御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

立正観抄 全集527頁 新版641頁

あまり聞いたことのない御書かもしれません。私はあまり知らなかったです。何回か読んでるはずだけど、インパクトのある言葉が思い出せない。

問答形式ですね。禅宗の破折が多いです。今回は現代語に訳してないです。

 

文永11年、大聖人が53歳の時、身延から最蓮房日浄に与えられた書。

日蓮大聖人は標題として「法華止観同異決」と記したとされるところから、法華経と摩訶止観とを比較し、類似点と違いについて述べ、勝劣を決するために書かれたものであることがわかる。当時、天台宗では天台の摩訶止観は法華経より勝れていると主張する者が多くいた。天台僧が禅宗の影響を受けて観心の修行を重んじ、法華経を軽んじていたことが背景にあって、それについての最蓮房日浄の質問に答えられたものである。

 

<要約>

観心の修行を立てて法華経の本迹二門を捨てるものもいるが、その観心修行というのは天台の一心三観・一念三千をさすのか、それとも禅宗の観心なのか。もし禅宗の観心というなら、これには教禅と祖師禅がある。教禅なら爾前教をもとにした禅であり、祖師禅なら天魔の禅である。天台大師の摩訶止観・一心三観によるというなら、止観は法華経をもとにして成り立っているのだから、法華経に背いた観なら大謗法である。摩訶止観は法華経によって得られた己心証得の止観のことである。天台は「己心の中に行ずる所の法門を説く」といっているから、法華経によっていないという疑難に対しては多くの文証がある。

 また、天台が止観で観心釈に至って本迹の迹を捨てたという疑難に対しては、本迹を捨てよと法華経のどの文にあるのか反問しなさい。天台はの「迹門の大教が興れば爾前の大教が亡ぶ。本門の大教が興れば迹門の大教が亡ぶ。観心の大教が興れば本門の大教が亡ぶ」と釈しているが、その本意は像法の修行は迹門では広すぎ本門では高すぎるので、ただただ己心の法を観ぜよということにあるのであって、妙法を捨て よとは決していっていない。

法華経と止観の勝劣は以下の四点で明らかである。一に天台が大蘇道場で証得した己証の法門で、法華経釈尊菩提樹の下で悟りを得た大法である。二に、釈尊は仏、天台は初住位にも登っていない凡夫である。三に、法華経釈尊の出世の本懐であるが、止観は天台の己証にすぎない。四に、法華経は多宝仏・分身諸仏の証明がある真実の経である。

また、法華経は実であるから、修行の位が低い者でも対象とするが、止観は位が高い上機のものでないと修行できない。結局、天台は霊山の説法の場にいたが、時が至ってなかったので、妙法の名をかえて止観といったのである。

さて、天台の止観・一心三眼より勝れている法とは法華経である。一心三眼は修行としての観心門であるのに対して、妙法はその修行によって顕現されるところの功徳だからである。また、一心三観は天台の思慮の及ぶところで、可思議の法門であり、諸仏の知見にすぎないが、この妙法は諸仏の師であり、不可思議の法門である。

では、天台は妙法を知らなかったのかというと、知ってはいたが内に秘して外には三観といって一念三千を説いたのである。その理由は時が至らず、付嘱がなく、迹化であったからである。所詮、一心三観は妙法を成就するための修行の方法なのである。

 天台宗の者たちは、法華経の教えが迹門と本門に未だ分かれていないときの仏の悟りである念慮のない止観を最秘の大法だというが、これはとんでもない邪義僻見である。このような考えは禅宗の教外別伝の禅観と同じであり、まことに哀れとしかいいようがない。天台・伝教の己心中の秘法は一言に限るのに、今の天台宗は血脈相承を習い失って、自分勝手な一心三観の血脈を立てて我意に任せて書を造り、錦の袋に入れたり、相承箱に埋め込んで高く売りつけているのは、まさに天台仏法の破滅である。

天台の観法を考え詰めれば、大蘇道場で証得した時以来、目を開いて妙法を思えば随縁真如、目を閉じて妙法を思えば不変真如であり、両者の真如はただ一言の妙法にあるのである。妙法を唱える時、釈尊一代の経はこの一言に含まれるのである。迹門では広すぎ、本門では高すぎるので、ただ、己心の妙法を観ずるのがもっとも良いと考えた天台の本意がわかっていないから、止観は法華経にすぐれ、禅は止観にすぐれるなどという。禅が経は月を指す指で、禅だけが一人妙であるなどというのは天魔の所為で、与えていえば方便権教であり、小乗三蔵教であるが、奪って言えば外道の邪法である。与は当分、一往の義、奪は法華経の立場からの義である。奪の義をもって禅は天魔外道というのである。

    (日蓮大聖人の「御書」を読む 上 268頁~279頁より)

最近は御書新版を載せていますが、御書全集に比べるとかなり読みやすくなっているので、現代語に変えなくていいかなと思ってしまいました。わかりにくそうなところだけ現代語にしていきたいと思っています。年末で忙しいのでなかなか進みませんが・・・

 

 

(042)

立正観抄

 文永11年(ʼ74) 53歳 最蓮房

    法華止観同異決    日蓮撰す。
 当世、天台の教法を習学するの輩、多く観心修行を貴んで法華本迹二門を捨てていると見える。
 今問うていうには、そもそも観心修行と言うのは、天台大師の摩訶止観の「己心の中に行ずるところの法門を説く」の一心三観・一念三千の観に依るか、はたまた世に流布せる達磨の禅観に依るか。
 もし達磨の禅観に依らば、教禅ならば未顕真実・妄語・方便の禅観なり。法華経の妙禅の時には「正直に方便を捨つ」と捨てらるる禅なり。祖師・達磨禅ならば教外別伝の天魔の禅なり。共にこれ無得道、妄語の禅なり。よってこれを用いるべからず。
 もし天台の止観の一心三観に依るというならば、止観一部の廃立、天台の本意に背くべからざるなり。もし止観修行の観心に依らば、法華経に背くべからず。止観一部は法華経に依って建立す。一心三観の修行は、妙法の不可得なるを感得せんがためなり。故に知んぬ、法華経を捨ててただ観のみを取って正となすの輩は、大謗法・大邪見・天魔の所為なることを。その故は、天台の一心三観とは、法華経に依って三昧開発するを、己心証得の止観と云うが故なり。

 問う。天台大師の止観一部、ならびに一念三千・一心三観・己心証得の妙観は、しかしながら法華経に依るという証拠、いかん。
 答う。予、反詰して云わく、法華経に依らずと見えたる証文、いかん。
 人これを出だして云わく「この止観は、天台智者、己心の中に行ずるところの法門を説く」。あるいはまた、「故に、止観の『正しく観法を明かす』に至って、ならびに三千をもって指南となす。乃ちこれ終窮究竟の極説なり。故に、序の中に『己心の中に行ずるところの法門を説く』と云えり。良に以有るなり」文。
 難じて云わく、この文は全く法華経に依らずという文にあらず。既に「己心の中に行ずるところの法門を説く」と云うが故なり。天台の行ずるところの法門は法華経なるが故に、この意は、法華経に依ると見えたる証文なり。
 ただし、他宗に対するの時は、問答は大綱を存すべきなり。いわゆる、云うべし「もし天台の止観は法華経に依らずといわば、速やかに捨つべきなり」と。その故は、天台大師、兼ねて約束して云わく「修多羅と合わば、録してこれを用いる。文無く義無ければ信受すべからず」云々。伝教大師云わく「仏説に依憑せよ。口伝を信ずることなかれ」文。竜樹、大論に云わく「修多羅に依るは白論なり。修多羅に依らざるは黒論なり」文。教主釈尊云わく「法に依って人に依らざれ」文。天台は、法華経に依り竜樹を高祖にしながら、経文に違し、我が言を翻して、外道・邪見の法に依って止観一部を釈すること、全く有るべからざるなり。

問う。正しく止観は法華経に依ると見えたる文、これ有りや。
 答う。余りに多きが故に、少々これを出ださん。止観に云わく「漸と不定とは、置いて論ぜず。今、経に依ってさらに円頓を明かさん」文。弘決に云わく「法華経の旨を攢めて、不思議の十乗十境、待絶滅絶の寂照の行を成ず」文。止観大意に云わく「今家の教門は、竜樹をもって始祖となす。慧文はただ内観を列ぬるのみ。南岳・天台に洎んで、また法華三昧に因って陀羅尼を発し、義門を開拓して、観法周備す○もし法華を釈するには、いよいよすべからく権実・本迹を暁了すべし。方に行を立つべし。この経独り妙と称することを得。方にこれに依って、もって観道を立つべし。五方便および十乗軌行と言うは、即ち円頓止観、全く法華に依る。円頓止観は即ち法華三昧の異名なるのみ」文。文句記に云わく「観と経と合えば、他の宝を数うるにあらず。方に知んぬ、止観一部はこれ法華三昧の筌罤なり。もしこの意を得ば、方に経旨に会す」云々。唐土の人師・行満の釈せる学天台宗法門大意に云わく「摩訶止観一部の大意は、法華三昧の異名を出でず。経に依って観を修す」文。これらの文証分明なり。誰かこれを論ぜん。
 問う。天台、四種の釈を作るの時、観心の釈に至って本迹の釈を捨つと見えたり。また「法華経は漸機のためにこれを説き、止観は直達の機のためにこれを説く」と、いかん。
 答う。漸機のために劣を説き、頓機のために勝を説くならば、今の天台宗の意は、華厳・真言等の経は法華経に勝れたりと云うべきや。今の天台宗の浅ましさは、真言は事理俱密の教えなるが故に法華経に勝れたりと謂えり。故に、止観は法華に勝ると云えるも、道理なり、道理なり。

次に、「観心の釈の時、本迹を捨つ」という難は、法華経のいずれの文にか人師の釈を本となして仏の教えを捨てよと見えたるや。たとい天台の釈なりとも、釈尊の金言に背き法華経に背かば、全くこれを用いるべからざるなり。「法に依って人に依らざれ」の故に。竜樹・天台・伝教、元よりの御約束なるが故なり。その上、天台の釈の意は、「迹の大教起これば爾前の大教亡び、本の大教興れば迹の大教亡び、観心の大教興れば本の大教亡ぶ」と釈するは、本体の本法をば妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時、今像法の修行は観心の修行を詮となすに、「迹を尋ぬれば迹広く、本を尋ぬれば本高くして極むべからず。故に、末学は機に叶い難し。ただ己心の妙法のみを観ぜよ」という釈なり。しかりといえども、「妙法を捨てよ」とは全く釈せざるなり。もし妙法を捨てば、何ものをか己心となして観ずべきや。如意宝珠を捨てて、瓦石を取って宝となすべきか。悲しいかな、当世天台宗の学者は、念仏・真言禅宗等に同意するが故に、天台の教釈を習い失って、法華経に背き、大謗法の罪を得るなり。
 もし止観は法華経に勝ると云わば、種々の過これ有り。止観は天台の道場所得の己証なり。法華経釈尊の道場所得の大法なり〈これ一〉。釈尊は妙覚果満の仏なり。天台は、住前にしていまだ証せざれば、名字・観行・相似には過ぐべからず。四十二重の劣なり〈これ二〉。法華経釈尊乃至諸仏出世の本懐なり。止観は天台出世の己証なり〈これ三〉。法華経は多宝の証明あり。来集の分身は広長舌を大梵天に付く。「皆これ真実なり」の大白法なり。止観は天台の説法なり〈これ四〉。かくのごとき等の種々の相違これ有れども、なおこれを略するなり。

また一つの問答に云わく、所被の機、上機なるが故に勝ると云わば、実を捨てて権を取れ。天台云わく「教いよいよ権なれば位いよいよ高し」と釈し給うが故なり。所被の機、下劣なるが故に劣ると云わば、権を捨てて実を取れ。天台、釈して云わく「教いよいよ実なれば位いよいよ下し」と云うが故なり。しかれども、止観は上機のためにこれを説き、法華は下機のためにこれを説くと云わば、止観は法華に劣れるが故に機を高く説くと聞こえたり。実にさもや有るらん。
 天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうといえども、時至らざるが故に、妙法の名字を替えて止観と号す。迹化の衆なるが故に、本化の付嘱を弘め給わず。正直の妙法を止観と説きまぎらかすが故に、ありのままの妙法ならざれば、帯権の法に似たり。故に知んぬ、天台弘通の所化の機は、在世帯権の円機のごとし。本化弘通の所化の機は、法華本門の直機なり。
 「止観・法華は全く体同じ」と云わん、なお人師の釈をもって仏説に同ずる失、はなはだ重きなり。いかにいわんや、「止観は法華経に勝る」という邪義を申し出だすは、ただこれ本化の弘経と迹化の弘通と、像法と末法と、迹門の付嘱と本門の付嘱とを、末法の行者に云い顕させんがための仏天の御計らいなり。ここに知んぬ、当世天台宗の中にこの義を云う人は、祖師・天台のためには不知恩の人なり。あにその過を免れんや。
 夫れ、天台大師は、昔霊山に在っては薬王と名づけ、今漢土に在っては天台と名づけ、日本国の中にては伝教と名づく。三世の弘通はともに妙法と名づく。かくのごとく法華経を弘通し給う人は、在世の釈尊より外は、三国にその名を聞かず。有り難く御坐します大師を、その末学、その教釈を悪しく習って、失無き天台に失を懸けたてまつる。あに大罪にあらずや。
 今問う。天台の本意はいかなる法ぞや。
 碩学等云わく、一心三観これなりと。
 今云わく、一実円満の一心三観とは、誠に甚深なるに似たれども、なおもって行者修行の方法なり。三観とは因の義なるが故なり。慈覚大師、釈して云わく「三観とは、法体を得せしめんがための修観なり」云々。伝教大師云わく「今、止観修行とは、法華の妙果を成ぜんがためなり」云々。故に知んぬ、一心三観とは、果地・果徳の法門を成ぜんがための能観の心なることを。いかにいわんや、三観とは言説に出でたる法なるが故に、如来の果地・果徳の妙法に対すれば、可思議の三観なり。
 問う。一心三観に勝れたる法とは、いかなる法ぞや。
 答う。このこと誠に一大事の法門なり。「ただ仏と仏とのみ」の境界なるが故に、我らが言説に出だすべからず。故に、これを申すべからざるなり。ここをもって経文には、「我が法は妙にして思い難し」「言をもって宣ぶべからず」云々。妙覚果満の仏すら、なお不可説・不思議の法と説き給う。いかにいわんや、等覚の菩薩已下、乃至凡夫をや。
 問う。名字を聞かずんば、何をもって勝れたる法有りと知ることを得んや。
 答う。天台己証の法とはこれなり。当世の学者は、血脈相承を習い失うが故に、これを知らざるなり。相構えて相構えて、秘すべく秘すべき法門なり。しかりといえども、汝が志神妙なれば、その名を出だすなり。一言の法これなり。伝教大師の「一心三観を一言に伝う」と書き給うこれなり。

問う。いまだその法体を聞かず、いかん。
 答う。詮ずるところ、一言とは妙法これなり。
 問う。何をもって、妙法は一心三観に勝れたりということを知ることを得るや。
 答う。妙法は詮ずるところの功徳なり、三観は行者の観門なるが故なり。この妙法を仏説いて言わく「道場にて得しところの法」「我が法は妙にして思い難し」「この法は思量にあらず」「言をもって宣ぶべからず」云々。天台云わく「妙は不可思議」「言語の道断え、心行の所滅す」「法は十界十如・因果不二の法なり」。三諦と云うも、三観と云うも、三千と云うも、共に不思議の法とはいえども、天台の己証、天台の御思慮の及ぶところの法門なり。
 この妙法は諸仏の師なり。今の経文のごとくんば、久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして、爾前・迹門の教主、諸の仏菩薩の境界にあらず。経に「ただ仏と仏とのみ、いまし能く究尽したまえり」とは、迹門の界如三千の法門をば、迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり。本地難思の境智の妙法は、迹仏等の思慮に及ばず。いかにいわんや菩薩・凡夫をや。止観の二字をば、「観は仏知に名づけ、止は仏見に名づく」と釈すれども、迹門の仏知・仏見にして、妙覚極果の知見にはあらざるなり。その故は、止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正となす。迹門の正意これなり。故に知んぬ、迹仏の知見なりということを。ただし、止観に絶待不思議の妙観を明かすといえども、ただ一念三千の妙観に、しばらく与えて絶待不思議と名づくるなり。
 問う。天台大師、真実にこの一言の妙法を証得したまわざるや。

答う。内証はしからざるなり。外用においてはこれを弘通したまわざるなり。いわゆる内証の辺をば秘して、外用には三観と号して一念三千の法門を示し現し給うなり。
 問う。何が故ぞ、知りながら弘通し給わざるや。
 答う。時至らざるが故に、付嘱にあらざるが故に、迹化なるが故なり。
 問う。天台、この一言の妙法を証得し給える証拠これ有りや。
 答う。このこと天台一家の秘事なり。世に流布せる学者、これを知らず。灌頂玄旨の血脈とて、天台大師自筆の血脈一紙これ有り。天台御入滅の後は、石塔の中にこれ有り。伝教大師御入唐の時、八舌の鑰をもってこれを開き、道𨗉和尚より伝受し給う血脈とは、これなり。この書に云わく「一言の妙旨、一教の玄義」文。伝教大師の註血脈に云わく「夫れ、一言の妙法とは、両眼を開いて五塵の境を見る時は応に随縁真如なるべし。五眼を閉じて無念に住する時は当に不変真如なるべし。故に、この一言を聞くに、万法ここに達し、一代の修多羅一言に含まる」文。この両大師の血脈のごとくんば、天台大師の血脈相承の最要の法は、妙法の一言なり。一心三観とは、詮ずるところ妙法を成就せんがための修行の方法なり。三観は因の義、妙法は果の義なり。ただし、因のところに果有り、果のところに因有り、因果俱時の妙法を観ずるが故に、かくのごとき功能を得るなり。
 ここに知んぬ、「天台至極の法門は、法華本迹未分のところに無念の止観を立てて、最秘の大法とす」といえる邪義、大いなる僻見なりということを。四依弘経の大薩埵は、既に仏経に依って諸論を造る。天台、何ぞ仏説に背いて無念の止観を立てたまわんや。もし「この止観、法華経に依らず」といわば、天台の止観、教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん。すべてしかるべからず。哀れなり、哀れなり。
 伝教大師云わく「国主の制にあらざればもって遵行することなく、法王の教にあらざればもって信受することなけん」文。また云わく「四依、論を造るに、権有り実有り。三乗、旨を述ぶるに、三有り一有り。ゆえに、天台智者は、三乗の旨に順じて四教の階を定め、一実の教に依って一仏乗を建つ。六度に別有り、戒・度何ぞ同じからん。受法同じからず、威儀あに同じからんや。この故に、天台の伝法は深く四依に依り、また仏経に順ず」文。
 本朝の天台宗の法門は伝教大師よりこれを始む。もし「天台の止観、法華経に依らず」といわば、日本においては伝教高祖に背き、漢土においては天台に背く。両大師の伝法、既に法華経に依る。あにその末学これに違わんや。違うをもって知んぬ、当世の天台家の人々、その名を天台山に借るといえども、学ぶところの法門は、達磨の僻見と善無畏の妄語とに依るということを。
 天台・伝教の解釈のごとくんば、己心の中の秘法は、ただ妙法の一言に限るなり。しかれども、当世の天台宗の学者は、天台の石塔の血脈を秘し失うが故に、天台の血脈相承の秘法を習い失って、我と一心三観の血脈とて、我意に任せて書を造り、錦の袋に入れて頸に懸け、箱の底に埋めて高直に売る。故に、邪義国中に流布して、天台の仏法を破失せるなり。天台の本意を失い、釈尊の妙法を下す。これひとえに、達磨の教訓、善無畏の勧めなり。故に、止観をも知らず。一心三観・一心三諦をも知らず。一念三千の観をも知らず。本迹二門をも知らず。相待・絶待の二妙をも知らず。法華の妙観をも知らず。教相をも知らず。権実をも知らず。四教八教をも知らず。五時五味の施化をも知らず。教・機・時・国相応の義は申すに及ばず、実教にも似ず権教にも似ざるなり。道理なり、道理なり。
 「天台・伝教の所伝は、法華経は禅・真言より劣れり」と習うが故に、達磨の邪義、真言の妄語と打ち成って、権教にも似ず、実教にも似ず、二途に摂めざるなり。故に、大謗法罪顕れて、「止観は法華経に勝る」という邪義を申し出だして、失無き天台に失を懸けたてまつる。故に、高祖に背く不孝の者、法華経に背く大謗法罪の者と成るなり。
 夫れ、天台の観法を尋ぬれば、大蘇道場において三昧開発せしより已来、「目を開いて妙法を思えば随縁真如なり。目を閉じて妙法を思えば不変真如なり。この両種の真如は、ただ一言の妙法に有り。我妙法を唱うる時、万法ここに達し、一代の修多羅一言に含まる。詮ずるところ、迹門を尋ぬれば迹広く、本門を尋ぬれば本高し。しかじ、己心の妙法を観ぜんには」と思しめされしなり。
 当世の学者、この意を得ざるが故に、天台己証の妙法を習い失って、「止観は法華経に勝れ、禅宗は止観に勝れたり」と思って、法華経を捨てて止観に付き、止観を捨てて禅宗に付くなり。禅宗の一門云わく「松に藤懸かる。松枯れ藤枯れて後、いかん」「上らずして一枝」なんど云える天魔の語を深く信ずるが故なり。「修多羅の教主は松のごとく、その教法は藤のごとし。各々に諍論すといえども、仏も入滅して教法の威徳も無し。ここに知んぬ、修多羅の仏教は月を指す指なり。禅の一法のみ独り妙なり。これを観ずれば見性得達するなり」と云う大謗法の天魔の所為を信ずるが故なり。
 しかれども、法華経の仏は、寿命無量・常住不滅の仏なり。禅宗は滅度の仏と見るが故に、外道の無の見なり。「この法は法位に住して、世間の相は常住なり」の金言に背く僻見なり。禅は、法華経の方便・無得道の禅なるを、真実常住の法と云うが故に、外道の常見なり。もし与えてこれを言わば、仏の方便・三蔵教の分斉なり。もし奪ってこれを言わば、ただ外道の邪法なり。与は当分の義、奪は法華の義なり。法華の奪の義をもっての故に、禅は天魔・外道の法と云うなり。
 問う。禅を天魔の法と云う証拠、いかん。
 答う。前々に申すがごとし。

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