御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

譬喩品第一の通解 (大白3月号の御義口伝を含むところ)

譬喩品ということについて、文句の五には次のようにある。譬とは比況ー此れをあげてと比し、喩とは暁訓ー朝気によって深きを教えるのである。仏の大慈悲はやむことなく、巧みなる智慧は無辺に働くのであり、さらに迷う者のために、樹を動かして、風というものを教え、扇をかかげて、月というものをわからせるのであると。

御義口伝には次のように仰せである。「大悲」とは、母親が子を思う慈悲、慈愛の念のごときもので、今日蓮大聖人の慈悲こそ、一切衆生をあくまで救いきっていこうという大慈悲なのである。章安大師が涅槃経疏に「彼がために悪を除き去ることは、すなわちこれ彼の親」というように、一切衆生の不幸たる邪宗邪義を折伏し、取り除く、抜苦与楽の振る舞いこそ慈悲なのである。

「功智(ぎょうち)」とは、最高の智慧の法門である南無妙法蓮華経のことである。諸宗によったは一切成仏することはできないと断ずるのである。湧出品に地涌の菩薩をさして「巧於難問答」(難問答に巧にして)とあるように、巧智とは折伏にはげむわれわれ地涌の菩薩に約するのである。

「更に」とは一往は釈尊在世の中下の機根の衆生のために譬喩を説くのであるが、再往は滅後末法衆生のためであると知るべきである。

「樹を動かす」とは煩悩をあらわし、それにより「風を訓(おし)える」とは、即菩提となる。「扇を挙げる」とは生死をあらわし、それにより「月を諭しおしえる」とは、即涅槃をあらわす。生死即涅槃となるのである。今、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱える時、大白牛車たる一仏乗の南無妙法蓮華経により、煩悩即菩提、生死即涅槃と転じ、即身成仏することができる。

そのようにして妙楽は「記」の五に「樹と扇と風と月とは、いずれもただ円教の理をあらわしているのである」と説いている。また「法説周において明かされた実相というのは、どうして隠れたり顕われたりするであろうか。まったくそうではない。長風はやむことなく続いているのであり、空の月は常に虚空にかかっているのである」と。この釈をよく考えるべきである。

この釈で「隠」とは「死」、「顕」とは「生」をあらわす。長風とは我らの息であり、空月とは心の月をあらわしている。すなわち、法華の生死、真実の生命観に立ってみるならば、生命というのは過去、現在、未来の三世にわたって、常住不変に存在するのであり、隠顕ということはありえないのである。

さて、我々の息風とは吐くところの言語であり、これすなわち南無妙法蓮華経のあらわれである。一心法界の覚月(南無妙法蓮華経)は常住にして、永遠に存在し続けるのである。この生命の本然の姿を「円教の理」と妙楽は釈しているのである。「円」とは法界三千をあらわすのであり、「教」とは三千羅列厳しき因果の理法であり、「理」とは実相の一理である南無妙法蓮華経である。

 

御義口伝講義録(上)より

この譬喩品の範囲の講義で私が気づいたことを書きます。

慈悲というのは修行して身につくものではないといわれていて、御本尊にひたすら題目をあげていったとき、自然と仏の慈悲の境地に立脚し、我が生命にほとばしりでるものだそうです。

百万言を尽くしても慈悲なき人の言葉は相手に感動を与えるものではない。相手を思い、幸福を願って心からの言々句々は、その人の心を根底から揺り動かさずにはおかないのです。

慈悲ある政治こそ、王仏冥合であり、第三文明であり、新社会主義の建設である、と書かれています。(325頁)

法華の生死というのは六道輪廻の生死ではなく、永遠の生命に立脚し、妙法に照らされた生死が法華の生死なのである、と。爾前の生死は今世だけを説き、法華に説く生命論は生命の実体は永遠であるということ。

総勘文抄(563頁)には「生と死と二つの理は生死の理なり、妄想なり、顛倒なり。本覚のうつつをもって我が心証を糾(ただ)せば生ずべき始めもなきがゆえに死すべき終わりもなし、すでに生死を離れたる心法にあらずや」とある。