御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝  序品七箇の大事 第一~第三 全709頁 新986頁

少しずつ御義口伝を読んでいきたいと思います。とりあえず今日は本文のみですが、難しいとこの現代語とか講義、感想も書いていこうと思っています。本格的には来週から書くつもりです。

決戦の日が今週日曜日なので題目もあげたいし、何人か取り残してるので、電話作戦もしたいのですが、色々魔が競いますね。今朝は頭が痛かったです。学会同志の健闘を祈ります。公明党大勝利も祈ります。公明党は色々批判も受けていますが、過大広告や宣伝は一切せずに、事実を述べているところが大好きです。悪いことをしたらすぐ辞めてもらうという生真面目なところも信頼できます。沢山実績があるのに実績をいちいち宣伝してない。その分、学会員が宣伝してあげてる。あと3日ですね。皆さん、最後まで頑張りましょう!

御義口伝巻上    日蓮所立。序品より涌出品に至る。  

 

 序品七箇の大事


第一 「如是我聞(かくのごときを我聞きき)」の事
  文句の一に云わく「『如是』とは、所聞の法体を挙ぐ。『我聞』とは、能持の人なり」。記の一に云わく「故に、始末の一経を所聞の体となす」。
  御義口伝に云わく、「所聞」の「聞」は、名字即なり。「法体」とは、南無妙法蓮華経なり。「能持」の「能」の字、これを思うべし。次に、記の一の「故に、始末の一経」の釈は、「始」とは序品なり、「末」とは普賢品なり。「法体」とは、心ということなり。法とは、諸法なり。諸法の心ということなり。諸法の心とは、妙法蓮華経なり。伝教云わく「法華経を讃むといえども、還って法華の心を死す」と。「死」の字に心を留めてこれを案ずべし。不信の人は「如是我聞」の「聞」にはあらず。法華経の行者は、「如是」の体を聞く人と云うべきなり。ここをもって文句の一に云わく「『如是』とは信順の辞なり。信ずれば則ち所聞の理会し、順ずれば則ち師資の道成ず」。詮ずるところ、日蓮等の類いをもって「如是我聞」の者と云うべきなり云々。


第二 「阿若憍陳如」の事
  疏の一に云わく「『憍陳如』は、姓なり。ここには『火器』と翻ず。婆羅門種なり。その先、火

に事う。これによって族に命づく。火に二義有り。照らすなり、焼くなり。照らせば即ち闇生ぜず、焼けば則ち物生ぜず。これは『不生』をもって姓となす」。
  御義口伝に云わく、「火」とは、法性の智火なり。火の二義とは、一つの「照らす」は、随縁真如の智なり。一つの「焼く」は、不変真如の理なり。「照」「焼」の二字は、本迹二門なり。さて、火の能作としては「照らす」「焼く」の二徳を具うる南無妙法蓮華経なり。
  今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉るは、生死の闇を照らし晴らして、涅槃の智火明了なり。生死即涅槃と開覚するを、「照らせば則ち闇生ぜず」とは云うなり。煩悩の薪を焼いて、菩提の慧火現前するなり。煩悩即菩提と開覚するを、「焼けば則ち物生ぜず」とは云うなり。ここをもってこれを案ずるに、「陳如」は我ら法華経の行者の煩悩即菩提・生死即涅槃を顕したり云々。


第三 「阿闍世王」の事
  文句の一に云わく「『阿闍世王』とは、未生怨と名づく」。また云わく「大経に云わく『阿闍世とは、未生怨と名づく』と」。また云わく「大経に云わく『阿闍は不生と名づけ、世とは怨と名づく』と」。
  御義口伝に云わく、日本国の一切衆生は「阿闍世王」なり。既に諸仏の父を殺し、法華経の母を害するなり。無量義経に云わく「諸仏の国王とこの経の夫人と和合して、共にこの菩薩の子を生ず」。謗法の人、今は母の胎内に処しながら法華の怨敵たり。あに「未生怨」にあらずや。その上、日本国当世は三類の強敵なり。「世者名怨(世とは怨と名づく)」の四字、心を留めてこれを案ずべし。

日蓮等の類い、この重罪を脱れたり。謗法の人々、法華経を信じ釈尊に帰し奉れば、何ぞ已前の殺父・殺母の重罪滅せざらんや。
  ただし、父母なりとも、法華経不信の者ならば、殺害すべきか。その故は、権教に愛を成す母、権教方便・真実を明らめざる父をば、殺害すべしと見えたり。よって、文句の二に云わく「観解とは、貪愛の母・無明の父これを害するが故に逆と称す。逆は、即ち順なり。非道を行じて、仏道に通達す」。「観解」とは、末法当今は題目の観解なるべし。子として父母を殺害するは「逆」なり。しかりといえども、法華経不信の父母を殺しては「順」となるなり。ここをもって「逆は、即ちこれ順なり」と釈せり。
  今、日蓮等の類いは、「阿闍世王」なり。その故は、南無妙法蓮華経の剣を取って、貪愛・無明の父母を害して、教主釈尊のごとく仏身を感得するなり。「貪愛の母」とは、勧持品の三類の中、第一の俗衆なり。「無明の父」とは、第二・第三の僧なり云々。