御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

顕立正意抄 536頁 新版御書638頁

 日蓮、去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日の大地震を見て、これを勘え定めて書ける立正安国論に云わく「薬師経の七難の内、五難たちまち起こり、二難なお残っている。いわゆる他国侵逼の難・自界叛逆の難である。大集経の三災の内、二災早く顕れ、一災いまだ起こっていない。いわゆる兵革の災である。金光明経の内の種々の災禍一々起こるといえども、他方の怨賊が国内を侵略するという、この災いまだあらわれていないし、この難いまだ来らず。仁王経の七難の内、六難今盛んにして、一難いまだ現ぜず。いわゆる、四方の賊来って国を侵すという難である。それだけではなく、『国土が乱れる時はまず鬼神が乱れる。鬼神乱るるが故に万民乱る』と。今この文に基づいて詳しく現在の状況を考えてみると、百鬼は早く乱れ、万民は多く亡くなっている。先の難はこれ明らかに起こっており、後の災が起こることは何ぞ疑わん(まったく疑う余地がない)。もし残るところの難が、悪法の罪によって並び起こり競い来るならば、その時どうするのか。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。しかるに、他方の賊来ってこの国を侵逼し、自界叛逆が起こって、領地を奪い取られたならば、どうして驚かずにいられようか。どうして騒がずにおられようか。国を失い家を滅ぼされたなら、いずれの所にか世を遁(のが)れん」等云々〈已上、立正安国論の言なり〉。
 今、日蓮重ねて記していうには、大覚世尊は記して云わく「『苦得外道は、七日有って死すべし。死して後、食吐鬼(じきとき=食吐餓鬼=じきとがき)に生まれん』(と予言した)。苦得外道は『七日の内には死すべからず。我、羅漢を得ん。餓鬼道には生まれない』等」と言った。。瞻婆城(せんばじょう)の長者の婦(夫人)が懐妊したとき、六師外道は「女子が生まれるだろう」と予言した。仏は記して云わく「男子に生まれるだろう」等と予言した。仏記して云わく「却(さ)って後三月あって(今から3月後に)、我は当に般涅槃するであろう」等云々。一切の外道云わく「これ妄語なり」等云々。仏記のごとく、二月十五日に般涅槃された。


 法華経の第二の巻、譬喩品第三には「舎利弗よ。汝は未来世において、無量無辺不可思議劫を過ぎて、乃至(中略)、当に作仏することを得るであろう。号(な)づけて華光如来というであろう」等云々と説かれている。また第三の巻(授記品第六)には「我がこの弟子・摩訶迦葉は、未来世において、当に三百万億の仏を見奉るであろう。乃至(中略)最後身において、成じて仏となることを得る。名づけて光明如来というであろう」等と説かれている。また第四の巻には「また如来滅度するの後に、もし人有って妙法華経の乃至一偈一句を聞いて、一念も随喜すれば、我はまたために阿耨多羅三藐三菩提の記(無上等正覚の記別)を授与する」等と説かれている。


 これらの経文は、仏が未来世の事を予言されたものであるが、上に挙げたところの苦得外道等の三事が符合しなければ、誰が仏語を信じるだろうか。たとい多宝仏証明を加え、分身の諸仏長舌を梵天に付けたとしても、信用し難いであろう。


 今また同じである。たとい日蓮富楼那の弁をふるい、目連の神通力を現じたとしても、勘え述べたところが当たらなければ、誰がこれを信じようか。去ぬる文永五年に蒙古国の牒状が我が朝庭に渡来したときに、賢人がいたならば、これを怪しんだであろう。たといそれを信じなくても、去ぬる文永八年九月十二日御勘気を蒙りしの時、吐くところの強言(強く言った予言)は、次の年二月十一日に符合した。

心あらん者はこれを信ずべきである。ましてや、今年既に彼の国(蒙古の国)が兵をもって攻めてきて、(壱岐対馬の)二箇国を奪い取った。たとい木石であっても、たとい禽獣であっても、感じ驚くであろう。ひとえに只事ではない。天魔が国に入って、酔えるがごとく、狂えるがごとし。歎くべし、哀れむべし、恐るべし、厭うべし。


 また立正安国論に云わく「もし執心(執着の心)が翻らずに、また曲意(曲がった意=こころ)でいるならば、早く有為の郷を辞して(この世を去って)必ず無間の獄に堕ちるであろう」等云々。今予言が符合したことから未来を考えてみるのに、日本国の上下万人が、阿鼻大城に堕ちんことは、大地を的とするようなものである。


 これらはひとまず置く日蓮が弟子等もまた、この大難は脱れ難いであろう。彼の不軽菩薩を軽毀した衆は、現身に(生きている間に)信伏随従したが、なお先に行った謗法がの強かったため、まず阿鼻大城に堕ちて千劫を経歴して大苦悩を受けている。今、日蓮が弟子等もまた同じである。あるいは信じ、あるいは伏し、あるいは随い、あるいは従うとしても、ただ名のみで、心に染め抜いていない信心薄き者は、たとえ千劫を経ずとも、あるいは一無間、あるいは二無間、乃至十百無間大城に堕ちることは疑いないであろう。
 これを免れようと思うならば、各々、薬王・楽法のごとく、臂(ひじ)を焼き、皮を剝(は)ぎ、雪山・国王等のごとく、身を投げ、心を仕えよ。もししからずんば、五体を地に投げ、遍身に汗を流せ。もししからずんば、珍宝をもって仏前に積め。もししからずんば、奴婢となって持者に奉えよ。もししからずんば等云々。※四悉檀をもって時に適うのみ(時に適った修行をすべきである)。我が弟子等の中にも信心薄淡(うす=薄)き者は、臨終の時、阿鼻獄の相を現ずべし。その時、我を恨むべからず等云々。
  文永十一年太歳甲戌十二月十五日    日蓮これを記す。

 

※四悉檀:仏が衆生を導いて悟りに入らせるための4種類の説法のこと。