第一 「普賢菩薩」の事
文句の十に云わく「『勧発(かんぽつ)』とは、恋法の辞(ことば)なり」。
御義口伝に云わく、「勧発」とは、「勧」は(勧めるという意味で)化他をあらわし、「発」は(発心であり)自行のことである。
「普」とは、諸法実相、迹門の不変真如の理である。「賢」とは、智慧の義であり、本門の随縁真如の智をあらわす。
したがって、普賢品二十八とは、経末に来って(法華経二十八品最後の締めくくりとして、)本迹二門を、(その文底に秘沈されている南無妙法蓮華経を)※恋法(信心)することをあらわしている。
所詮、今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱える者は、普賢菩薩の守護を受けることができるのである。
※恋法とは信心であると講義にありました。ネットで検索しても出てこなかったです。
<講義より>
普賢薩とは生命論に約せば、あらゆる学問を究め真理を求しゆく生命といえよう。だが、妙法を受持しない人は、どんなに大学者と言おうが、その専門分野の学者に過ぎない。しかも、一人の学者の専門分野とは、部分の中の部分であり、それ以外のことについては、素人と何ら変わりはない。故に妙法を知らざる学者は迹門の普賢菩薩というべきであろう。
妙法は一切万法の極理であり、生命それ自体の哲理である。この妙法を受持して初めて、根本の哲理の上から正しい全体観を持って見渡していけるのである。故に、妙法を受持した学者こそ、本門の普賢菩薩であり、その専門知識も誤りなく生かしていけるのである。
また普賢菩薩勧発品第二十八の題名において、勧発とは恋法すなわち信心であり、普賢とは理、すなわち教学、学問である。
かつて戸田第二代会長は「信は理を求め、理は信を高める」と教えられた。即ち仏法哲学を探求すればするほど、その偉大さ、深遠さ、広大さに打たれ、信心が深まるのである。普賢品第二十八の意は、ここにあると言っても過言ではない。
第二 「若法華経行閻浮提(もし法華経の閻浮提に行わるるは)」の事
御義口伝に云わく、この法華経を閻浮提に行ずることは、普賢菩薩の威神の力に依るのである。
この(法華)経の広宣流布することは、普賢菩薩の守護によるのである。