間大城という地獄へ堕ちるべきでありましたが、浄蔵という太子にすくわれて、大地獄の苦を免れただけでなく、娑羅樹王仏という仏になられました。青提女(しょうだいにょ)という女人は、慳貪のとがによって餓鬼道に堕ちていましたが、目連と申す子にたすけられて、餓鬼道を出ることができました。そうであるなら、子を財という経文も間違いではありません。
 故五郎殿は、とし十六歳。心根も容貌も、人にすぐれていた上、男の才能もそなわっていて、万人にほめられていただけでなく、おやの心に随うこと、水のうつわものにしたがい、かげの身にしたがうかのようでした。いえにてははしらとたのみ、道にてはつえのように思い。はこのたからもこの子のため、つかう所従もこれがため、「私が死んだならば、になわれて野辺へ行こう。死んだのち、おもいおくことはない」とふかく思われていたのに、否応もなく、先立ってしまったときに、「どうしたことか、どうしたことか。ゆめかまぼろしか。覚めるであろう、覚めるであろう」とおもえどもさめずして、としもまた改まってしまった。いつまで待ったらよいのかもわからない。ゆきあうべきところだけでもいい置いていたならば、羽はなくても天へも昇ろう。ふねなくとももろこし(中国)へもわたろう。大地のそこにいるときけば、どうして地をほらずにいられようかと思われているでしょう。
 やすやすとお会いになれる方法があります。釈迦仏を御使いとして、りょうぜん浄土へ参り会われるがよいでしょう。「もし法を聞くことがあるならば、ひとりとして成仏しないということはない」と申して、大地はさして外れることがあっても、日月が地に堕ちようとも、潮がみちひぬ世はあっても、花はなつに実にならなくとも、南無妙法蓮華経と唱える女人が、(いとおしいと)おもう子に会えないということはないととかれています。いそぎいそぎつとめさせ給え、つとめさせ給え。恐々謹言。
  正月十三日    日蓮 花押
 上野尼御前御返事

 

故五郎殿は、とし十六歳・・・のところからあと、最後まで。

こんなすごい言葉で励まされたら頑張るしかないじゃないですか。

ほんとに大聖人様のお手紙って、