文永11年(1274)5月24日身延から富木常忍に与えられた書。
日蓮大聖人十大部御書の一つ。
内容は次の三つの段落に分けることが出来る。
1,釈尊は一代の諸経の勝劣を判じ、法華経第一を示す。(全集331頁、初めから333頁15行目まで)
2,法華経が流布する時と、法華経によって救われる機を明かす。(333頁16行目から336頁1行目)
3,末法に広宣流布する大法は法華経の肝要の法たる三大秘法であることを明示する。(336頁2行目から終わりまで)
長いので現代語訳にするのを省きます。家にこの御書の講義録がなかったのですが、
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要約を写しておきます:
インドから中国・日本へと渡り伝えられた経典・論書の勝劣・浅深・難易・説かれた順序を決定することは容易なことではない。各経典には、自らの教典を最第一と明言する一節があり、また諸宗の元祖と言われる人は、智徳すぐれ、上下万人より崇められている。したがって、末代の学識の至らない者(日蓮)が、たとえこれらの経や僧を批判しても信じる者はいない。けれども、正邪は明確にしなければならない。
考えてみれば、釈尊一代五十年の諸経の中で法華経の已今当の三字が最も大事である。法華経第一を明言する已今当の三説だけが、すべての経を対象とした勝劣判だからである。しかも、法華経は釈尊ばかりでなく、多宝仏や、十方分身仏の証明も加えられ、本化地涌千界の上行菩薩に説いたものである。
法華経と諸経を比較すると、二十の点で法華経が勝れている。そのうち三千塵点劫と五百塵点劫の法門が大事である。諸経では釈尊が菩薩としての修行をする期間についても、諸仏の仏果を得るための修行の位についても曖昧である。しかし化城喩品では法華経迹門の釈尊が三千塵点劫という長遠の修行を経、娑婆世界のあらゆる衆生に成仏の縁を結ぶ有縁の菩薩であることを明示されている。したがって阿弥陀仏等の権仏は今の世の日本の人々とは無縁なのである。
次に仏果を得たことについて論ずれば、法華経本門の釈尊の五百塵点劫成道に勝るものはない。したがって釈尊をないがしろにして大日如来や阿弥陀仏を崇めるのは不幸この上ないのである。
問うていう。(ここから問答形式)それでは法華経迹門は誰のために説かれたのであろうか。迹門は順に見れば、第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫である。逆に見れば、釈尊滅後の衆生のためである。釈尊滅後を以てこれを考えれば、正法像法は傍意となり、末法が正意となる。
中でも日蓮こそ正意である。その理由は法難の様相が経文に合致しているからである。本門についてはどうか。略開近顕遠は釈尊在世の衆生を悟らせるためである。広開近顕遠は一向に釈尊滅後の衆生のためである。釈尊在世の衆生のための湧出品の略開近顕遠の真意は何か。これによって釈尊初成道以来の弟子達や大菩薩・二乗、梵天・帝釈・日月・四天・竜王等が仏と同じ境涯に達することができる、ということである。広開近顕遠はどうか。一往は釈尊滅後の衆生のためであるが、別しては末法の今、日蓮等のために説かれたのである。その証文として湧出品の略開近顕遠・動執生疑の文を始め、寿量品・分別功徳品・神力品・薬王品さらに涅槃経にあり、もし末法に広宣流布しなければ、釈尊はウソつきになってしまう。それでは多宝如来の証明や十方分身の広長舌相、地涌の菩薩の湧出は一体誰のためなのか。皆、末法我らのためなのである。だから、天台大師や伝教大師は末法の到来を願っているではないか。
釈尊滅後、竜樹・天親・天台・伝教が説き残された秘法とは何か。それは、本門の本尊と戒壇と題目の三大秘法である。末法においては、経のみが残っているが、得道がない。皆謗法に陥っている。だから、逆縁の衆生のためには、三大秘法の南無妙法蓮華経を教えていくしかないのである。どうして広略を捨てて要を取るのか。玄奘は略を捨て広を好み、鳩摩羅什は広を捨て略を好んだ。日蓮は広も略もし捨て肝要つまり上行菩薩が釈尊から伝えられた妙法蓮華経の五字を取るのである。では、三大秘法が弘まる時には、何か前兆があるのか。もちろんである。では今の世に、前兆はあるのか。正嘉の大地震や文永の大彗星を始め、現在に至るまで様々な、大きな天災や地震があるではないか。仁王経・金光明経・大集経、守護経、薬師経などに説かれている様々な災難は皆すでに現れているのである。では、これらの諸難の起こる原因は何か。邪智の比丘を崇め、正法の行者を迫害するからである。そのような歴史は過去にもあったが、大難が起きなかったのはなぜか。災難というのは人によって大小がある。過去の迫害はまだ罪が軽いが、今は劣を持って勝を破り、人々の心の内面から正法を失わせようというのであるから、比べ物にならないほど、罪も重く国難も大きいのである。我が門弟はこのことをしっかり見定めて、正法を信じ求めていきなさい。
国土が乱れきった時こそ、上行等の聖人が出現し、三大秘法を建立し、全世界の人々が一同に題目を唱え広宣流布していくことは疑いのないことである。
法華取要抄
文永11年(ʼ74)5月24日 53歳 富木常忍
扶桑沙門日蓮これを述ぶ。
夫れ以んみれば、月支西天より漢土・日本に渡来するところの経論、五千・七千余巻なり。その中の諸経論の勝劣・浅深・難易・先後は、自見に任せてこれを弁ぜんとすれば、その分に及ばず。人に随い宗に依ってこれを知らんとすれば、その義紛紕す。
いわゆる、華厳宗云わく「一切経の中にこの経第一」。法相宗云わく「一切経の中に深密経第一」。三論宗云わく「一切経の中に般若経第一」。真言宗云わく「一切経の中に大日の三部経第一」。禅宗云わく、あるいは云わく「教内には楞伽経第一」、あるいは云わく「首楞厳経第一」、あるいは云わく「教外別伝の宗なり」。浄土宗云わく「一切経の中に浄土三部経、末法に入っては機教相応して第一」。俱舎宗・成実宗・律宗云わく「四阿含ならびに律論は仏説なり。華厳経・法華経等は仏説にあらず、外道の経なり」。あるいは云わく、あるいは云わく。
しかるに、彼々の宗々の元祖等、杜順・智儼・法蔵・澄観、玄奘・慈恩、嘉祥・道朗、善無畏・金剛智・不空、道宣・鑑真、曇鸞・道綽・善導、達磨・慧可等なり。これらの三蔵・大師等は皆、聖人なり、賢人なり。智は日月に斉しく、徳は四海に弥れり。その上、各々、経・律・論に依り、たがいに証拠有り。したがって、王臣国を傾け、土民これを仰ぐ。末世の偏学たとい是非を加うとも、人信用するに至らず。
しかりといえども、宝山に来り登って瓦石を採取し、栴檀に歩み入って伊蘭を懐き収めば、悔恨有らん。故に、万人の謗りを捨てて、みだりに取捨を加う。我が門弟、委細にこれを尋討せよ。
夫れ、諸宗の人師等、あるいは旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず、あるいは新訳の経論を見て旧訳を捨て置き、あるいは自宗に執著し、曲げて己義に随い、愚見を注し止めて後代にこれを加添す。株杭に驚き騒いで兎獣を尋ね求め、智、円扇に発して、仰いで天月を見る。非を捨て理を取るは智人なり。
今、末の論師・本の人師の邪義を捨て置いて、専ら本経・本論を引き見るに、五十余年の諸経の中に、法華経第四の法師品の中の「已今当」の三字、最も第一なり。諸の論師・諸の人師、定めてこの経文を見けるか。しかりといえども、あるいは相似の経文に狂い、あるいは本師の邪会に執し、あるいは王臣等の帰依を恐るるか。
いわゆる、金光明経の「これ諸経の王なり」、密厳経の「一切経の中に勝れたり」、六波羅蜜経の「総持第一」、大日経の「いかんが菩提」、華厳経の「能くこの経を信ずるは最もこれ難し」、般若経の「法性に会入し、一事をも見ず」、大智度論の「般若波羅蜜は最も第一なり」、涅槃論の「今日、涅槃のは」等なり。
これらの諸文は法華経の「已今当」の三字に相似せる文なり。しかりといえども、あるいは梵帝・四天等の諸経に対当すればこれ諸経の王なり。あるいは小乗経に相対すれば諸経の中の王なり。あるいは華厳・勝鬘等の経に相対すれば一切経の中に勝れたり。全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対してこれ諸経の王の大王なるにあらず。詮ずるところは、所対を見て経々の勝劣を弁うべきなり。強敵を臥せ伏して始めて大力を知見すとはこれなり。
その上、諸経の勝劣は、釈尊一仏の浅深なり、全く多宝・分身助言を加うるにあらず。私説をもって公事に混ずることなかれ。
諸経は、あるいは二乗・凡夫に対揚して小乗経を演説し、あるいは文殊・解脱月・金剛薩埵等に対向す。弘伝の菩薩は、全く地涌千界の上行等にはあらず。
今、法華経と諸経とを相対するに、一代に超過すること二十種これ有り。その中、最要二つ有り。いわゆる三・五の二法なり。
三とは三千塵点劫なり。諸経はあるいは釈尊の因位を明かすこと、あるいは三祇、あるいは動逾塵劫、あるいは無量劫なり。梵王云わく、この土には、二十九劫より已来、知行の主なり。第六天・帝釈・四天王等も、もってかくのごとし。釈尊と梵王等と、始めは知行の先後これを諍論す。しかりといえども、一指を挙げてこれを降伏してより已来、梵天頭を傾け魔王掌を合わせ、三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむる、これなり。
また諸仏の因位と釈尊の因位とこれを糾明するに、諸仏の因位は、あるいは三祇、あるいは五劫等なり。釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来、娑婆世界の一切衆生の結縁の大士なり。この世界の六道の一切衆生は、他土の他の菩薩に有縁の者一人もこれ無し。法華経に云わく「その時法を聞きし者は、各諸仏の所に在り」等云々。天台云わく「西方は仏別にして縁異なり。故に子父の義成ぜず」等云々。妙楽云わく「弥陀・釈迦の二仏既に殊なり○いわんや、宿昔の縁別にして化導同じからざるをや。結縁は生のごとく、成熟は養のごとし。生・養の縁異なれば、父子成ぜず」等云々。当世日本国の一切衆生、弥陀の来迎を待つは、譬えば、牛の子に馬の乳を含め、瓦の鏡に天月を浮かべんがごとし。
また果位をもってこれを論ずれば、諸仏如来、あるいは十劫・百劫・千劫已来の過去の仏なり。教主釈尊は、既に五百塵点劫より已来、妙覚果満の仏なり。
大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我らが本師・教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮かぶとはこれなり。華厳経の十方の台上の毘盧遮那、大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇なり。例せば、世の王の両臣のごとし。この多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。この土の我ら衆生は、五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり。不孝の失によって今に覚知せずといえども、他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは、譬えば天月の清水に浮かぶがごとく、無縁の仏と衆生とは、譬えば聾者の雷の声を聞き、盲者の日月に向かうがごとし。
しかるに、ある人師は釈尊を下して大日如来を仰崇し、ある人師は世尊は無縁なり阿弥陀は有縁なりと。ある人師云わく、小乗の釈尊と。あるいは華厳経の釈尊と。あるいは法華経迹門の釈尊と。これらの諸師ならびに檀那等、釈尊を忘れて諸仏を取ることは、例せば、阿闍世太子の頻婆沙羅王を殺し釈尊に背いて提婆達多に付きしがごときなり。二月十五日は釈尊御入滅の日、乃至十二月の十五日も三界の慈父の御遠忌なり。善導・法然・永観等の提婆達多に誑かされて、阿弥陀仏の日と定め了わんぬ。四月八日は世尊御誕生の日なり。薬師仏に取り了わんぬ。我が慈父の忌日を他仏に替うるは孝養の者なるか、いかん。寿量品に云わく「我もまたこれ世の父」「狂子を治せんがための故に」等云々。天台大師云わく「本この仏に従って初めて道心を発し、またこの仏に従って不退地に住す乃至なお百川の応須に海に潮ぐべきがごとく、縁に牽かれて応生すること、またかくのごとし」等云々。
問うて曰わく、法華経は誰人のためにこれを説くや。
答えて曰わく、方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り。上より下に向かって次第にこれを読まば、第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫なり。安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次にこれを読まば、滅後の衆生をもって本となす。在世の衆生は傍なり。滅後をもってこれを論ぜば、正法一千年・像法一千年は傍なり。末法をもって正となす。末法の中には、日蓮をもって正となすなり。
問うて曰わく、その証拠いかん。
答えて曰わく、「いわんや滅度して後をや」の文これなり。
疑って云わく、日蓮を正となす正文いかん。
答えて云わく、「諸の無智の人の、悪口・罵詈等し、および刀杖を加うる者有らん」等云々。
問うて云わく、自讃はいかん。
答えて曰わく、喜び身に余るが故に、堪え難くして自讃するなり。
問うて曰わく、本門の心いかん。
答えて曰わく、本門において二つの心有り。一には、涌出品の略開近顕遠は、前四味ならびに迹門の諸衆をして脱せしめんがためなり。二には、涌出品の動執生疑より一半、ならびに寿量品、分別功徳品の半品、已上一品二半を、広開近顕遠と名づく。一向に滅後のためなり。
問うて曰わく、略開近顕遠の心いかん。
答えて曰わく、文殊・弥勒等の諸大菩薩、梵天・帝釈・日月・衆星・竜王等、初成道の時より般若経に至る已来は、一人も釈尊の御弟子にあらず。これらの菩薩・天人は、初成道の時、仏いまだ説法したまわざるより已前に、不思議解脱に住して、我と別・円二教を演説す。釈尊その後に、阿含・方等・般若を宣説したもう。しかりといえども、全くこれらの諸人の得分にあらず。既に別・円二教を知りぬれば、蔵・通をもまた知れり。勝は劣を兼ぬる、これなり。委細にこれを論ぜば、あるいは釈尊の師匠なるか。善知識とはこれなり。釈尊に随うにあらず。法華経の迹門の八品に来至して、始めて未聞の法を聞いて、これらの人々は弟子と成りぬ。舎利弗・目連等は、鹿苑より已来、初発心の弟子なり。しかりといえども、権法のみを許せり。今、法華経に来至して実法を授与す。法華経本門の略開近顕遠に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は、位妙覚に隣り、また妙覚の位に入るなり。もししかれば、今、我ら天に向かってこれを見れば、生身の妙覚の仏、本位に居して衆生を利益する、これなり。
問うて曰わく、誰人のために広開近顕遠の寿量品を演説するや。
答えて曰わく、寿量品の一品二半は、始めより終わりに至るまで、正しく滅後の衆生のためなり。滅後の中には、末法今時の日蓮等がためなり。
疑って云わく、この法門、前代にいまだこれを聞かず。経文にこれ有りや。
答えて曰わく、予が智、前賢に超えず。たとい経文を引くといえども、誰人かこれを信ぜん。卞和が啼泣、伍子胥が悲傷これなり。
しかりといえども、略開近顕遠・動執生疑の文に云わく「しかも諸の新発意の菩薩は、仏滅して後において、もしこの語を聞かば、あるいは信受せずして、法を破する罪業の因縁を起こさん」等云々。文の心は、寿量品を説かずんば、末代の凡夫、皆、悪道に堕ちん等なり。寿量品に云わく「この好き良薬を、今留めてここに在く」等云々。文の心は、上は過去のことを説くに似たるようなれども、この文をもってこれを案ずるに、滅後をもって本となす。まず先例を引くなり。
分別功徳品に云わく「悪世末法の時」等云々。神力品に云わく「仏滅度して後に、能くこの経を持たんをもっての故に、諸仏は皆歓喜して、無量の神力を現じたもう」等云々。薬王品に云わく「我滅度して後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむることなけん」等云々。また云わく「この経は則ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり」等云々。涅槃経に云わく「譬えば、七子あり、父母平等ならざるにあらざれども、しかも病者において心即ちひとえに重きがごとし」等云々。七子の中の第一・第二は、一闡提・謗法の衆生なり。諸病の中には法華経を謗ずるが第一の重病なり。諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり。
この一閻浮提は縦広七千由善那、八万の国これ有り。正像二千年の間、いまだ広宣流布せざる法華経を当世に当たって流布せしめずんば、釈尊は大妄語の仏、多宝仏の証明は泡沫に同じく、十方分身の仏の助舌も芭蕉のごとくならん。
疑って云わく、多宝の証明、十方の助舌、地涌の涌出、これらは誰人のためぞや。
答えて曰わく、世間の情に云わく、在世のためと。日蓮云わく、舎利弗・目犍等は、現在をもってこれを論ぜば、智慧第一・神通第一の大聖なり。過去をもってこれを論ぜば、金竜陀仏・青竜陀仏なり。未来をもってこれを論ぜば華光如来、霊山をもってこれを論ぜば三惑頓尽の大菩薩、本をもってこれを論ぜば内秘外現の古菩薩なり。文殊・弥勒等の大菩薩は過去の古仏、現在の応生なり。梵帝・日月・四天等は初成已前の大聖なり。その上、前四味・四教、一言にこれを覚りぬ。仏の在世には一人においても無智の者これ無し。誰人の疑いを晴らさんがために多宝仏の証明を借り、諸仏舌を出だし、地涌の菩薩を召さんや。方々もって謂れなきことなり。したがって、経文に「いわんや滅度して後をや」「法をして久しく住せしむ」等云々。これらの経文をもってこれを案ずるに、ひとえに我らがためなり。したがって、天台大師当世を指して云わく「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」。伝教大師当世を記して云わく「正像やや過ぎ已わって、末法はなはだ近きに有り」等云々。「末法太有近(末法はなはだ近きに有り)」の五字は、我が世は法華経流布の世にあらずという釈なり。
問うて云わく、如来の滅後二千余年、竜樹・天親・天台・伝教の残したまえるところの秘法は何物ぞや。
答えて曰わく、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。
問うて曰わく、正像等に何ぞ弘通せざるや。
答えて曰わく、正像にこれを弘通せば、小乗・権大乗・迹門の法門、一時に滅尽すべきなり。
問うて曰わく、仏法を滅尽するの法、何ぞこれを弘通せんや。
答えて曰わく、末法においては大小・権実・顕密共に教のみ有って得道無し。一閻浮提、皆、謗法となり了わんぬ。
逆縁のためには、ただ妙法蓮華経の五字に限るのみ。例せば不軽品のごとし。我が門弟は順縁なり。日本国は逆縁なり。
疑って云わく、何ぞ広・略を捨てて要を取るや。
答えて曰わく、玄奘三蔵は略を捨てて広を好み、四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什三蔵は広を捨てて略を好み、千巻の大論を百巻と成せり。
日蓮は広・略を捨てて肝要を好む。いわゆる、上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。「九方堙が馬を相するの法は玄黄を略して駿逸を取り、支道林が経を講ずるには細科を捨てて元意を取る」等云々。仏既に宝塔に入って二仏座を並べ、分身来集し、地涌を召し出だし、肝要を取って末代に当てて五字を授与せんこと、当世異義有るべからず。
疑って云わく、今世にこの法を流布せば、先相これ有りや。
答えて曰わく、法華経に「如是相乃至本末究竟等」云々。天台云わく「蜘蛛掛かって喜び事来り、鳱鵲鳴いて客人来る。小事すらなおもってかくのごとし。いかにいわんや大事をや」取意。
問うて曰わく、もししからば、その相これ有りや。
答えて曰わく、去ぬる正嘉年中の大地震、文永の大彗星、それより已後、今に種々の大いなる天変地夭、これらはこの先相なり。仁王経の七難・二十九難・無量の難、金光明経・大集経・守護経・薬師経等の諸経に挙ぐるところの諸難、皆これ有り。ただし、無きところは二・三・四・五の日出ずる大難なり。しかるを、今年、佐渡国の土民口に云わく「今年正月二十三日の申時、西の方に二つの日出現す」。あるいは云わく「三つの日出現す」等云々。「二月五日には東方に明星二つ並び出ず。その中間は三寸ばかり」等云々。この大難は日本国先代にもいまだこれ有らざるか。
最勝王経の王法正論品に云わく「変化の流星堕ち、二つの日俱時に出で、他方の怨賊来って、国人喪乱に遭わん」等云々。首楞厳経に云わく「あるいは二つの日を見、あるいは両つの月を見る」等。薬師経に云わく「日月薄蝕の難」等云々。金光明経に云わく「彗星しばしば出で、両つの日並び現じ、薄蝕恒無し」。大集経に云わく「仏法実に隠没すれば乃至日月も明を現ぜず」等。仁王経に云わく「日月度を失い、時節返逆し、あるいは赤日出で、黒日出で、二・三・四・五の日出で、あるいは日蝕して光無く、あるいは日輪一重、二・三・四・五重の輪現ず」等云々。この日月等の難は、七難・二十九難・無量の諸難の中に第一の大悪難なり。
問うて曰わく、これらの大中小の諸難は、何に因ってこれを起こすや。
答えて曰わく、最勝王経に云わく「非法を行ずる者を見て当に愛敬を生ずべし。善法を行ずる人において苦楚して治罰せん」等云々。法華経に云わく、涅槃経に云わく。金光明経に云わく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、星宿および風雨、皆、時をもって行われず」等云々。大集経に云わく「仏法実に隠没すれば乃至かくのごとき不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊す」等。仁王経に云わく「聖人去らん時は、七難必ず起こらん」等。また云わく「法にあらず律にあらずして比丘を繫縛すること、獄囚の法のごとくす。その時に当たって、法滅せんこと久しからず」等。また云わく「諸の悪比丘は、多く名利を求め、国王・太子・王子の前において、自ら破仏法の因縁、破国の因縁を説かん。その王別えずしてこの語を信聴せん」等云々。これらの明鏡を齎って当時の日本国を引き向かうるに、天地を浮かぶること、あたかも符契のごとし。眼有らん我が門弟はこれを見よ。当に知るべし、この国に悪比丘等有って、天子・王子・将軍等に向かって讒訴を企て、聖人を失う世なり。
問うて曰わく、弗舎蜜多羅王・会昌天子・守屋等は月支・真旦・日本の仏法を滅失し、提婆菩薩・師子尊者等を殺害す。その時、何ぞこの大難を出ださざるや。
答えて曰わく、災難は人に随って大小有るべし。正像二千年の間の悪王・悪比丘等は、あるいは外道を用い、あるいは道士を語らい、あるいは邪神を信ず。仏法を滅失すること大なるに似たれども、その科なお浅きか。今、当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは、小をもって大を打ち、権をもって実を失う。人心を削って身を失わず、寺塔を焼き尽くさずして自然にこれを喪ぼす。その失、前代に
超過せるなり。
我が門弟これを見て法華経を信用せよ。目を瞋らして鏡に向かえ。天瞋るは人に失有ればなり。二つの日並び出ずるは、一国に二りの国王並ぶ相なり。王と王との闘諍なり。星の日月を犯すは、臣の王を犯す相なり。日と日と競い出ずるは、四天下一同の諍論なり。明星並び出ずるは、太子と太子との諍論なり。
かくのごとく国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑いなきものか。