御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 南無妙法蓮華経

昔、会社にいたとき、社内で選挙を頼みまくって学会員だとばれたので、エレベーターの中で課長に聞かれました。

「南無妙法蓮華経の中に蓮華の花があるのはなんでや」と。

「課長!目の付け所がシャープです」とは言ってないですけど、(笑)

いくつか大事な意味があるのですが、私が答えたのは、因果俱時の話でした。「蓮華の花は咲いた時にすでに花の中に実ができているのです。原因と結果が同時にあるということを蓮華の花は表しているのです」と説明しました。普通、原因となることが起こって、時間差で結果があるものですが、仏法では原因の中にすでに結果があると言われています。課長は「ほぉ~因果俱時か」と感心してました。(おそらくね)

ほかにも蓮華には深い意味はあるのですが、当体蓮華とか、譬喩蓮華とか、長くなるので今回はこれくらいにしておきましょう。

ぼちぼち詳しく書きますよ。

 

とりあえず、南無妙法蓮華経から・・・・

御存知とは思いますが、御義口伝は日蓮大聖人が晩年に身延山において、法華経の要文の講義をされ、弟子の日興上人が筆録され、大聖人の御印可をいただき、後世に伝えられたものです。開目抄や観心本尊抄ほか数多くの重要御書もありますが、それらとは比較にならないくらい重要性があると言われております。日蓮大聖人の文底下種仏法がきわめて明確に説き尽くされているからです。

では、現代の人たちにわかりやすいように説明を書きながら進めたいと思います。

  御義口伝に云わく、「南無」とは梵語なり。梵語というのは古代インドのことばです。現代ではサンスクリットと呼ばれています。サンスクリットのナムを音訳、音を取って当てた字が南無なのです。だから南が無いってどういうことって突っ込まないこと)

ここには「帰命」と云う。(ここというのは漢土即ち、中国、そして日本のことです。南無の意味、意訳が帰命というのです)

※天台大師が釈されるには、「帰命とは、命をもって自ら帰す」つまり、「命を法華経にまいらせて仏になる」と大聖人は言われています。命がけで南無妙法蓮華経の信心をしろ、と。必死で祈り、折伏しろ、と。そういわれていると私は思います。

人法これ有り。(帰命する対象に人と法がある)

人とは釈尊に帰命し奉るなり。(ここでいう釈尊とは日蓮大聖人のことです)

法とは法華経に帰命し奉るなり。法華経とは南無妙法蓮華経のことです)

※人法一箇の御本尊に帰命することが真実の帰命なのです。御本尊の中心に南無妙法蓮華経日蓮と書いてある通り、これが人法一箇を表しているのです。

 

また云わく、「帰」と云うは迹門不変真如の理に帰するなり。迹門は諸法実相に約して十界互具・百界千如・一念三千の理を説き明かした永遠不変の真実の法理です。その理に帰するのが「帰」というのです。

「命」とは本門随縁真如の智に命(もと)づくなり。(今度は法華経本門の話で、「随縁真如の智」とは、縁に従って刻一刻と変化しゆく事象に対応した幸福への生命活動のことです。仏界を湧現することが随縁真如の智になります。一念三千を説き明かした本門は「随縁真如の智」なのです。宇宙森羅万象をの本源をあらわした御本尊は隨縁真如の智ともなり、不変真如の理ともなる)

「帰命」とは南無妙法蓮華経これなり。

釈に云わく(天台大師は釈して)「随縁・不変は、一念の寂・照なり」。(「随縁真如の智」と「不変真如の理」は一念(一瞬の生命)の静と動のをあらわしている。一念寂照とは妙法を意味している。無明と法性をともに含んだ一念。九界と仏界を含んだ一念であるといわれています)

また「帰」とは我らが色法なり。(色法とは物質・肉体)

「命」とは我らが心法なり。(心法とは精神・心の働き)

色心不二なるを一極と云うなり。(色心不二なる生命哲学こそ、最高、究極の哲学であるということを一極と言われている。究極の第哲理の根源である三大秘法の御本尊をさす。

釈に云わく「一極に帰せしむるが故に仏乗と云う」。一極とは永遠不変の最高無上の哲理。すなわち御本尊のこと。御本尊を受持・信心していくがゆえに仏になれるのである。  

また云わく、南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語、「妙法蓮華経」は漢語なり。梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり。
  また云わく、梵語には「薩達磨(サダルマ)・芬陀梨伽(フンダリキャ)・蘇多覧(ソタラン)」と云う。ここには「妙法蓮華経」と云うなり。「薩」とは妙なり。「達磨」とは法なり。「芬陀梨伽」とは蓮華なり。「蘇多覧」とは経なり。九字は九尊の仏体なり。(九字については二つ解釈があるのですが、サダルマ・プンダリーカ・スートラムを梵字で書いた時の九字、もしくは天台が音訳した九字を指すかのどちらかです)九界即仏界の表示なり。「妙」とは法性なり。(妙とは法性であり、悟りをあらわします)「法」とは無明なり。(無明は迷いをあらわします)

無明・法性一体なるを妙法と云うなり。(無明と法性が一体、つまり迷いと悟りが一つになってあらわされている言葉が妙法なのです。)

「蓮華」とは因果の二法なり。これまた因果一体なり。(因果俱時をいわれているところです。原因と結果が同時にあるのです。時間差で結果が起こるのではない)

「経」とは一衆生の言語音声を経と云うなり。釈に云わく「声、仏事をなす。これを名づけて経となす」。あるいは三世常恒なるを経と云うなり。経に二つの意味があると、いわれています。一切衆生の言語音声であり、生命が過去現在未来に永遠につながっていくことを経というのです。
  法界は妙法なり。法界は蓮華なり。法界は経なり。蓮華とは八葉九尊の仏体なり。

※分けて書かれていますが、法界は妙法蓮華経だということですね。そして私たちの体にある蓮華、つまり心臓と肺臓の一対があらわす胸間の八葉蓮華は、当体蓮華といわれています。生命それ自体が、我々自体が妙法蓮華の当体であることを、仏の生命が胸のうちにあると強く意識するようにいわれているわけです。

能く能くこれを思うべし已上。(以上のことをよくよく思索しなさいと言われています。)

 

感想:

説明がわかりやすかったかはわかりませんが、絶版となった御義口伝講義はちょっと時代的に言葉が古い感じがするので、私が勝手に書き換えてしまいました。講義を読んでもなかなかわからないところもあります。もっとわかりたい方や読みたい方はネットで昔の講義を探して手に入れられたらいいと思います。一緒に勉強する人が増えるとうれしいです。