御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 第七天鼓自然鳴(てんくじねんみょう)の事 713頁 新版御書991頁

本文がどう違うのか、比べてみたくて御書全集と新版御書を両方載せてみました。句読点がちゃんと入ってるので新版御書は読みやすくなっていますね。所々言葉も変えてありますね。だからって私たちがすぐ理解できるかというとそうでもないんですね。

 

御書全集713頁

第七天鼓自然鳴の事 疏に云く天鼓自然鳴は無問自説を表するなり。
御義口伝に云く此の文は此土・他土の瑞同じきことを頌(じゅ)して長出せり、無問自説とは釈迦如来妙法蓮華経を無問自説し給うなり、今日蓮等の類いは無問自説なり念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と喚ぶ事は無問自説なり三類の強敵来る事は此の故なり、天鼓とは南無妙法蓮華経なり自然とは無障碍なり鳴とは唱うる所の音声なり、一義に一切衆生の語言音声を自在に出すは無問自説なり自説とは獄卒の罪人を呵責する音・餓鬼飢饉の音声等・一切衆生の貪瞋癡の三毒の念念等を自説とは云うなり此の音声の体とは南無妙法蓮華経なり、本迹両門妙法蓮華経の五字は天鼓なり天とは第一義天なり自説とは自受用の説法なり、記の三に云く無問自説を表するとは方便の初に三昧より起つて舎利弗に告げ広く歎じ略して歎ず、此土他土言に寄せ言を絶す若は境若は智此乃ち一経の根本五時の要津なり此の事軽からずと、此釈に一経の根源五字の要津とは南無妙法蓮華経是なり云云。

 

新版御書991頁~992頁

第七 「天鼓自然鳴(天鼓は自然に鳴る)」の事
  疏(文句の第三)に云わく「『天鼓自然鳴(自然に鳴り)』は無問自説を表すなり」。

御義口伝に云わく、この文は此土(娑婆世界)・他土(他の国土)の瑞(瑞相)も同じくして長出せるを頌(じゅ)す(全く同じであることを説いたところである)。(「無問自説」とは、釈迦如来妙法蓮華経を無問自説した(誰からも問われず、自ら説いた)。今、日蓮等の類いは、無問自説である。「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と喚(叫=さけ)ぶことは、無問自説である。三類の強敵の競い起こるのは、この故である。「天鼓」とは、南無妙法蓮華経である。「自然」とは、無障礙(=自由自在の境涯をさす・さえぎるものがないということ)ということである。「鳴」とは、唱うるところの音声である。(※<講義より>南無妙法蓮華経という題目を唱えて人生を生きて行けば、その言々句々が鳴ということになるのである。)

 一義に(ある面から言えば)、一切衆生の語言音声を自在に出だすは「無問自説」である。「自説」とは、獄卒の罪人を呵責する音、餓鬼の飢饉の音声等、一切衆生の貪・瞋・癡の三毒の念々等を自説というのである。この音声の体とは、南無妙法蓮華経である。

 本迹両門の妙法蓮華経の五字は「天鼓」なり。「天」とは、第一義天なり。「自説」とは、自受用の説法なり。記の三に云わく「『無問自説を表す』とは、方便の初めに三昧より起(た)って舎利弗に告ぐ。広歎・略歎、此土・他土、寄言・絶言、もしは境、もしは智、これ乃ち一経の根本、五時の要津(ようしん)なり。このこと軽からず」。この(妙楽の)釈に「一経の根源、五時の要津(ようしん)」とあるのは、南無妙法蓮華経これなり云々(南無妙法蓮華経のことをさしているのである)