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御義口伝 南無妙法蓮華経 全701頁 新984頁

南無妙法蓮華経
  御義口伝に云わく、「南無」とは梵語(古代インドの標準文章語)である。ここでは(漢語で意訳すると)「帰命」と云う。これには人と法がある。人とは釈尊に帰命することである。法とは法華経(南無妙法蓮華経)に帰命することである。

また云わく、

「帰」というのは迹門不変真如の理に帰するのである。

【大宇宙の本源力が南無妙法蓮華経であり、この本源に、帰することをいう。我が身も妙法の当体、宇宙も妙法それ自体である。われわれが妙法を唱える時、わが生命が宇宙の本源のリズムに合致するのである。これが不変真如の理に帰したことになる。】

「命」とは本門随縁真如の智に命(もと)づくことである。

【今度はその宇宙の本源力たる妙法蓮華経が現実生活の上に、生命活動の上に湧現してくるのである。その生命力、智慧が源泉となって、苦難、苦悩を打開し、人間革命、生活革命を成就してゆくのである。これが「隨縁真如の智に命(もと)づく」にあたるのである。】

「帰命」とは南無妙法蓮華経自体のことなのである。

【妙法は宇宙の大鉄則であり、大哲理であると同時に、旺盛なる生命力と、英知の源泉となるのである。】

釈に云わく「随縁・不変は、一念の寂・照なり」。

【隨縁真如の智といい、不変真如の理といい、別々に存在するものではけっしてない。同時に実在する法理なのである。一切万物の事象ことごとく、随縁不変をともに備えているものなのである。それが生命の実相であり、本質であり、妙法の実体なのである。】【一念とは色心不二の一念であり、一瞬の生命である。】【法華経の説く寂照は小乗教の説く寂滅とは根本的に相違があり、煩悩即菩提、生死即涅槃のことである。すなわち、妙法に照らされ九界の現実に遊戯していく人生である。】もっとわかりたいときは講義上p68を参照。

また「帰」とは我らが色法(肉体・物質)なり。「命」とは我らが心法(精神・心の働き)なり。色心不二(肉体と精神が不二であると説く生命哲学)を一極(最高唯一の哲学)というのである。

釈に云わく「一極に帰せしむるが故に仏乗と云う」。(南無妙法蓮華経に帰依することによって成仏の境涯を得る。)

 また云わく、南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語、「妙法蓮華経」は漢語である。梵漢共時(ぐじ)に南無妙法蓮華経というのである。
  また云わく、梵語には「薩達磨(サダルマ)・芬陀梨伽(フウダリキャ)・蘇多覧(ソタラン)」と云う。

ここには「妙法蓮華経」というのである。「薩」とは妙なり。「達磨」とは法なり。「芬陀梨伽」とは蓮華なり。「蘇多覧」とは経なり。九字は(八葉)九尊の仏体なり。九界即仏界の表示なり。

「妙」とは法性なり。「法」とは無明なり。無明・法性一体なるを妙法と云うなり。「蓮華」とは因果の二法なり。これまた因果一体なり。

【当体義抄文段に「因果俱時不思議の一法」と明かされている。九界仏界ともに一念の心法にある。ゆえに因果俱時不思議の一法というのである。たとえば、仏界の場合、「信心はこれ唱題の因、唱題はこれ信心の果」となる。このように因果はあるけれど、ともに刹那の一念の心法にあるがゆえに「因果俱時不思議の一法」と説かれているのです。これに対して、釈迦仏法の場合は因果異時であり、歴行修行による本果妙の仏法を説いている】

「経」とは一衆生の言語音声を経という。釈に云わく「声、仏事をなす。これを名づけて経となす」。あるいは三世常恒なるを経という。
  法界は妙法である。法界は蓮華である。法界は経である。蓮華とは八葉九尊の仏体である。能く能くこれを思いなさい。

 

 

<講義より>

講義の中に胸間の八葉蓮華の話が詳しくありました。

仏教では我々の胸の中に八葉の蓮華があると言われているが、これには二つの意味することがある。

一つは我々の生命それ自体が妙法蓮華経であること。

二つには、我々の生命自体が妙法蓮華経即当体蓮華であるということを、我々の肉体の中から見出したことである。つまり心臓と肺臓の一対の形があたかも蓮華に似ているので、胸間の八葉蓮華といっているのである。

これあたかも法蓮華と譬喩蓮華のごときもので、法蓮華に当たる当体蓮華は我々の生命それ自体であり、譬喩蓮華に当たる当体蓮華は心臓とそれを包んだ肺臓である。しかも胸間の八葉蓮華は白蓮華であるとされる。御本尊の題目のしたにある日蓮とは白蓮華をさしていると仰せである。大聖人の当体そのままが中央の御本尊であり、すなわち白蓮華なのである。また、日興上人も白蓮阿闍梨と名乗られている通り、白蓮華である。ゆえに末法下種の三宝は、われわれ衆生の胸間の八葉の白蓮華なのである。