<現代語訳・説明などは青字で書いています。※のところは特に詳しい説明です。>
御義口伝巻上 日蓮所立。序品より涌出品に至る。
序品七箇の大事
第一 「如是我聞(かくのごときを我聞きき)」の事
「如是我聞」はすべての経文の冒頭にあることばです。その上には、必ずその経文の真髄というべき題目があり、その題目をさして如是我聞(私はこう聞いた)と言っているのです。
文句の一に云わく「『如是』とは、所聞の法体を挙ぐ。天台大師の法華文句の第一巻にいわく「如是(かくのごとき)というのは、聞いたところの、その経文のすべて(法体)を挙げているのである。
※法体とは、その経文が全体として何を説かんとしているかを法体というのです。
法華経二十八品の法体は妙法蓮華経なのです。これは文にあらず、義にあらず、一経の心なりと(章安は)釈しています。ゆえに、南無妙法蓮華経は法華経の肝心であり、真髄であり、一切経の題目であり、骨髄なのです。
『我聞』とは、能持の人なり」。「私は聞いた」という人は(御本尊を)能く持つ人のことであると。
記の一に云わく「故に、始末の一経を所聞の体となす」。妙楽大師の法華文句の第一巻にいわく「故に最初の序品から最後の普賢経までの法華経一経全体を所聞の体とするのである。
御義口伝に云わく、「所聞」の「聞」は、名字即なり。大聖人が言われるには、文句に「所聞の法体」といっているが、所聞の聞とは名字即、即ち南無妙法蓮華経を信受する位を意味するのである。
「法体」とは、南無妙法蓮華経なり。「能持」の「能」の字、これを思うべし。法華経の法体とは南無妙法蓮華経である。能持の「能」の字に心を留めてよくよく考えなさい。
次に、記の一の「故に、始末の一経」の釈は、「始」とは序品なり、「末」とは普賢品なり。(略します)
「法体」とは、心ということなり。法とは、諸法なり。諸法の心ということなり。諸法の心とは、妙法蓮華経なり。(略)
伝教云わく「法華経を讃(ほ)むといえども、還って法華の心を死(ころ)す」と。伝教大師はいう。「法華経をほめたとしても、法華経の真意を知らなければ、かえって法華経の心を死(ころ)すことになるのである、」と。
「死」の字に心を留めてこれを案ずべし。「死」の字に心を留めてこれを考えるべきである。
不信の人は「如是我聞」の「聞」にはあらず。不信の人は「如是我聞」の「聞」ではない。※「聞」という字はただ「聞く」というのではなく、「信心」「信ずること」を意味するのです。
法華経の行者は、「如是」の体を聞く人と云うべきなり。法華経の行者は「如是の体」すなわち南無妙法蓮華経を信じ実践する人のことだというべきである。
ここをもって文句の一に云わく「『如是』とは信順の辞なり。ここをもって天台の文句の一には『如是』とは信順のことばである。
信ずれば則ち所聞の理会し、順ずれば則ち師資(しし・師弟=資はたすけという意味で弟子をさす)の道成ず」。信ずればすなわち所聞の理、すなわち一念三千の法理を会得できるのであり、順ずれば(素直に従い行動すれば)師弟の道を成じ、自らも仏界を現ずることができるのである」と。
詮ずるところ、日蓮等の類いをもって「如是我聞」の者と云うべきなり云々。所詮、日蓮大聖人およびその門下こそが、如是我聞の人というべきである。