御書大好き!!

御書を拝読して感動したことなどを書きます。

御義口伝 普賢品 第六 全781頁 新1086頁

すごく長い御義口伝が出てきましたね。珍しいです。ここ何度も読んでわかりたいですね。独断と偏見で赤字にしてるとこありますけど、読みにくかったらすみません。

 

第六 「此人不久当詣道場(この人は久しからずして当に道場に詣るべし)」の事


  御義口伝に云わく、「此人(しにん)」とは、法華経の行者のことである。法華経を持ち実践する場を、「当詣道場」というのである。ここを去ってかしこに行くにはあらざるなり。「道場」とは、十界の衆生の住所を云うなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所は、山谷曠野、皆、寂光土なり。これを「道場」と云うなり。「この因、易(か)わることなきが故に、『直至(直ちに至る)』という」の釈、これを思うべきである。


  この品の時、最上第一の相伝がある。釈尊、八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り与えられたのである。八字とは「当起遠迎、当如敬仏(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うがごとくすべし)」の文なり。

この文までで法華経の説法は終わる。「当」の字は未来のことであり、末法をさす。「当起遠迎」とは、必ず仏のごとくに法華経の行者を敬うべきであるという経文である。法師品には「於此経巻敬視如仏(この経巻において敬い視ること仏のごとし)」といっている。

八年の御説法の口開き(最初)は南無妙法蓮華経方便品の「諸仏智慧」、終わりは「当起遠迎、当如敬仏」の八字である。ただこの八字をもって、法華一部の要路としたのである。されば、文句の十に云わく「『当起遠迎、当如敬仏』よりは、その信ずる者の功徳を結することを述ぶ」。法華一部は、「信」の一字をもって本とせり云々。

 


  尋ねて云わく、今の法華経において、序品には首に「如」の字を置き、終わりの普賢品には「去」の字を置く。羅什三蔵の心地、いかなる表事の法門なのか。
  答えて云わく、今経の法体は、実相と久遠との二義をもって正体となすなり。始めの「如」の字は実相を表し、終わりの「去」の字は久遠を表すのだ。その故は、実相は理なり、久遠は事なり。理は空の義なり、空は如の義なり。これによって、「如」をば理・空に相配する。釈に云わく「『如』は不異に名づく。即ち空の義なり」。久遠は事なり。その故は、本門寿量の心は、事円の三千をもって正意となすのである。「去」は久遠に当たる。


  「去」は開の義、「如」は合の義なり。開は分別の心であり、合は無分別の意である。この開合を生・仏に配当する時は、合は仏界、開は衆生をさす。

序品の始めに「如」の字を顕したるは、生仏不二の義をあらわす。迹門は不二の分なり、不変真如なるが故である。この「如是我聞(かくのごときを我聞きき)」の「如」をば、不変真如の「如」と習う。空仮中の三諦には、「如」は空、「是」は中、「我聞」は仮諦迹門は空を面となす、故に不二の上の而二である。しかるあいだ、而二の義を顕す時、同聞衆を別に列ぬるなり。さて、本門の終わりの「去」は、随縁真如にして而二の分なり。よって「去」の字を置くなり。「作礼而去(礼を作して去りにき)」の「去」は、随縁真如の如と約束するなり。本門は而二の上の不二なり。「而二にして不二なり」「常に同じく常に別なることは、古今法爾なり」の釈、これを思うべし。


  この「去」の字は、彼の「五千起去」の「去」と習う。その故は、五千とは五住の煩悩と相伝するあいだ、五住の煩悩が己心の仏を礼して去るという義なり。
  「如」「去」の二字は、生死の二法である。伝教云わく「『去』は無来の如来、無去の円去なり」等云々。「如」の字は「一切法はこれ心なり」の義、「去」の字は「ただ心のみこれ一切法なり」の義なり。一切法はこれ心なり」は、迹門の不変真如である。「ただ心のみこれ一切法なり」は、本門の随縁真如である。しかるあいだ、法界を一心に縮むるは、「如」の義なり。法界に開くは、「去」の義なり。三諦三観の口決相承と意同じ云々。


  一義に云わく、「如」は実なり、「去」は相なり。実は心王、相は心数なり。また、諸法は「去」なり、実相は「如」なり。今経一部の始終、諸法実相の四字に習うとは、これなり。釈に云わく「今経は何をもって体となすや。諸法実相をもって体となす」。
  今一重立ち入って日蓮が修行に配当せば、「如」とは「如説修行(説のごとく修行す)」の「如」なり。その故は、結要五字の付嘱を宣べたもう時、宝塔品に事起こり、「声徹下方(声は下方に徹す)」し「近令有在(近く在る有らしむ)」「遠令有在(遠く在る有らしむ)」と云って、「有在」の二字をもって本化・迹化の付嘱を宣ぶるなり。よって、本門の密序と習うなり。
  さて、二仏並座し分身の諸仏集まって「是好良薬(この好き良薬)」の妙法蓮華経を説き顕し、釈尊十種の神力を現じて四句に結び、上行菩薩に付嘱したもうその付嘱とは、妙法の首題なり総別の付嘱、塔中・塔外これを思うべし。これによって、涌出・寿量に事顕れ、神力・嘱累に事竟わるなり。この妙法等の五字を、末法・白法隠没の時、上行菩薩御出世あって、五種の修行の中には、四種を略してただ受持の一行にして成仏すべしと、経文に親(まのあた)りこれ在り。

それとは、神力品に云わく「於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑(我滅度して後において、応にこの経を受持すべし。この人は仏道において、決定して疑いあることなけん)」云々。この文明白なり。よって、この文をば、仏の回向の文と習うなり。


  さるあいだ、この経を受持し奉る心地は、「如説修行」の「如」なり。この「如」の心地に妙法等の五字を受持し奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、たちまち無明・煩悩の病をことごとく去って、妙覚・極果の膚(はだえ)を瑩(みが)くことを顕すが故に、さて「去」の字を終わりに結ぶなり。

よって、上に「受持仏語(仏語を受持す)」と説けり。煩悩・悪覚の魔王も「諸法実相」の光に照らされて、「一心一念法界に遍し」と観達せらる。しかるあいだ、還って己心の仏を礼するが故に、「作礼而去(礼をなして去りにき)」とは説きたもうなり。「彼々三千、互いに遍することまたしかり(己心の三千の生命が御本尊の一念三千と境智冥合し、円融相即して妙法の当体とあらわれるという意味)」の釈、これを思うべし。秘すべし、秘すべし。唯授一人の相承なり。口外すべからず。しかれば、この「去」の字は、「不去而去(去らずして去る)」の「去」と相伝するをもって至極となすなり云々。